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マニフェストが重要と言われて何年か経っている。
Kは当初から「政治において、最初に結論ありきは危険であり、数値目標としてのマニフェストと言うものに囚われるのなら、不要」と云う意見であるが、Kが主張した所でどうにもならない。
Kとしては「マニフェスト」よりは「プロセス」の方が大切だろうと思っている。
「この社会を良くする」政治家ならば誰でも、そのように言う。
問題は「どう良くするか?」である。
例えば「少子高齢化の対策費を設置する」と云うのは誰でも言える「問題は、どうのような工夫をして財源を確保するのか?」なのである。
奇麗事なら誰だって言えるのである。問題は「現状の分析・認識」をどれだけ正確に行っているか?であり、目的達成の為にどのようなプロセスを創造できるか?なのだろう。
PCで(特にDOSモードで)プログラムを作れる人は分かるかもしれないが、画面上に「A」と云う字を表示するのだって簡単ではない。C言語等のプログラム言語を使用すれば命令文を覚えれば何とかなるが、アセンブラとかハンドアセンブルを経験した事のある人なら、何から何までも自分でやらなくてはいけないのを知っているだろう。
昔、ロボットの大戦ゲームというのがあった。
http://ton.2ch.net/retro/kako/1001/10015/1001562889.html
あたりで雰囲気が分かるだろうか?要は「プログラム」した行動をするロボットを戦わせるというゲームである。
一例とすると「前を調べ」「敵がいたらミサイルを撃つ」いなければ「右前を調べる」「敵がいたらその方向を向き、最初のプログラムに行く」いなければ「左前を調べる」・・・と云うようにプログラムを組む、RCロボットコントラクションでは、「前を調べる」「後ろを調べる」「右を向く」などが「ブロック命令文」として存在し、それを並べるだけで、それなりの戦えるロボットが出来た。
しかし、問題は「その後」なのである。
表面からの攻撃の仕合に全てを賭けて、少しでも先に相手を破壊する。と云うのが第一段階。
その次に「兎も角、一撃をかわして、エネルギーの切れた相手を破壊する」という第二段階があり、その後も「レーダーというアイテムで相手の探索エリア外から攻撃する」とか「探索外からの攻撃は、そこに敵がいると一撃をしてから、移動してかわす」等の実に多彩な作戦がプログラミングされていくのである。
少なくとも、これくらいのプログラム的な才能がなければ、目標に対するプロセスと言うものを創造する事はできないだろう。
プログラムというのは「決して精神論では動かない」のである。プログラムに致命的なミスがあるなら、祈ろうが、怒ろうが「絶対に動かない」
「老人福祉」を充実させる。と、言葉で唱えるだけなら「誰にでもマニフェストは可能」であるが、具体的にどのように?が示されないのなら「それは、詐欺師の甘い言葉」でしかないのだろう。
郵政民営化の時に小泉純一郎氏は「郵政民営化をする」と主張したが「どうやって?」も「何故?民営化する必要があるのか?」も説明しなかった。
一説によると、小泉氏の最初の選挙の時に「郵便局は敵に回り、その結果、落選した恨みの為に郵政民営化論者になった」とも言われているらしい。
まあ、風説の類だろうが、仮に本当なら「個人的な憎悪から、国民の生活を悪化させた」と云う事である。
確かに、小泉氏の「郵政民営化」は自論であり、極端に言えば「それしかなかった」とも思えるが、それが必要な理由も、「郵政民営化へのプロセス」も「小泉氏自身は説明責任を果たしたとは言えない」だろうと思う。
最初に結論ありきで「竹中氏を中心にした官僚に、指示をしただけ」であろう。
同じような事が、様々な分野であるのだろうと思う。
「先入観」「予断」と云うものだが、これによって、「誰々の言っている事は間違っているに決まっている」とか「AとKが論争しているのなら、Aの方が正しいに決まっている」というような事だが、内容ではなく「主張している人」とか「文章の出来ばえ」あたりで「評価を決めてしまう」のである。
共産党信者は「自民党が言っているのだから、間違いに決まっている」であり。
自民党支持者は「共産党はアカだから、人殺しの革命を狙っているに違いない」である。
これでは、公平で真っ当な判断を期待はできないだろう。
まずは「意見の内容を分析・評価すべきであり、文章の言い回しなどは2の次、3の次」であろう。
揚げ足取りと、内容的な部分の指摘は別である。
主張のコアである部分に対する「揚げ足取り」は「立派な反論」であろう。一般的に言う「揚げ足取り」とは「主張には関係ない部分の用語の間違いの指摘」であろう。
例えば「Kは本の虫」と書けば「本の虫」の定義を問題にするとかだが、本論には全く関係はないだろう。
また、銀河英雄伝説と書けば「アニメか漫画」との先入観で意見を書く、Kは漫画もアニメも好きだが「銀河英雄伝説は小説版」から、人には他人を導こうと言う人と、人に導かれたい人がいる。という考え方を読み取った。
そもそも、漫画板では「まだ、プロローグ的なところで止まっているはず」である。
アニメ板はどの辺なのだろう?
Kは、漫画でも得られるものはあるとも思うし、アニメからでも得られるものはあると思う。
要は、何からだって「自分の糧となるものを得ようと思えば、得られる可能性はある」のである。
漫画を下らない大衆娯楽とかの偏見をもっていると言う事が「すでに、自分の芽を摘んでいる」のである。
そのような考え方からは「奇麗事」は語る事はできても、そこに至るプロセスの創造は難しいのだろうと思う。