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【再掲】ポルポトとキッシンジャー 戦争犯罪と免罪符 (エドワード・ハーマン)
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投稿者 小沢内閣待望論 日時 2007 年 9 月 20 日 18:02:20: 4sIKljvd9SgGs
 

ポルポトとキッシンジャー 戦争犯罪と免罪符 (エドワード・ハーマン)
http://www.asyura2.com/0411/bd38/msg/488.html
投稿者 乃依 日時 2005 年 1 月 11 日 15:58:16:YTmYN2QYOSlOI

http://rootless.org/herman/polpot_kissinger

ポルポトとキッシンジャー
戦争犯罪と免罪符
エドワード・ハーマン [--.Sep.1997]
あくび訳 [08.Jun.2003]
戦犯の捜索が, またはじまった. ハーグで継続中の告発されたセルビア人の裁判と同時に, NATO は不当な襲撃によって他のセルビア人容疑者を捕えたり殺したりする. さらにメディアでは, ポル・ポトを裁判にかけることについて, たくさんの議論がなされ熱をあげている. NY タイムズ 紙 (6月24日) の社説では, それが実現すれば「法と文明のたぐいまれなる勝利」となるであろうと約束してくれる.

戦争犯罪の政治学
しかし, 世界中に, たくさんの大量殺戮犯がうようよしている. だれが追訴されてだれが免罪を許されるのか, どうやって選んだのだろう? 支配的な利益と権力の線をたどり, いかに主流の政治屋・メディア・知識人たちが その要望を反映しているかを観察することによって, その答えをみつけることができるだろう. メディアの注意と怒りは「旗印」に従い, その旗印は, 国内政治の計算に基づく若干の偏向もあるが, マネー (すなわち企業コミュニティの要望) に従う. これは, サダム・フセインの場合のように, 時折へんに曲がりくねりことがある. サダムは, イランとの戦争やイラクのクルド人に対して化学兵器で攻撃した 1980年代 首尾一貫して援助されてきた, 1990年にクウェートへ侵攻するまでは. そのときサダムは, 一夜にして「ヒトラーの生まれ変わり」に変身した. 同様に, ポルポトも 1979年にベトナムに追放されるまでは「ヒトラーより極悪」だった, なのにその後は 10年以上にわたって, ひそかに援助された. 合衆国と西欧の同盟国によって(中国とも共謀して)「ベトナムを絞りあげる」ために. しかし, 今はもはや西洋の政策の役にたたなくなったので, 再び戦犯裁判に格好のターゲットになった.

我々がどのように戦争犯罪人を標的にするかを見るもうひとつの方法は, 予算削減や投獄についての国内政策との類比である. そこには, 比較的弱者が攻撃され, 政治的・経済的な強者は無視され保護される, というパターンがみられる. ポル・ポトはもう孤立しており政治的には捨て駒だ, だから名指しで悪役にするのは当然のことだ. 対照的に, インドネシアの指導者スハルトは, おそらく 1965-66年に 百万人 (主に土地無し農民) を殺戮し, 1975年から現在に至るまで 東チモールを侵略し占領し大量虐殺をはたらいた張本人なのだが, 超大国からちやほやされ保護されている. かれは, 1996年にクリントン政権の役人に「我々とおなじ仲間」と呼ばれた. ピノチェトは, 何千人を生き地獄に放り込み 殺したが, 合衆国内で素敵なネオ・リベラル国チリのゴッドファーザーとして丁重に扱われている. フォード大統領とキッシンジャー国務長官は, スハルトに東チモールへ侵略して膨大な戦争犯罪をはたらく許可を与え, さらにキッシンジャーは, ニクソン大統領がピノチェトのクーデターを計画し, 同政権の拷問と殺戮の政権を保護するのを手伝い, カンボジア大虐殺の第一期 (1969-75年) を指揮したのだが, かれらは名誉市民の座にとどまっている. メディアは一度たりともこのような連中を, 正義と法と「文明」のために, 裁判にかけるべきだと提案したことはない.

