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阿修羅での上浦氏から以前紹介された、「新世紀のスターゲイト」というsiteを最近よく読みに行くのですが、
http://www.threeweb.ad.jp/~asterope/index.html
その中に、「創造への道4」の中の、「神はただそこにある」に、
http://www.threeweb.ad.jp/~asterope/create4.html
私達人類にとって神とは、聖書の中の記述にあるような恐ろしい存在と映る。神々の意向に添っている間は人類を守ってくれるが、意向に沿わなければソドムとゴモラのように、大量の人間を簡単に抹殺してしまうと言う存在に対して、愛を感じることは出来ない。神とは一体何処にいるのか? 宗教団体の方々も布教活動で訪問されるのですが、彼等に神は何処にいて、どんな方ですかと尋ねると、「神は宇宙におられ、とても愛ある存在」だと口を揃えた様に仰っています。エドアルド・マイヤ−によれば、神と言う言葉はある宇宙の種族の古代の単なる名前だという。そして宇宙を創造した存在は別にいて、それが宇宙全体と自然を支配していると言う。我々人類がこの地球に存在している理由は、通常の人間にとって考えることもなければ、存在理由のあることすら意識にのぼつてはこない。「ひふみ神事」によれば、人間は神の魂を入れる入れ物だと述べられています。自分自身が神と同じものである事を確認するためだとも言う見方もある。また我々が神々に対して描くもう一つのイメ−ジがある。
神々は愛と調和をもたらす存在で、怖いというイメ−ジがなく、我々人類を愛して、願いは何でも叶えてくれると言うソフトなイメ−ジです。ディノ・クラペスドンが遭遇した宇宙人は神についてこう述べている。「神はそれ自体に平行な等方線であり、それ自体に垂直に振動しています。神は等方線の交わる点が、どこにでも同時に存在する様な座標軸の集まりの如きものです。等方性とは、あらゆる方向に等しい物理的動きを示す事の出来るものであり、光がその例です。どの点も座標軸の中心になりうると言うこと、つまり何処にでも中心があり、そこから放射する線であると言える、それはどこまでも端がない事を示し、次元も無い事を示している。次元は神の秩序の中に存在しています。仮に神がある一点であるとします。一点に直角と言うと球面状に振動が伝搬します、しかし神は一点ではない、全ての振動が重なり合い波の干渉が起こります。そうなると次元は神の中に含まれてしまうので神は無限です」。一体どの意見が本当なのだろうか? そして神は何処にいて、どんな存在なのだろうか?
以下は地球上においてかつて人間として存在し、僅かに正義感の強い戦争好きで、劣等感の強い男が身体を持ったまま昇華した後に、その経験をもとに地球人類に神について語りかける物語です。あなたは神を何処に発見されるでしょうか? わが愛する同胞たちよ。皆の中には、神と呼ばれる存在は陰鬱で恐ろしく、怒りに満ちて常に人を審判を下す人格だと教えられてきた人が多くいる。しかし、神はこのどれでもない。人を断罪し、弾圧する神は、人間の心と頭の中にしか存在したことがないのだ。一部の人間を断罪し、他を誉める神を創造したのは人間に他ならない。それは人間の神であり、人間とその意志が創造したものだ。私の知る神、私の愛する神、私自身から、そして私の化身である世界から出る力そのものである神は、完全なる愛であり、価値判断を一切しない愛の神だ。それ以外の何ものでもないが、同時にそれ以外の全てでもある。神はあなたの理解をはるかに超えてあなたを愛している。何故ならそれはあなた自身である生命そのものであり、あなたの脚が踏みしめる大地であり、あなたが呼吸する空気なのだから。
それはあなたの皮膚の色であり、崇高なる眼の輝きであり、やさしく触れる感覚なのだ。それはあなたの存在する一瞬一瞬であり、考える思考全てであり、行う行為全てであり、魂の暗い陰の部分でさえある。神はありとあらゆるものなのであり、全てを呑み込む力だ。水面をなでる風であり、色ずく木の葉であり、深い色合いのバラの純粋さなのである。神とは、抱擁し合う恋人たち、笑っている子供、蜂蜜の色をした髪の光沢だ。それは朝に昇る太陽であり、夜にまたたく星であり、満ち欠けを繰り返しながら夜半の空をわたる月なのだ。神とは、ぞっとするような姿の昆虫であり、控えめに空を飛ぶ鳥であり、ひどく醜いミミズでもある。神とは、動きであり、色であり、音であり、光である。神は情熱だ。悲しみだ。在りて在るもの、存在するすべて、それこそが貴方がたが父なる神と呼ぶものであり、ひとつの全きものとしての森羅万象すべて、そして在りて在るもの全てを愛する存在なのである。神は御座に鎮座し、生きることに関してあれこれ善悪の判定を下す一人の人格ではない。神とは「生きることそのものであり、この躍動する一瞬一瞬全てなのである。それは在るもの全てが存在し続けている姿であり、その永続性なのだ」。
