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(回答先: システムが機能する為の、思想の流布【金は天下の回りもの。】 投稿者 haru 日時 2007 年 2 月 11 日 05:06:18)
>昨今の私の主眼は、“愛すべき、守るべき多くの無知蒙昧な人々”“日本人のルーツ”に置かれております。ここ阿修羅では、価値観、個人主義と云った言葉が多く語られておりますが、私は、戦後あるいは幕末から変質してきた日本人の性質傾向というものを問題にしたいと思っております。代表的な言葉に義理人情があり、向こう三軒両隣と云った、下町的相互互助的社会の破壊といったものに対してです。
>多くの問題の起因には、資本主義、自由主義、民主主義と云った思想かがあると考えておりますが、それらを助長する役割として、言論、表現、があり、テレビ等を代表とするマスメディアがその役割を果たしてきました。
>昨今の風潮では、利己的な行動が当たり前になっておりますが、これらの元には、人よりも得をする術、馬鹿を見ない術等、病気から財産に至る迄の人生に於ける処世術と云ったものの垂れ流しに依るものと考えます。
このような報道に多く浸る内に、ごく自然にお金というものが、この世の中の中心に移ったのだと思います。
>かつては、金は天下の回りものとか、情けは人の為ならず等と、達観した思想が人々の行き過ぎを押さえ、より人間的な価値観に根ざした社会が存在していたように思っております。わたしは、西郷隆盛に興味があるのですが、彼の様な人の道を重んずる人物が理解され尊重されていた様な気がします。
>それだけ、日本人の特性が利己的ではなく、利他的な性格を有していたのだとの認識を持っております。
>まるで日本の舵取りを行う人物達の利己的越権行為を模倣するように、庶民も変質し拝金主義がまかり通り、都会では隣の住人を見た事もないなどと云う個別社会に変化いたしましました。これらの価値観のよりどころに、テレビ等の言論、報道、が大きく関与したものと思っております。
>物質的豊かさだけでは人間は幸せを得られないはずなのですが、その辺りの価値観が今はもう受け入れてはもらえないようです。
>私が、江戸に興味を持つのは、当時の人々の心の豊かさに着目しているからです。
19世紀に流行したダーウィンの進化論は、人間の世界では大きなトラウマを残すレイプと通常の性交が分けられない動物の世界をそのまま人間世界にあてはめて、「生物界では弱肉強食が行なわれ弱い個体や種は淘汰された」として植民地主義を正当化していった訳ですが、そのような中で西郷隆盛などはそのような過酷過ぎる価値観に完全には適応しきれず、自刃に追い込まれたのだと思います。
植民地主義が帝国主義と呼ばれる最終段階に入った19世紀は遺伝子研究が本格的に始まった世紀でもあったと思います。同時にアーリア人という概念も出てきましたが、中世の騎士の時代からドイツ人が自分達をアーリア人と考えていた訳ではないと思います。優秀な人種と劣等人種という概念が生まれたのもこの頃だと思われます。
19世紀は百姓でも町人でも日本人は皆武士の子であり優秀である、ドイツ人なら職人でも農民でも皆アーリア人種であり優秀であるとして、庶民が民族・国民という一つの均質な種として格上げがなされた時代だと思います。これは、ある面では精神の工業規格化という息苦しい窒息状況をもたらしたかも知れませんが、ある面では自己を被支配層と捉えていた庶民にも民族としての誇り・プライドというものを与えたようにも思います。大抵において、弱肉強食を唱えた人物が「しょせん世の中とはそういうものだ」という場合には決して絶望やあきらめではなく、(世の中に積極的挑戦的諦観・・じゃ日本語になってないな)野心を持ってそう言っている訳です。
今は石原や奥谷のような人間がもてはやされています。柳沢厚労相も管氏もそんなに悪気はなかったかも知れません。しかし、生殖について思わずそういう言葉が口に出てしまうのは生命すら効率的に考えようとする時代の背景によるのかも知れません。