合衆国/西欧のポル・ポト擁護
6月24日の タイムズ 社説は, ポル・ポトを追求するうえで, 若干の問題があることをわかっている. これは かれがベトナムによってカンボジアから放逐された後の事実に起因するのだが, 「1979年から 1991年まで, ワシントンは間接的に, 当時ベトナムが (プノンペンに) 樹立した政権と闘う ゲリラ連合の構成要員だったクメール・ルージュを支援していた」. これはちょっと都合がわるい: 合衆国とその同盟国は, 経済的・軍事的・政治的にポル・ポトを支援し, 10年以上にわたってポルポト政権を国連の席に留めるよう投票し続けたのに, 今はかれを戦争犯罪の裁判をせきたてている. タイムズ はこの件を偽って控えめに主張している: 合衆国は間接的支援だけでなく直接に ── ある見積りでは, 8,500万ドル ── 援助していた. また「国連機関に圧力をかけてクメール・ルージュに物品を補給させ」, それによって 1979年の後, ポルポト軍の健康状態と能力は「迅速に向上」した (Ben Kiernan, "Cambodia's Missed Chance", Indochina Newsletter, Nov.-Dec. 1991). 合衆国と手を組んだ中国は, ポル・ポトに大量の兵器を供給した. 合衆国による罰則もなしに. 実のところ, 合衆国と共謀していたのだ ── カーターの国家安全保障補佐官だった ズビグニュー・ブレジンスキーは 1979年にこう言った「私は, 中国にポル・ポトを支援するよう促した ... ポル・ポトは忌まわしい存在だったので, 直接, ポルポトを支援することはできなかった. けれども, 中国にはそれができた」.

関係の正常化をもたらすことを希望して, 1988-89年に ベトナムは軍隊をカンボジアから引き揚げた. タイとその地域の各国は事態の収束をみまもっていたが, なにも起こらないまま さらに数年が経った. 「それは, 中国と合衆国が, クメール・ルージュを排除する ... 動きを拒否したからだ. 超大国は ... クメール・ルージュに拒否権を提供し続けた」. クメール・ルージュは,「和平プロセスを無効にして ... かれらの戦争の目的を推進する」ために中国が支持して, その拒否権を行使した. ブッシュ政権は, タイに「合衆国-中国の攻めの姿勢から離脱」したら罰すると脅して, ジョージ・シュルツと次いでジェイムス・ベイカーが, ベトナムへのいかなる譲歩も ── そのうち最も重要だったのは, ポルポトを政治的交渉とカンボジア暫定政権から排斥するというものだったのだが ── ぶち壊そうと激しく対抗した. ポルポトのためにレーガン-ブッシュが粘り強く取り組んだことは, 主流メディアではこれまで, まったく抑圧されたのではないにせよ, かなり軽視されてきた.

タイムズ は 1978年以降の 欧米によるポルポト支援の気まずさを解消する方法を示す: 「安保理の全理事国は ... クメール・ルージュ支配の恐ろしい 4年間にカンボジア国内で犯した犯罪だけに訴追する範囲を制限することによって, 各々の気まずい問題を容認できるかもしれない」. 我々は, これが超大国の気まずさを回避するためのものだと認める点で, 半分正直な タイムズ を称賛せねばならない. しかし, 興味深いことに, タイムズ は, 戦争犯罪を長年にわたって支援してきたことは明白なのに, 「汚いやり口」と偽善の真の問題に気付かない. もし 10年以上にわたって 法と秩序により犯罪が保護され支援されていたならば, いったい「法と文明」というのがいかほどのものか, という反省もみられない.

二段階のカンボジア「大虐殺」
タイムズ も, 他の主流メディアの皆と同様に, やはり 1975年にポルポトが政権に着く以前のことを指摘し忘れている. フィンランド政府の調査で虐殺の「十年」(ポルポト支配の 4年間, 1975-78年だけではない)という期間の前半, 合衆国はカンボジアを壊滅させたのだ. ニクソン-キッシンジャー暴力団によるカンボジアでの「秘密爆撃」で, クメール・ルージュによって処刑されたのに匹敵するだけのカンボジア人を殺し, また確実に, クメール・ルージュの残忍な行為を, 指導者たちが外国のテロリストたちと結託していた都会のエリートや市民へと向かわせた.