人生において、貴方がたは審判を下されたと思うだろうか。そんなことは断じてない。何故なら、もし神が貴方がたに審判を下すとしたら、あなたは神なのだから、神は自分自身を審判していることになる。高度な知性がどうしてそんなことをするだろうか? 人間が父なるものと呼ぶこの生命の力は、あなたでも他のものに対してでも、審判を下す能力など持ち合わせていない。何故なら生命と言うものには、ものごとを善悪、正誤、完全不完全な、どのように分割出来る自我を持った人格がないからだ。もし仮に神が自我を持っていたとしたなら、内面にその様な変質があればそれを知覚することも出来るはずだ。神はそれ自体では善も悪も全く持ち合わせていない。ポジティブもネガティブもない。神は完璧でもない。と言うのは、完璧であると言うのも、存在し続け、変化を続けるこの豊饒な生命に制限を課すものだからだ。神はただあるに過ぎない。敬愛する父なる神が知っているのは、あらゆるものが、在るがままの生命を生きていけるよう、ただ在ることだけなのだ。神とは、無限で至高の「ただ在るということ」、その分割不可能な全き存在そのものである。
その在ることは、あなたを壮大な規模で愛しており、だからこそ、完全不完全、善悪、あるいはポジティブ、ネガティブといった幻影をあなたに創造させてくれた。そしてその神は、あなたの知覚を通して、あなたが知覚したものになったのである。つまり神は「在りて在るもの全て」なのだから、正しいことだけでなく間違ったことでもあり、美しいものだけでなく醜悪なものでもある。それは聖なるものだけでなく卑俗なものでもあるのだ。神はあなた自身であり、生命という明確な目的を持った自己を表現するための基盤となってくれたのである。自分に独自の自我を与え、自分が望むものなら何にでもなれて、自分で選んだ形で人生を見られる自由を与えてくれたのである。神はあなたがこれまで想像してきたよりもずっと大きな深い愛情をもってあなたを愛してきた。自分の望むように人生を創造させてくれたのだ。父なる存在は、いつもあなたを愛してきた。神はこれ以外の見方であなたを見たことなどない。何故ならあなたこそ彼そのものなのだから。自分の価値観で、あるいは他人の価値観を受け入れることによって自分に審判を下してきたのは、実はあなた自身だけだ。
自分を失格だと感じるように仕向けてきたのは自分でしかない。父なる存在からどんな望み通りの真実でも現実でも創出する力を持っているあなたは、自分の人生について判断を下せるたった一人の審判者なのである。何が良く何が悪いのか、何が正しく何が間違っているのか、それを決めてきたのは貴方をおいて他にない。あらゆるものはただ在るものでしかない。全能の神と呼ばれている「ただ在ること」の一部として。あなた自身の審判も、様々な形で存在する創造的現実のひとつであるこの地上界で、あなたが創りだした幻影に過ぎないのだ。さて神が最も至高な形で現れたものとは一体何だろうか。それは「思考」である。人間が自分の人生で創出する舞台、全てのものの生命の力、そして生命物質とは、広い意味で言うと思考である。思考こそが、過去、現在、未来を通じて存在する全てのものの究極的な創造主だからだ。思考とは全てのものが創造される物質である。在りて在るものはすべて、「神の心」と呼ばれる高次の知性から出現している。全てのものが独特のパタ−ンを持っているが、それを繋いでいるものは一体何なのかを考えてみたことはあるだろうか。
それは思考であり、思考は愛という「宇宙の糊」なのだ。それが全ての物質を物質たらしめているものなのである。そして、これは何よりも壮大なスケ−ルの愛と言えるのだ。父なる存在とは正にこのことを言う。ありとあらゆるものは、あなたの思考によってまず想起されたもので、その思考とは神であり、そして全てをその場所に収めているのは父なる存在の自分自身への愛だからだ。あなたは神によって一つにまとめられている。身体の分子構造、細胞組織を互いにつないでいるのは、神の真の姿である壮大で崇高な思考だ。思考なしにはあなたの身体は存在せず、物質さえも存在することはない。何にひとつ存在しないのだ。それは思考が全ての生命の創造主であり、それを支える要素だからだである。父なる存在は陰鬱で恐ろしい存在ではなく、「完璧なよろこび」である。それ以外の在り方を知らないからだ。互いに調和のとれた中で振動する全ての生命体、それが彼の姿であり、それは真のよろこびに溢れている。
神とは、あなたと言うかけがえのない存在の源であり、皆の全ての中に潮の満ち引きのごとく流れ、皆をつなげ、絆を持たせ、死後の生存と果てしなく続く永遠を約束するこの不思議なる生命の力とは、一体何なのだろうか。それは思考によって生まれる「在るということ」なのだ。生命が存在し続けている姿が「在るということ」だ。愛を通して生命の存在を許す、この「在るということ」なのである。それは完璧なよろこびだ。それがあなたの身体を流れる血であり、あなたが向かっていくべき運命でもある。
