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(回答先: 「100時間超残業 3社に1社」NHKオンライン 投稿者 考察者K 日時 2007 年 2 月 18 日 15:09:11)
「同和書籍の購入を強要/恐喝容疑で11人逮捕」
をラジオのニュースで聞いたのだが、NHKオンラインの方には見当たらないので、下記を引用します。
http://www.shikoku-np.co.jp/national/social/article.aspx?id=20070216000238
しばらく前から、同和利権という問題が沸き起こっている。
これは、差別問題が逆の方向に振れ過ぎてしまったと云う事に起こっている問題と言えるだろう。
今回の事件も「同和問題に関心を示さないのは、非人道的」だとか理屈で「押し売り」をしたという事であろうが、エセヒューマニズムによる「エセ正義」も考えなければいけない所まで来ていると言えるだろう。
日本人は「自分の不満」を声高に叫ぶ事を美徳とは考えない人が多いだろう。
しかし、人の「不満を感じ取って、それを代弁する」という行為は美徳とも考えている部分もあるようである。
「小さな親切、大きなお世話」なのかもしれないが「親切の押し売り」を趣味としているような人もいる。
これって、実を言えば「正義という名目で他人を非難できるから楽しい」という部分もあるのではないか?と云う気もする。
お歳暮を家まで待ってこられた時、そのお歳暮には、便宜をして下さいという意図が見えていたとして「いったい、どれだけの人が強引に、受け取りの拒否ができるか?」
理屈では受け取らないのが正解というのは理解できるだろう。
しかし、受け取らないのは「一般的な反応」から外れると判断すれば、誰だって「変人」とは思われたくないだろう。
折角持ってきてくれた人と「完全に敵対関係になっても良いのか?」という判断だって働くだろう。
「誰々さんも受け取ってくれましたよ」とか言われたら、8割程度の人は転ぶのではないだろうか?
人間は「周りに合わせる」と云うことで「自己の判断を放棄する」という一面も持っている、いわゆる「大人の対応」という物である。
しかし、最近は「この辺も理屈が優先されるようにもなってきている」
「大人の対応」ではなく「理屈に合った対応」に変わってきていると云うことである。
しかし、まだまだ過渡期でもあるので、比率的には「大人の対応」が多いだろうとも思う。
「もっと融通を働かせろよ」という価値観がある。
「全て、公平公正にするべきだ」と云う価値観もある。
「便宜供与」と「談合」というのは、ある意味では「日本の文化」と云う部分もあるという気がする。
Kは前から主張しているのだが「談合」に必要以上の拒否反応を示すべきではないだろうと思う。
「談合」を完全否定して「完全な自由競争になれば」
中小零細企業は「全て、大企業に淘汰される」のだろうと思う。
これって、自分で自分の頸を絞めているのと同じと言えるのではないだろうか?
どうしても「談合」が許せないのなら「競争入札」をやめさせるべきだろう。
仕事は「日頃から懇意にしていて、サポートも良い。地元企業に回せば良い」のである。
それを「税金の無駄遣いを無くす」という理屈で「競争入札」させた方が「安くなる」との「さも、正義の味方のような振りをして、日本文化をぶち壊そうという輩がいる」から社会構造に歪みが生ずるという事になるのだろう。
コンピュータプログラムには「バグ」が付きものだが、これを一部の手直しで修正しようとすると、かなりの高確率で「エンバグ」をして、更に深刻な事態となる。
それと理屈は同じなのだろうが、日本文化に「アメリカ・ヨーロッパ文化」を入れるなら「慎重の上にも慎重を期すべき」なのだろう。
例え、導入するのが「良い文化」だとしても、一部分だけに入れて「周りが、その文化に合っていない」のなら。それは「どこかに歪みを生み出す」のだろう。
「軽自動車に、スーパーカーのエンジンを積んでも」巧くはいかないだろう。足回りが付いて来ないし、ボディだって付いていけないだろう。場合によったら「走行中に浮き上がって裏返しになって大惨事」になるだろう。(空気抵抗によって舞い上がるはずである)
前に葬式の時に「いくら包む?」と聞かれ「3000円です。他の人も3000円ですよ」と答えた時がある。
後で分かったのだが、その人は「5000円」包んでいた。
この時のKの抱いた感情を表現するのは非常に困難である。
これが「Kに聞かずに、自分の意思で包んだのなら、それが1万であっても2万であっても良い」
しかし、Kに聞いた上で「一人抜け駆けして目立とうとした」としか思えないのである。
Kは仲間意識が強い方である。
だから、仲間には合わせるという習性を持っている。
休暇を取るにも「上司には気を使わないが、仲間には気を使う」
旅行に行けば「職場にお土産を買っていく」
しかし、これは「良い事か?」と問われれば「良い事」と断言はできない。
職場には「アメリカ的に割り切ったような、個人主義の人」もいた。
飲み会に誘っても「言い訳を用意して、ほとんど出席しない」
数日の連続休暇を取っても「お土産など買ってきた事はない」
昼食の時間には「黙って、休憩に入る」
正に「契約として職場にいる」と云う感じであるが、実は一番仕事をしない。
「その人の役割」と決まっている作業は「実質労働時間の半分」もあれば、出来る仕事である。しかし、それ以外の「手の開いている人がやる」という「やる人の決まっていない作業」には手を出そうとしないのである。
しかし、例外の時もある「それは、上司が、点検に来る時」である。
長い前振りになったが、Kも阿修羅にいられるか不明な部分もあるので
「君が代不起立」について書いておこう。
多分、君が代不起立は「(教師)仲間で話し合い」やるなら「一致団結して行うべき」なのだろうと思う。
一人、二人でやるから処分され「不良教師のレッテルを貼られる」
しかし「みんなでやれば、全員を処分するのは、する方にだって覚悟が必要」である。
もちろん、何処の職場にだって「上司へのゴマすり野郎はいる」だろうし「色々な事情で運動に協力できないという都合のある者もいる」だろうから、君が代不起立運動に参加する事を強制してはいけない。
あくまで「リスクを確認した上で、職場の仲間との合意形成の上で、やるならやる」
ただし「職場でも多数派形成ができないのなら、その時は見送る」
職場の同じ環境で働く人達の間にさえ「共通認識の合意も出来ない運動に発展性は、ほとんどない」だろうと思う。
権利意識の強い人の特徴に「一匹狼」的な印象を持つ人も多い、ただし、逆に「社交的な人もいる」
これは、Kの勝手な判断だが「自分の犠牲によって、未来の権利を勝ち取りたい」という人と、「自分の主張を通したい」という人の差ではないかと思っている。
前者の人が多数派になって権利獲得に成功したのと、後者の人が多数派になって権利開放をさぜるを得なくなった。のでは、未来は180度違うのかもしれない。
「君が代不起立」というのは権利獲得運動ではないだろう。
勤務時間中の思想のアピールを許してしまったら「職場の規律など崩壊する」
理由があるとすれば「国家の強制の拒否」と「日の君反対運動」の2点だろう。
ここは、個人では「絶対にぶち抜けない」という目標になる。
個人でできるのは「歌いたくない歌は歌わない」と云うことだけである。
これは「口パク」で十分だろうと思う。
踏み絵を踏んだフリをして不利益を受けないのならば、無理に「踏んだフリ」すらも拒否する必要もないだろう。
後は、どうすれば「多数は形成が出来るか?」だけの問題だろうと思う。
「強制反対」でも「日の君反対」でも、根本的に改善し「未来を良くする」のなら、反対者を過半数にして、法を変えるしかないだろうと思う。