合衆国が強要したホロコーストは, ベトナム戦争の「おまけ」だった. 合衆国は 1969年からカンボジアを激しく爆撃して, 1970年のシアヌーク転覆の企てを助け, サイゴンの傀儡政権と協力して 1960年代と後のカンボジアへの侵略期間をもたらした. 「合衆国の B-52 爆撃機は (1973年に) 160日連続で猛攻撃をくわえ, 24万トンを超える爆弾を, 田畑や水牛や, (とくにメコン川沿いの) 村落や, ゲリラが保守しているかもしれない軍用地の上に落した」, 総トン数で「第二次世界大戦のあいだ日本に落した従来型の火薬よりも五割増しに相当する」. この「継続的な無差別爆撃」は, もちろん, 空軍も地上防衛も持たない農村社会に対して遂行されたものだ. フィンランド政府の調査は, この第一期に 60万人が死に, 200万人の難民が出たと概算している. マイケル・ヴィッカリー (Michael Vickery) の見積もりでは, 第一期で 50万人が死んだという.

虐殺の十年の前半のおわりには, クメール・ルージュが勝利して 1975年 4月にプノンペンを占拠した. 当時のカンボジアは, 荒廃した, 滅茶苦茶な社会で, 作物も種付されず, 膨大な難民がプノンペン市内と周辺にあふれ, 生命線だった合衆国による援助も突如打ち切られて, 集団餓死の危機に瀕していた. 合衆国の高官たちは, クメール・ルージュが支配する前に百万人が餓死すると見積もっていた. クメール・ルージュは, 食わせる余地がないほどの人口だったプノンペンから住民の集団移住を強制したが, これは欧米ではまったく不当な報復行為として解釈された.

クメール・ルージュが残虐で大人数を殺したことに疑問の余地はない. ヴィッカリー (Michael Vickery) の概算では 15-30万人が処刑され, ポルポト支配の 4年間に 75万人が [訳注: 通常の死亡率よりも] よけいに死亡した. David Chandler は最大 10万人が処刑されたと見積もっている (ニューズウィーク, 1997年, 6月30日). フィンランド政府の調査では, 処刑も病気・飢餓・過労による死亡も含めて, ポルポト時代の総死者数を百万人とした.

プロパガンダ・システムのなかの大虐殺
「虐殺の十年」を通じて, メディアのやったことは チョムスキーとわたしが 『マニュファクチャリング・コンセント』 (Pantheon, 1988年) で発展させたプロパガンダ・モデルに完璧に合致するものだった. 合衆国が主催した第一期のカンボジア人犠牲者は「無価値」とされ, 何十万もの死者と数百万の難民はほとんど完全に無視された ── 「キリング・フィールド」は第二期にのみ発見された. 1973年 爆撃がピークを迎えた時に プノンペンから NY タイムズ にリポートした, シドニー・シャンバーグ (Sydney Schanberg) による 45のコラム記事において, たった三本の記事だけが, 第一期の難民犠牲者の二、三の言葉を引用して, 何が起こったのか記述している. 近くの難民キャンプには膨大な数の人々がいたが, かれがそのうち一人にでも長いインタヴューを行ったような記事はない.

学者たちは, 第二期におけるクメール・ルージュの行動を形成した重大な一因が第一期にあることを一様に指摘した: すなわち, 社会組織を破壊し, 勝利者が「暴力的で, 執念深い, 容赦のない社会革命を遂行する心理的要因」(David Chandler) をもたらしたことだ. だが主流メディアにとって, 第一期は存在しない; カンボジアの歴史は 1975年 4月に, クメール・ルージュの大虐殺とともに幕を開けた. ここで我々は, パリ知識人/毛沢東主義に基づくテロに耐え忍ぶ「穏和な国」の「価値ある」犠牲者を手に入れ, リポーターたちはタイの難民にインタビューしようと殺到した. ジャン・ラクチュール (Jean Lacouture) は, New York Review of Books の もてはやされた書評のなかで, 『カンボジア: ゼロ年』 は ポルポト高官の引用で 二百万人を「抹殺した」と「豪語した」という, と主張した. この主張が捏造 (かれがたくさん捏造したうちのひとつ) だと発覚した後で, ラクチュール自身が撤回したのだが, 二百万という数字は権威をもったまま残り, 偽造や捏造は除去することが不可能だとわかった.