で、改めて、旧約聖書で「神」が自分を、「我は在りて、在るもの」と称しております。
なら、モーゼも「在る」ので、「神」で、小生も「在る」ので、「神」で、あなたも、「在る」ので、神です。
まあ、有名な一節なので、筆者がそれを引用もできるでしょう。が、小生を震撼させたのは、反復になりますが、
「思考は愛という「宇宙の糊」なのだ。それが全ての物質を物質たらしめているものなのである。そして、これは何よりも壮大なスケ−ルの愛と言えるのだ。父なる存在とは正にこのことを言う。ありとあらゆるものは、あなたの思考によってまず想起されたもので、その思考とは神であり、そして全てをその場所に収めているのは父なる存在の自分自身への愛だからだ。あなたは神によって一つにまとめられている。身体の分子構造、細胞組織を互いにつないでいるのは、神の真の姿である壮大で崇高な思考だ。思考なしにはあなたの身体は存在せず、物質さえも存在することはない。何にひとつ存在しないのだ。それは思考が全ての生命の創造主であり、それを支える要素だからだである。」
で、直ちに、小生は以前投稿した事のある、
「神」とは?西田幾多郎著「善の研究」から抜粋 【たまには哲学をと思って読んでみた】
http://www.asyura2.com/0505/cult2/msg/825.html
投稿者 どん兵衛 日時 2006 年 5 月 05 日 23:36:13: 7oUaiPRSj3bnA
を思い出したのです。
一部抜粋すると、
これまで論じた所に由って見ると、我々が自然と名づけている所の者も、精神といっている所の者も、全く種類を異にした二種の実在ではない。つまり同一実在を見る見方の相違に由って起る区別である。自然を深く理解せば、その根柢において精神的統一を認めねばならず、また完全なる真の精神とは自然と合一した精神でなければならぬ、即ち宇宙にはただ一つの実在のみ存在するのである。而してこの唯一実在はかつていったように、一方においては無限の対立衝突であると共に、一方においては無限の統一である、一言にていえば独立自全なる無限の活動である。この無限なる活動の根本をば我々はこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せる者ではない、実在の根柢が直《ただち》に神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である。
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いずれの時代でも、いずれの人民でも、神という語をもたない者はない。しかし知識の程度および要求の差異に由って種々の意義に解せられている。いわゆる宗教家の多くは神は宇宙の外に立ちて而《しか》もこの宇宙を支配する偉大なる人間の如き者と考えている。しかし此《かく》の如き神の考は甚だ幼稚であって、啻《ただ》に今日の学問知識と衝突するばかりでなく、宗教上においても此の如き神と我々人間とは内心における親密なる一致を得ることはできぬと考える。しかし今日の極端なる科学者のように、物体が唯一の実在であって物力が宇宙の根本であると考えることもできぬ。上にいったように、実在の根柢には精神的原理があって、この原理が即ち神である。印度《インド》宗教の根本義であるようにアートマンとブラハマン[#「ハ」は小書き]とは同一である。神は宇宙の大精神である。
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古来神の存在を証明するに種々の議論がある。或者はこの世界は無より始まることはできぬ、何者かこの世界を作った者がなければならぬ、かくの如き世界の創造者が神であるという。即ち因果律に基づいてこの世界の原因を神であるとするのである。或者はこの世界は偶然に存在する者ではなくして一々意味をもった者である、即ち或一定の目的に向って組織せられたものであるという事実を根拠として、何者か斯《かく》の如き組織を与えた者がなければならぬと推論し、此の如き宇宙の指導者が即ち神であるという、即ち世界と神との関係を芸術の作品と芸術家の如くに考えるのである。これらは皆知識の方より神の存在を証明し、かつその性質を定めんとする者であるが、そのほか全く知識を離れて、道徳的要求の上より神の存在を証明せんとする者がある。これらの人のいう所に由れば、我々人間には道徳的要求なる者がある、即ち良心なる者がある、然るにもしこの宇宙に勧善懲悪の大主宰者が無かったならば、我々の道徳は無意義のものとなる、道徳の維持者として是非、神の存在を認めねばならぬというのである、カントの如きはこの種の論者である。しかしこれらの議論は果して真の神の存在を証明し得るであろうか。