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(回答先: 阿修羅投稿規範:個人情報をハンドルネーム使用者本人の同意なく求めたり詮索する投稿を認めない 投稿者 たけ(tk) 日時 2007 年 3 月 07 日 00:41:22)
一般概念として、既存の左派とは違うことを主張しただけで、色々叩かれる事は許されると思っている人がいる。
その「基準は常に自分の主観に照らしての正義感」なのだろうと思うが、その「正義感」を憑き物(=誤まった思い込み)と疑おうとはしないのだろうか?
>【自分に対する批判を不当な扱い(例:排除論)と勘違いしていることが哀れという意味です。】
という考え方がある。
批判するものは「批判された側の気持ち」を考えずに「その行為は不当ではない(=正当)」としてしまう。
「正当な批判を不当な扱いと勘違いしている」と決め付けてしまう基準は「批判した者の主観」によって決定されるのでは、永久に憑き物は落ちない。
「相手の立場に立っての考察」が抜け落ち「立脚点は常に自分の主観」になっているからである。
すぐに「投稿規範がどうのこうの」という人がいる。
しかし、本文なし投稿という「明らかに投稿規範に抵触する投稿」には目くじらを立てない。それどころか、自分がしたりもする。
憎らしいと思う人の投稿には「アラ探しのために目を光らせる」
同じ阿修羅の投稿者なのに「足の引っ張り合いを演じている」
これは「阿修羅の掲示板の自由度を下げる」というマイナスの効果であろう。
ある人に対し「死んでしまったのか?」と疑問を書いただけで「ここぞとばかりに、一つの価値観からの批判が集中される」
それでは「アラ探しに抵触しない投稿しか育たない」
いじめっ子は「自分がイジメに会わない限りは、イジメの怖さを感じ取れない」のだろう。
排除論者が「排除論」の怖さを知るのは「我が身に降りかかった時」である。
少なくとも
【Re: 江川紹子さんは本当にあなたの友人ですか。(本文はありません)】
http://www.asyura2.com/0610/asia6/msg/257.html
というような投稿をする人と行動を共にするのは問題だろうと思う。