このような都合のよい見方が現在普及している: 第一期など存在しない. たまに何かのついでで 1975年以前に合衆国がカンボジアにいくらか爆弾を落したことや 1978年以後の (ポルポトを含む)「レジスタンス」と提携したことを認めることはあるが. 第二期のすべての死者は, ポル・ポトとかれの狂信的な信念のせいであり, したがって かれを戦犯裁判にかけるべき唯一の悪役とみなすことはもっともだ. カナダのメディアでは, ニクソンとキッシンジャーも戦争犯罪人だと提案されるが (Thomas Walkum, 「キッシンジャーもポル・ポトと一緒に裁判にかけよう」, トロント・スター, 1997年, 6月30日), 合衆国の主流メディアにはない. レーガン-ブッシュ時代の 合集国によるポルポト支援について能弁に書いた ベン・キルナン (Ben Kiernan) のような学者でさえ, 今や NY タイムズ (6月20日, 1997年) の特集コラムで, 第一期のことにふれもせず, 1978年以降の 欧米がさかんにこの戦争犯罪者を支援していた事実をなんら斟酌することさえもなしに, ポルポトを告発して裁判を訴える論説を載せている. キルナンは 右翼の狂信者 スティーヴン・モーリスと ウォールストリートジャーナル 編集者たちによる 反共弾圧キャンペーンに さらされてきて, 今は自分が 反ポルポト であることを証明するのに忙しい. これは「対空砲火」[訳注: マニュファクチャリング・コンセント で定義されている用語, メディア攻撃のひとつ] の機能を示す格好の実例でもある.

アンソニー・ルイス: 免罪符もちのウソつき
合衆国のプロパガンダ・システムのもうひとつの特徴は, プロパガンダ・キャンペーン同士の論争が許されないことだ. 結果として, それは隠蔽され かつ/または 酷く歪曲・中傷される. チョムスキーとわたしが 1977年に メディアのカンボジア報道を批判した途端, わたしたち, とりわけチョムスキーが, ポルポトを擁護したと非難された. ウィリアム・ショークロス (William Shawcross) が最終的に, 『ネイション』 に載った チョムスキーの (わたしとの) たったひとつの書評記事のせいで, 大虐殺に対処する欧米の政策がふいになったといって (ばかげたほど) チョムスキーを責めたてた.

「ポルポト擁護者」といわれる者を攻撃する人間は, 大手を振ってウソをつける. 6月23日に, アンソニー・ルイス (Anthony Lewis) が 力強くポル・ポトを告発し, かれの戦争犯罪を起訴することを力説して, この騒動に飛び込んできた. ルイスは「ニクソン大統領とヘンリー・キッシンジャーによる爆撃が農村社会に打撃を与えた」ことにふれたが, ただポルポトが我々のリーダーを凌いだことの導入につかわれただけだ. 爆撃 (など) と第二期に「命を落した [中略] 百万のカンボジア人」の因果関係について なんら示唆することもない. ルイスはまた, たとえポル・ポトの方がより悪いとしても, ニクソンとキッシンジャーによる被害規模も戦犯裁判にかけるのに十分なものではないか, と議論することもしない.

そしてルイスは続ける: 「欧米の知識人数名は, とりわけノーム・チョムスキー教授は, カンボジアで起きたことを信じようとしない. まずはじめに, 少なくとも, かれらは殺人の報告をカンボジア革命を破壊するためのアメリカ人政治家と報道機関の共謀活動のせいにする」. これは何重にもウソだ: 第一に, わたしたちは一般的な報道を信じなかったことはないしとても明確に「ゾッとする (胸が悪くなる) ような」残虐行為が遂行されていると書いた. わたしたちは, ラクチュールのウソのような甚だしいウソのいくつかと, メディアの盲信ぶりを検証した. この件の場合, 敵方に不利なことは疑いもせず, 盲信ぶりはかなりのものだった. 第二に, わたしたちは一度たりとも, なんらかの陰謀があるなどと信じたことも言ったこともないし, 信頼できそうな情報源として 政府省庁の専門家をきちんと引用した. 第三に, わたしたちは「カンボジア革命」を擁護したりしていないし, 断じて, プロパガンダ・キャンペーンがそれを破壊するために計画されたものだと信じたことはない; 実際, わたしたちが強調したのは, スポークスマンたちが カンボジアの人々を助けるためには なにもせず, なにかをしようと提案することさえなかったことだ. わたしたちは, プロパガンダ・キャンペーンは アメリカ人を対象にしたもので, ベトナム戦争によって深刻な打撃をうけていた帝国主義イデオロギーの再構築を促進するためのものだと考察した.

