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週間『パブリデイ』からの引用(『パブリデイ』は現在はない)06・4・11の記事
━四方田犬彦の週間ヨモタ白書━NO.68 シャティーラ2 (ベイルートの印象)
(略)
ここで簡単にイスラエルのレバノン侵略のことを説明しておこう。1982年になされたこの戦争は、イスラエル側からは「ガラリア平和作戦」と呼ばれている。
当時、十年前にヨルダンを追われたアラファトのPLOは、ベイルートに本拠地を定めていた。イスラエルはそれが面白くなくてしかたがない。そこでその年の6月、陸海空軍9万の大軍をもってレバノンに進攻し、あっという間にベイルートを包囲してしまった。目的はPLOの追放である。
国連はただちにイスラエルの撤退を求める決議案を出したが、理事国のうちただ一国、
アメリカだけがそれに反対したので、もはや誰もイスラエルの横暴を止めることはできなくなった。この間に18、000人がイスラエルによって殺された。PLOは力つきて、チュニジアへと逃げ延びなければならなかった。彼らの撤退の安全を図るために、フランスとアメリカの国際平和維持軍が到達した。PLOに関わるパレスチナ人はこうしてベイルートを追放されたが、包囲に関わりのなかったパレスチナ人はあいかわらずレバノンに留まった。だが問題はこれからである。
PLOの撤退を無事に見届けた国際平和維持軍は、すべてが終わったと判断してレバノンを離れた。イスラエルはレバノンに傀儡の大統領を立てることに成功し、イスラエルの利益に見合った国作りを推し進めようとした。そこでこの大統領が暗殺される。翌日、イスラエル軍はふたたびベイルートの中心に兵を進めシャティーラの難民」キャンプを急襲した。・・・結局、女子供を含め1500人が虐殺された。この事件はシャティーラに隣接するレバノン人の貧民窟サブラを含めて、「サブラ・シャティーラ事件」と呼ばれている。
パレスチナ難民はレバノン国内での差別と貧困に加えて、こうした虐殺の犠牲となることで、いっそうの苦痛を体験することになった。
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シャティーラでは道行く人の多くが、わたしに興味を持って近づいてきた。外国人が足を向けることなどほとんどありえないこともあったし、案内人が顔の知れたパレスチナ難民の青年であることもそれに手伝っていたのだろう。キャンプは猫の額ほどの広さしかなかったが、複雑に入り組んだ迷路のなかには、外部からは思いがけない深さがあった。わたしはその日の午後いっぱいを、あちこち案内されて過ごした。・・・。
最後にワリッド(案内人)は、どうしても寄ってほしいところがあるといって、市場通りの終点、シャティーラ地区の境界のところまで、わたしを連れて行った。そこにはなにもなく、百坪ほどの空地にただ緑の雑草が生えているだけだった。過剰な人口を抱え、かつての九龍城砦のように建築が重なりあったキャンプから、突然にこうした何もないところに出てくると、ひどく奇妙な気持ちになった。
ここは墓地なんだと、案内人は簡潔に言った。しかし見回しても緑の草ばかりで、どこにも墓標も墓石も見当たらない。
1982年にここには4世代にわたって、30人の大家族が住んでいた。彼らは進攻してきたイスラエル兵士によって、全員が虐殺された。ただ一人生き延びたのは、偶然のことからその日にベイルートを離れていた、一家の息子だった。彼は帰宅するや、祖父母から両親、兄妹、結婚したばかりの妻、そして自分の娘まで、家族全員が死体となって横たわっているのを発見した。家屋敷は更地になったが、それ以来彼はそのひと隅に掘っ立て小屋を建て、喪に服しながら生きている。
わたしはこのただ一人の生存者に会った。彼はわたしとほとんど年齢が変わらなかったが、ひどく老けていて、穏やかな眼差しをしていた。東京から来たというと、目を細めた。わたしは彼を前に、どんな言葉を口にしていいのか、わからなかった。仕方がないので、飛行機を2回乗り換えて18時間かかったんですよと、つい先ほども話したばかりのことをいった。彼はただ一言、英語で、Remember meといった。