世界に原因がなければならぬから、神の存在を認めねばならぬというが、もし因果律を根拠としてかくの如くいうならば、何故に更に一歩を進んで神の原因を尋ぬることはできないか。神は無始無終であって原因なくして存在するというならば、この世界も何故にそのように存在するということはできないか。また世界が或目的に従うて都合よく組織せられてあるという事実から、全智なる支配者がなければならぬと推理するには、事実上宇宙の万物が尽《ことごと》く合目的に出来て居るということを証明せねばならぬ、しかしこは頗《すこぶ》る難事である。もしかくの如きことが証明せられねば、神の存在が証明できぬというならば、神の存在は甚だ不確実となる。或人はこれを信ずるであろうが、或人はこれを信ぜぬであろう。且つこの事が証明せられたとしても我々はこの世界が偶然に斯く合目的に出来たものと考えることを得るのである。道徳的要求より神の存在を証明せんとするのは、尚更に薄弱である。全知全能の神なる者があって我々の道徳を維持するとすれば、我々の道徳に偉大なる力を与えるには相違ないが、我々の実行上かく考えた方が有益であるからといって、かかる者がなければならぬという証明にはならぬ。此の如き考は単に方便と見ることもできる。これらの説はすべて神を間接に外より証明せんとするので、神その者を自己の直接経験において直にこれを証明したのではない。
然らば我々の直接経験の事実上において如何に神の存在を求むることができるか。時間空間の間に束縛せられたる小さき我々の胸の中にも無限の力が潜んでいる。即ち無限なる実在の統一力が潜んでいる、我々はこの力を有するが故に学問において宇宙の真理を探ることができ、芸術において実在の真意を現わすことができる、我々は自己の心底において宇宙を構成する実在の根本を知ることができる、即ち神の面目を捕捉することができる。人心の無限に自在なる活動は直に神その者を証明するのである。ヤコブ・ベーメのいったように翻《ひるがえ》されたる眼 umgewandtes Auge を以て神を見るのである。
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神を外界の事実の上に求めたならば、神は到底仮定の神たるを免れない。また宇宙の外に立てる宇宙の創造者とか指導者とかいう神は真に絶対無限なる神とはいわれない。上古における印度の宗教および欧州の十五、六世紀の時代に盛であった神秘学派は神を内心における直覚に求めている、これが最も深き神の知識であると考える。
[#ここで字下げ終わり]
神は如何なる形において存在するか、一方より見れば神はニコラウス・クザヌスなどのいったように凡《すべ》ての否定である、これといって肯定すべき者即ち捕捉すべき者は神でない、もしこれといって捕捉すべき者ならば已《すで》に有限であって、宇宙を統一する無限の作用をなすことはできないのである(De docta ignorantia, Cap. 24)。この点より見て神は全く無である。然らば神は単に無であるかというに決してそうではない。実在成立の根柢には歴々として動かすべからざる統一の作用が働いている。実在は実にこれに由って成立するのである。たとえば三角形の凡ての角の和は二直角であるというの理は何処にあるのであるか、我々は理その者を見ることも聞くこともできない、而《しか》もここに厳然として動かすべからざる理が存在するではないか。また一幅の名画に対するとせよ、我々はその全体において神韻縹渺《しんいんひょうびょう》として霊気人を襲う者あるを見る、而もその中の一物一景についてその然る所以《ゆえん》の者を見出さんとしても到底これを求むることはできない。神はこれらの意味における宇宙の統一者である、実在の根本である、ただその能《よ》く無なるが故に、有らざる所なく働かざる所がないのである。
すなわち、神の「思考」が実在を実在として統一を保つための糊として働いている。
この筆者が、西田哲学を学んだのだろうか?筆者も西田氏も同じ様な思想を学んだのか?それは否定できないが、或いはつきつめて考えれば誰でも到達する帰結なのだろうか?
ここで、西田氏は次の様にも述べている。
我々の他愛とはかくの如くして起ってくる超個人的統一の要求である。故に我々は他愛において、自愛におけるよりも一層大なる平安と喜悦とを感ずるのである。而して宇宙の統一なる神は実にかかる統一的活動の根本である。我々の愛の根本、喜びの根本である。神は無限の愛、無限の喜悦、平安である。
そこで、マザー・テレサ名言集のある言葉を想起した。
映画「マザー・テレサ」のendingにあった語録を追加しておきます
http://www.asyura2.com/0601/revival1/msg/232.html
投稿者 どん兵衛 日時 2006 年 10 月 19 日 22:48:07: 7oUaiPRSj3bnA
Love, rather than be loved.
その意味するところが少しわかる様な気がするのだ。