ルイスはさらに「権利侵害の報告を, 他国に介入する欧米のやり方として説明して片付ける」と言う. 合衆国によって資金提供され保護されている人権侵害者が関与している, エル・サルバドル, グァテマラ, トルコ, コロンビア, ペルーなどの莫大な人権報告の事実を無視して. わたしたちがカンボジアについて書いたもののなかで, チョムスキーとわたしはしばしば, ポルポトがカンボジアで政権についたのと同じ年に, インドネシアが東チモールへ侵略して大量虐殺をはじめたことを指摘している; そしてわたしたちは, 東チモールの場合には, カンボジアの場合と違って, 合衆国は 軍需物資を提供している主要国であり, インドネシアと大規模な経済的関係をもっているために, 効果的に人権をまもることをできたはずだ, ということを強調した. しかしその大虐殺は同盟国によって為されたことで, 合衆国の公官に承認されたものだったので, 沈黙をまもることが主流だった. 聖人面したアンソニー・ルイスは, 奇妙にもこの問題にふれない.

ルイスはウソをついて, かれの国が選り好む戦争犯罪人を裁判に連れ出す必要性を訴えるような 陳腐な文句を繰り返すことができる. 応酬を恐れることもない. なぜなら, かれの新聞社は, 批判からの免罪符をかれに与えているから. ルイスのウソに対するチョムスキーの反論と, 同様のいくつかの手紙は, NY タイムズ 紙上に掲載することを拒否されたのだ.

崩壊しつつある左派
合衆国では左派がとても弱小なので, 体制派のプロパガンダのテーマやウソっぱちが, しばしば左派自身の知識人組織に組み込まれる. マニュファクチャリング・コンセント への ある批評では, 反戦運動のリーダーでさえ 合衆国のベトナムでの政策について「侵略」だとか「侵攻」とは言わないというのに, どうして主流メディアにそれ以上のことが望めるだろうか? と問うていた. かれには思いもよらなかったようだが, もし体制派の見解が, 反体制派の議論の幅をも規定してしまうほど強力だとしたら, これは圧倒的に強力なプロパガンダ・システムを証明するものだ.

今日の合衆国左派では, カンボジアについても他の沢山の問題と同様に, 世間的な通念がたいてい優勢である. In These Times (7月29日) の記事でも, アダム・フィフィールド (Adam Fifield) は ポルポトだけに虐殺の罪を見い出し, 合衆国の果たした役割を控えめに扱い, チョムスキーについて陳腐なウソをつく. 申したてによると「ポル・ポトの気高い革命を悪魔化するための捏造だとして [ニュース] 価値を貶めた」という. アンソニー・ルイスの場合と同じく, この著者は チョムスキーがカンボジアについて書いたものを見ようとしたことくらいあるのかどうかさえ疑わしい. チョムスキーに関する主流のウソは, NY タイムズ のときと同じように, 疑問もなくこの左派のジャーナルに載った. ただし, この場合には, 返答の権利は与えられたが.

左派とされている政策研究所と南北間資料センター (Institute for Policy Studies and Interhemispheric Resource Center) によって発行されている Foreign Policy in Focus シリーズの, フィリップ・ロバートソン (Philip S. Robertson Jr.) による 1997年 7月の カンボジアに関する記事では, カンボジアの歴史を文字通り 1975年からはじめ, クメール・ルージュ時代の死亡者数を 150-200万人とし, その死亡者数に加胆したかもしれない それ以前の出来事については一切ふれず, カンボジア公務員の「免罪」に遺感の意を表明し, 他のだれの免罪にもふれず, 合衆国は「ポル・ポトと, 今も残るクメール・ルージュのリーダーたちを虐殺の罪で法廷へ告発するという, 不可欠な仕事を続けなければならない…」と力説する.

