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haruさん、こんちは
「ドレイ」が明治以降に増えたかどうかということなんですけど、
http://www.asyura2.com/07/idletalk22/msg/288.html
難しいことは書けませんので、私が思いをめぐらせて、今の世のなか、「ドレイ」 という言葉を思い浮かべることを、雑談風にかかせていただきます。
票のドレイ :
選挙前になると、あの人は1000票をまとめられる、あそこの団体から5000票はいける、とかの報道がされます。
この事前に票として、自らが、積極的に政治的意思表示表明することなく、「カウントされている」人たち、不気味ではありませんか?
エンタテイメントのドレイ :
電車、新幹線の中、四六時中、携帯電話、MP3、パソコンで、自分を「あやして」もらわないといけないオペレーター系の人たち。
情報のドレイ :
「熱しやすくて、さめやすい」ってことで、日本人の国民性について語られます。これは、裏返せば、情報に「乗せられやすい」ということだとおもいます。
占星術が生活のおつまみ程度なら目くじら立てないけど、「われわれ納税者の電波」を使って、ビジネスとして善男善女をたぶらかすようなら、排除すべきだとおもいます。
蛇足だけど、占いは、中世からルネサンス、近世に向かう中、科学技術の発達とともに駆逐されたはず。人は、自分が空っぽだったり、自分の重みに耐えられぬと、自己以外の権威に頼りがちになるようです。
飲む打つ買うのドレイ :
夕方文化がない日本では、長時間労働の後、「飲む打つ買う」で憂さを晴らす人が多い。、中には、ギャンブルに夢中になり、生命保険の契約までさせられて、つまり命を「かた」に借金する。マスコミはこの問題を指摘するどころか、一緒になって金儲けをしている(広告出稿)。これは地獄絵です。
宗教そして、思想のドレイ :
これについては、詳しく書くに及びますまい。
私は、以前にも書きましたけど、宗教を否定するものでありません。
それは、権威主義に陥ることなく、人が奉仕するのでなく、人に奉仕するものでなくてはならないと思います。
以上の事柄等に(実は故意に「ひとつ」落としている)
「依存」、「非自立」、「不自由」という「ドレイ」の特性が体現されているのではないでしょうか。
それは、今の世、自分で考えることができない、物事の判断をできない人が多いということを物語っているのだと思う。
あまり考えないというのは、世渡り上の生活の知恵と思うのです、しかし、それが、人の思考のデフォルト(標準値)となり、
その人たちが、多数派になり、世の動きを決め、ヒット商品をつくり、政治を決め、日本の、地球の将来を決めるとしたら、寒気がします。
そして、その「現在進行形」が今の世のザマです。
「分業の徹底」によって人間、そしてその人間の生活総体が見えなくなってしまった。
それが、人の「ロボット化(ドレイ化?)」を促進しているとおもいます。
テレビのチャンネル選択の自由、商品選択の自由、ポルノの自由、おいしいものを食べる自由、騒ぎ立てる自由、人の精神とリンクしていない自由だけが、ことさら強調される21世紀初頭の日本。ドレイにはこれで十分ということなのでしょうか?
歴史小説についてなんですが、歴史と歴史小説は違います。
幕末、明治の偉人物語を読んで、その登場人物に自分を同一化して、そこから「当時に思いをめぐらす」のは、面白いのでしょうけど、「実際の歴史」とは違います。その種の「小説的歴史解釈」は、落とし穴があると思って間違いありません。
受け売りっぽくなりますが、自分の立ち位置は、経験、思索、定義を通じて、
「真理の質」を辛抱づよく磨きながら、決めていく以外にないと思います。
そして、それをつうじて、「自分の思想」というものが昇華されるのだと思います。