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団塊の世代の集団定年の問題を扱う番組を見ていました。「NHK 日本の、これから」
このような問題が好きなKの性格もあって引き込まれてしまいましたが、結構難しい問題であり、YES・NOで単純に判断するのは危険かな?などと思いながら見ていました。
このように評価するのは失礼なのでしょうが、団塊の世代というのは「戦後復興期を支えたサラリーマンの世代」なのでしょう。指摘として「比率的に政治家や経営者が極端に少ない」という意見がありました。
地域・家族と云う部分より「企業」を重要視した世代であり、後継者を育てなかったと云う部分もあるという意見もありました。
極端に言えば「企業のサラリーマン戦士」の世代と云う側面を持っているのでしょう。
この世代の大量退職と云うのは「グローバル経済」と云う部分から判断すれば「競争力・生産力の低下」と云う意味合いがあり、その反面で「定年を延長などをして、退職を先送りする」と「若者・若年層の働く場所の障害になる」と云う側面も無視できないと云う部分もあるのでしょう。
「70歳まで仕事の出来る制度」というのは間違いとは言い切れないが、多分、制度を作るのは問題の方が多いのだろう。
人間と云うのは十人十色であり「基準を社会が作る(70歳くらいまでは働くのが普通)」と云うのは問題だろう。
そもそも、定年制という制度がデジタル思考の弊害と云う部分であるのだろう。
しかし、その反面で「他人が一定の基準を示してあげないと、動けなくなるまで働き続け、働くだけで一生を終わる」と云う人もいるだろう。
本人はどう感じるか?は別にして「周りから見ると、可哀相と云う感情は生まれるだろう」
「余生は好きな事をして、第二の人生をエンジョイしてほしい」と云う価値観は遺族・家族の価値観であるが、ここをどのように捉えるか?と云う部分もあるだろう。
この関連でもあるのだが「本人が好きで働いているのなら、それで良い」と云う意見もあるだろう。しかし、この価値観と云う期待に応えるために「仕事を辞めるに辞められない」と云う状況も生み出されると云う危険性もあるだろう。
「疲れた、もう楽になりたい」と云う団塊の世代の人もいると思う。
その人達は「自由な選択手としての退職したい」と云う希望は叶えられるべきだろう。
その反面で「まだ仕事を続けたい」と云う希望も叶えられた方が良いのだろう。
ここは、政府・権力が方向性を定めるのではなく、社会の中のシステムとして「選択の自由が行える」と云う事が良いのだろう。
「制度とシステム、どう違うの?」と云う意見はあるだろう。
Kの主張は
周囲が基準を決め、それに個人が流されるのが「制度」は作るべきではなく
周囲の目を全く気にせず個人の自由が選択できる「システム」を構築するべきだ
と云うことである。
「次世代のために椅子を空ける」とか「グローバル経済に生き残れる日本のために働き続ける」と云う事は「個人の自由な判断の足枷になってはいけない」のであり、ここを、社会の中でどのように創造していくのか?
ここを「政治に依存」すると「本当にバカな制度を作られて、それに縛られてしまう」と云う側面がある。
政治に頼るのではなく「国民は自立しなければいけない」と云う部分があるのだろう。
「制度で縛られなくとも私たちは巧くやっていける」と云う姿勢に変わっていくべきと云う部分を考える必要がある。
個人情報保護のための制度は「電話番号簿を調べれば分かる程度の情報を過剰に保護する」という過保護を生み出した。これは、政治の無能を物語っているのだろう。
制度で基準を決めるという事は危険でもあるのである。政治家は無能なのである。
制度ではなく、社会の中でみんなが暮らせるシステムを構築するべきなのだろう。