左派がこの有様では, 右翼なんかいらない!

正義としての権力
有名な公式がある, 「罪が大きければ大きいほど, 罰は軽くなる」(フリードリッヒ・シラー (Friedrich Schiller)). これが一国内のことならば, 筋が通らないこともないが, 国際間のこととなると, 微調整する必要がある: 罪が大きければ大きいほど罪が軽くなるのは, ただあなたが支配的権力者か・その召使いか・軍事的勝者の場合だけである. ドイツは強大な国だったけれど, ナチスのリーダーの幾人かはドイツが敗北した後に戦争犯罪で死刑に処された; ポル・ポトも裁判にかけられるかもしれない, 弱くて, 敗者で, 超大国にとって 1979年から 1990年代半ばまでのようには もう役に立たないから.

その反面, 合衆国や日本 その他のグローバルな勢力に奉仕するスハルトは, 覇権的権力によって保護され, それゆえに欧米のエリートや主流メディアにとっては 戦争犯罪というよりもむしろ「穏健派」だ. ヘンリー・キッシンジャーは, カンボジアの大虐殺・チリ・東チモールで果たした役割によって一流の戦争犯罪人で, おそらく少なくとも ヒトラーのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相に匹敵するだろう. 外相は 1946年に絞首刑に処せられた. しかしキッシンジャーは, 勝利した有力国のリーダーや手先に自然にふってくる免罪符をもっている. かれはノーベル平和賞を受賞し, いくつもの全米協会の名誉会員で, そしてメディアがお気に入りの導師であり 公共集界のゲストだ.

エドワード・ハーマン (Edward S. Herman) は ペンシルバニア大学ウォートン校の名誉教授で, Z Magazine の常連寄稿者である.
訳注, 参考資料など:
カンボジアの現代史については, カンボジア現代史年表などを参照. ベトナムなど周辺諸国も含む詳細な年表は, ベ平連年表, さらにインドシナ地域が欠けているのが残念だが 鈴木氏の各国年表 がとても有益.
ポルポト支援は, ブッシュ(父)政権も認めた. たとえば LA Times, Feb 27, 1991.
ポルポト支援の援助額については, The New York Times, Nov 16, 1989 など. Human Rights Watch のレポートでも引用されている. 孫引きになるが, クロスチェック済み. HRW World Report 1989 'Cambodia', HRW World Report 1992 'Cambodia'. 著者は, これらを総計したと思われる.
ズビグニュー・ブレジンスキーの発言は, Elizabeth Becker "When the War was Over: Cambodia and Khmer Rouge Revolution" にある. 孫引きになるが Jack Colhoun "On the Side of Pol Pot: U.S. Supports Khmer Rouge" [pdf], ウィリアム・ブルム著「アメリカの国家犯罪全書」 (目次) 第十章「ポル・ポト支援」, 上記引用は この益岡訳を参考にした.
上記資料に加えて, 合衆国によるポル・ポト派支援については John Pilger "The Long Secret Alliance: Uncle Sam and Pol Pot" [another copy] [pdf] がよくまとまっている.
NY タイムズは 反論の機会を与えないが, あたりさわりのない記事は載せてくれる.
その他カンボジアについて, チョムスキーが参照している資料や数字を知るには, Zmag のフォーラムでのまとめ "Cambodia under Pol Pot, etc." & "more on Atrocities in Cambodia", ポルポト擁護非難を巡る議論について Michael Albert "The Cambodia Controversy", Ben Kiernan, Michael Vickery, David Chandler, フィンランド政府, CIA人口統計 などの数字は, 各所で引用されているのを見ることができる. ただし, 引用者によって死因や期間の分け方・足し算の仕方が違うことがあるので要注意.
戦争犯罪一般について, ラッセルが呼びかけてサルトルが裁判長を努めたベトナム戦争犯罪国際法廷, いわゆるラッセル法廷の議事録 "International War Crimes Tribunal on Vietnam - 1967" が, たいへん参考になる.

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謝辞: 翻訳チェックしてくれた RUR-55 さんに感謝です.



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