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これは、6月14日の、ドイツの、「ディ ツァイト、Die Zeit」紙上
ギュンター・グラス、 マルティン・ヴァルサー そして編集者の対談の一部です、ギュンター・グラスはまだ聞き役である。
「スモウルトーク」の後対話が続く。
http://www.zeit.de/2007/25/L-Grass-Walser-Interview?page=2
ヴァルサーが、、「ドイツの過去との付き合い方」が、だんだんと、難しくなっていることを述べ、ジャーナリストの「批判の態度」を批判し、
そして、「グラスの事件(親衛隊所属の件)」についての、自分の見方を述べている、
このあたり、グラスは聞き役である、戦後のドイツ文学について理解がないと、この対話は難しい。誤解、誤訳の可能性大だし、著作権の関係もあるし、勉強をかねて、さわりの部分だけ下手な訳をつけてみました。
( )は私の自分なりにつけた「注」です。
編集部:
まずはじめに、グラスの新しい作品、伝記について、
ヴァルサー:
私が、それについて新聞で読んだとき、自問したんです。
(数々の)憤激、批判があったのだけど、客観的に正しいものは何か、そして、
、(自己批判をしない)メディアの自己正当化とは何かってね。
十年ごとに、その時代精神から「推薦された」、あるいは時代精神にみあう、「ドイツの過去」との付き合い方ののがあるってこと
60年代、誰もそのことを信じようとはしなかったけど、、というのは、当時(時代が)はそこまで進んでなかったからね。
十年ごとに、「過去について」、より敏感に、そして(書くことついて)求められることが「高く」なっているんだ。
編集部:
それについて語ることが、だんだん難しくなってきてるってことですか?
ヴァルサー:
90年代に、私が以前書いたこと(アウシュビッツの日からまだ一日もたっていない。。)を決して見向きも認知しようとしなかった人たちに、まったくひどいやり方で、攻撃されたときに比べたら、私の、60年代の作品、「われわれのアウシュビッツ」そして70年代の作品 「終わりなきアウシュビッツ」のころは、それほど(「過去に敏感」である)必要はなかったんだ。
君たち(編集者たち)は、、彼(著者)が何者であるか、何者であったかをまるで、考えることをしないんだ。
たとえば、Botho Strauss の作品 「Anschwellenden Bockgesang」 または、Sloterdijks の「Rede vom Menschenpark」 にたいする、君たち、またはお仲間がした(ジャーナリスト、編集者のこと)、それら作品に対する反応以上のお笑い種はなかったよ。
君たちが喝采した「スキャンダル」、ファシスト的レトリックとか、ネオナチとかの(レッテル張りさ)。
私の読書経験によれば、「Anschwellenden Bockgesang」 はその文章の幅の広さ、豊かさとともに、ひょっとしたらこの作品は、、ドイツの知識人が戦後発刊した、一番、インテリジェンスに富む、光り輝く作品だよ。
君たちは、まったく読んでない。
僕は、それを再度、昨日読んだところさ。
編集部:
われわれの、何について非難されているのですか、われわれが、誤読しているということですか。。
ヴァルサー:
ここに独りの作家、知識人がいるとしよう、
この人は、過去に何冊の本を書いた、それらを君たちは賞賛し、拍手喝采したんだ。
そして、彼が、簡単には理解されないことをテキストを書いたんだ。そうしたら、彼は、ファシスト的レトリックだと非難された。
私から言わせれば、
彼の今までの本の中からネオナチ的なところを気がついていなきゃいけないよ。
これは、今回のグラスの一件についても同様なことが言える。
読者は、著者の「全体」(著作の全部でない)を読まなければだめってことです。
特に、読者が、その作家の「微妙な点」、「あいまいな点」を判断しなければならないとしたら。。。