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Re:れんだいこのカンテラ時評280 れんだいこ 2007/04/06 19:38
【れんだいこのマルクス主義出藍宣言の辞】
れんだいこは、若い頃マルクス主義にかぶれた。運動の期間としてはそう長くは無い。今50歳を越す身になって思うことは、あの時私の胸中を捉えたマルクス主義とは一体いかなる思想であったのかということである。今から5年ほど前になるが、れんだいこはそう書いている。私が被れるに値があったのかなかったのかの見極めをしてみたいと云う思いが忽然と湧いてきている。世間で云われているような既に用済みの時代遅れの思想であり主義に過ぎないと言うのであれば、それに被れたれんだいこは単におぼこかったということになる。しかし、果たしてそうであろうか。れんだいこほどの者を夢中にさせた限りには、もっと何らかの内実があったのではないのか、という思いのほうが禁じえない。
そういう思いと同時に次のことも踏まえねばならないように思うようになった。世上で流布されているマルクス主義は実はマルクス主義ではなかったのではなかろうか。このことに関しては、マルクス自身が存命中に、「私はマルクス主義者ではない」と語っていたというエピソードを想起すれば更に補強されるだろう。世上にマルクス主義が流布されてより百数十年、この間人民大衆の抵抗運動の際の有力な思想的武器となってきた。
しかしながら、余りにもマルクス主義理論のまばゆさに魅惑され、土着の一揆思想を放擲したのは惜しいことであった。願うらくは、伝統的土着思想の土壌を基盤にしながら、自由自主自律的にマルクス主義を批判的に受容すべきであった。後付けで見えてくることではあるけれども。
1917年のロシアにおける十月革命はマルクス主義の実践的勝利でもあった。以降、ソ連邦体制の国際的広がりとその抑止に対するせめぎ合いが世界史的テーマとなってきた。しかし、旧権力打倒の革命には成功したが、建国継続革命は首尾よくは進展しなかった。結果的に、革命前の宣伝文句の魅力に反して実践的には正反対物を生み出してしまった。その原因は未だ充分には検証されてない。故に総括を為し得ていない。廻り廻って、今日ではソ連邦体制の方があえなく崩壊するという憂き目を見るに至っている。
れんだいこが思うに、そういう史的結果の遠因を訪ねるのに、理論が未熟だということにあるのではなかろうか。更に、この間のマルクス主義運動が、マルクス主義の何たるかについて肝心なところを明らかにせぬままあるいは理解されぬまま任意な自己流の、あるいは政党のご都合主義風のマルクス主義が真性のマルクス主義として喧伝され、失敗するべくして失敗したのではなかろうか。その挙句、マルクス主義そのものが古くなったとか、間違いであるとか、破産したとか敗北したとか多種多様に評論されているのではなかろうか。
そういう意味において、れんだいこは、マルクス主義を一から構築し直したい。れんだいこが憧憬し理解したマルクス主義の一番肝要なところは、例えて云えば我々の頭脳のシワを増やすものであり、そうでなければならなかった。本来のマルクス主義はこれに大いなる功績があり、人類史上の営みを要点整理し、新時代の息吹をメッセージするその手法において、人類の認識の大いなる前進を刻印していたのではなかったか。
従って、マルクス主義的観点を持つか否かで世界史が変わるほどの、マルクス主義登場以降の人類の歩みに大きな寄与を為す勲一等的貢献を為す思想的営為ではなかったのか。そういうものとしてマルクス主義を位置づけ受け止めたいと思う。その実感を得ようと思えば、各自がその著作に触れれば良い。豊かな泉からこんこんと湧き出る清水に目を洗われであろう。
この見解を補強するかのように、エンゲルスが、マルクス死去の翌日アメリカに住むF・A・ゾルゲに宛てた手紙の中で次のように書いている。「とにかく、人類は頭一つだけ低くなったのだ。しかも、人類が現在持っている最も大切な頭一つだけ」。
だがしかし、史上に現れたマルクス主義の実際は、我々の頭脳のシワを増したであろうか。否、却ってのっほぺらぼうなものにしたのではないのか。ここに反省すべき最肝要な課題が横たわっているのではなかろうか。いわゆる理論面での非弁証法的な公式主義、図式主義と実践面での統制主義にまみれ、一握りの指導部に唯々諾々さえすれば良い、すべきだ、異論・異端は許さない式の、凡そ本来のマルクス主義とは正反対物に転化したマルクス主義が正調として史上に跋扈し、多くのマルキストがそれを信奉して自惚れに浸ってきたという欺瞞的な反マルクス主義の歴史を経過させてきただけなのではなかろうか。
