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(回答先: 救助と導き 投稿者 日 日時 2007 年 3 月 07 日 02:53:02)
まこと正しい謙虚さと伺えるものは
漲る精神の現れと受止める
私自身は人を導くつもりは毛頭無い
ただあなたの様な純心に物事に打込む姿勢に
ひたすら感化されるだけの存在である
私が神と申し上げるは
人格神であれ
自然神であれ
我が身を下にすれば
そこに現れる
各々にとって唯一無二の尊在である
技芸の神
武勇の神
神は各々がそれぞれの道を歩まんと希望を掲げる時
その道の先へ現れる
神を敬う精神の中にこそ神はある
よって宗教そのものは信じる対象にはない
宗教もまた常に未成熟なもの
だからこそ
これが一番というものは無く
個人の資質に合わせたものが選択される筈だ
私も心に
己が進むと心に決めた
絶対の神を持っている
そうした神を他と比較するのは
馬鹿であろう
崇敬し
行いに顕し
道を歩めば可愛がられる
子供に判る単純な理であり
神を信じるということは
師を親を敬うことに当て嵌まる
師もまた神なり
親敬うものなり
己を下にするとは
己を卑下することとは違う
内なる心を開き
あかあかと自信を漲らせ
謙虚な姿勢で
すすんで己の頭を下げれば
そこに神はあり
教えがある
最たる神というは
この上に上はなく
智の根本なりて
完全である
故に学びの果てには皆神となる
当然の理屈だ
しかしながら
真に学びの先を目指す者は
常に道の上へと立ち行動する
行動こそが学びだ
故に恐れて居ては何にも染まらない
そして一つの学びから更なる学びを得
枝葉から枝葉を伸ばすが如く
他人の境遇に己を重ね続けようとする
これでよしと終わること無しと知る
学び往くものは
常に心坐し南面し上を向かんとするのだ
故に菩薩は地獄にさえ遊化し
他生を案じ慈悲の心止む事無く
先生となり
すすんで生を受け
苦たる苦はなし
喜びに凪がしと
安楽の導き
手施きをするのではないか
学びは遊びに通ず
これ全て遊びである