そういう似て非なるマルキスト達によってマルクス主義運動が担われてきた。このことを大胆に客観視すべき頃ではなかろうか。こうした事情から、「マルクス主義の歴史は、その成立当初からして分裂抗争気味であり、マルクス主義の実践的成果自体はなはだ疑問の昨今であるが、それもそのはずでマルクス主義者を自認する者たちの間でも、その解釈が非常に多義的であり、いずれが正統理論であるのか解明されていない」と述べられるようになっており、この云いには説得力があるのではないだろうか。
しからば、正味真性のマルクス主義とはそもどのようなものであるのかという関心でもって本章を構成してみたい。あたかもマルクス・エンゲルスと対話するかのように。それは骨の折れることではある。何しろ相手は史上稀なる天才たちで、こちらは世間に名も無き凡人でしかないから。それはそうだけど、れんだいこの方にも有利な点がある。れんだいこはそれ以降の歴史の流れを知っているということと、50有余歳になるまでたっぷりと世間の中で泳いで生きてきたという実感である。思えば、マルクス・エンゲルス理論に問題があるとすれば、それが実践理論だとはいうものの学究的なあまりに机上論な面があるのではなかろうか、という気がしないでもない。そういう対話を得て、素面のマルクス主義を露わにしてみたい。有用有益な思想に違いないから。
次に為すべきこととして、本来そうであるべき労働者大衆向けの普及本づくりに向けて時間を見つけ次第ぼちぼちでも取り組んでみたい。しかし、これを平明に語るということは難しい。なんとなれば、まずもってれんだいこが咀嚼していなければ為しえないであろうし、今から全文献に目を通すなどという芸当はできっこない。従って、少し危険では有るが、判明しないところも含めてむしろれんだいこなりに合点させて、そういうフィルターでのマルクス主義を綴ってみたい。そして多くのマルクス論者に試論として呈示し、批判検討の中から更なる試論へと突き進めて生きたい。更に云うならば‐‐‐という思いもあるがそれは云うまい。
追記。小室直樹氏の最新の著書「数学嫌いな人の為の数学」で、次のような興味深い指摘が為されている。
「(ソ連の崩壊要因について)重大な原因の一つを挙げよと云われるならば、著者はためらわず、『マルキストが実はマルクスの学説をよく理解していなかったからである。特に、必要条件と十分条件の違いを理解していなかったからであると云いたい』」。
これは卓見のように思う。
最後に。れんだいこは最近になって「シオン長老の議定書」の存在を知り、対話するようになった。これは衝撃的であった。以来、史観が代わり、「シオン長老の議定書」派が織り為してきた近代から現代に至る歴史的役割に着目している。こちらの方が、真に歴史を動かしている実在力だと思うようになった。こう認めないと現代史が読み取れない。興味深いことは、「シオン長老の議定書」の基本テキストは、ロスチャイルド1世の講演議事録のようで、そのロスチャイルド1世とマルクスが直接的にか間接的にか関係しているらしきことである。少なくとも同時代人には間違いない。
そういうことから、マルクスが、「シオン長老の議定書」的ネオ・シオニズム世界観のクビキの下でマルクス主義的教説を説いている可能性を詮索するようになった。そう思えば、マルクス主義とネオ・シオニズムの論理構造が酷似していることに気づかされる。違うとすれば、ネオ・シオニズム的選民理論に拠らずほのかに共生理論を打ち出していたことだろうか。その限りにおいてイエスキリスト教的である。しかしながら、マルクスが最終的に指針させたプロレタリア独裁論はユダヤ的感性特有のもので、我々が許容してはいけない危険過ぎる教説であることに思い至るようになった。
こう確信して以来、れんだいこは、マルクス主義からの出藍を決意するようになった。大変なことであるが歩一歩やり遂げていかねばなるまい。ちなみに、出藍とは、ドイツ語のアオフへーベン(Aufheben)のれんだいこ訳である。従来の止揚に対して、さる日福本和夫氏が揚棄を造語したが、それよりもなお語彙が近いと得心している。誰か、日本哲学史上のこの功績を認めてくれないだろうか。以降、他の誰彼も出藍と表現してくれないだろうか。
2007.4.6日再編集 れんだいこ拝