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(回答先: シオニストがヨーロッパを完全に牛耳る(『イスラムサービス』社説=英文) 投稿者 さすれば 日時 2007 年 5 月 08 日 15:41:51)
フランスも従来からシオニストの支配下にあった。
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http://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-27.html
『偽イスラエル政治神話』
第3章:神話の政治的利用
第2節:フランスのイスラエル=シオニスト・ロビー
《フランスには、イスラエル支持の強力なロビーが存在し、とりわけ情報の分野に強い影響力を持っている》(ドゥ・ゴール将軍)
フランスでは、ただ一人、ドゥ・ゴール将軍だけが、あえて、こう明言した。《フランスには、イスラエル支持の強力なロビーが存在し、とりわけ情報の分野に強い影響力を持っている。こう断言すると、何時でも、悪評を立てられる。しかし、この断言には、実際に、常に重要な真実の一部が含まれている》(「偏ったイスラエル支持」『パリジャン・リベレ』88・2・29掲載記事)
以後、フランス共和国の大統領候補者の誰一人として、所属政党の如何を問わず、ミシェル・ロカールからジャック・シラクに至るまで、ミッテランは言うに及ばず、メディアによる封土授与を得るためのイスラエル参勤交替を怠らなかった。
中心的な指導者たちが“LICLA”(人種主義と反ユダヤ主義に反対する国際同盟)で構成されているメディアのロビーの影響力は、非常に強く、世論を思うがままに操っている。フランスのユダヤ人の人口は、フランスの全人口の約2%でしかないが、シオニストは、メディアの政治的な決定権を握るメンバーの多数派を支配している。テレヴィからラディオ、活字メディアの日刊紙であろうと週刊誌であろうと、映画に至っては特にハリウッドからの侵略までが加わっているし、出版を手中に収めて編集会議での拒否権を握り、“メディア”の財政的な摂政役の広告にまで、その支配が及んでいる。
[イスラエル支持報道による事件の意味の逆転現象]
何よりの証拠は、メディアのほぼ全体に及ぶ横並び現象であり、イスラエルを支持する立場から、事件の意味が逆転して報道されている。典型例を挙げれば、メディアは、弱者の暴力を“テロリズム”と報道し、強者の暴力を“テロリズムに対抗する戦い”と報道するのである。
虚弱なユダヤ人が、PLOの背教者の手で“アキレ・ラウロ”号の船外に投げ出されると、これは確実にテロリズムであり、その報道には誰も異議を唱えられない。ところが、その報復として、イスラエルがチュニスを爆撃して五〇人を殺し、その中には何人かの子供までいても、これは“テロリズムに対抗する戦いであり、法と秩序の防衛である”と報道されるのである。
あたかも、幕の陰に隠れたオーケストラの指揮者が振り回す細い指揮棒に従っているかのように、およそすべての“メディア”から、コペルニク通りのユダヤ教会堂への襲撃であろうと、カルパントラ墓地での不敬行為[後出]であろうと、レバノンへの侵略であろうと、イラクの破壊であろうと、常に、まったく同じ音楽が流れ出てくる。
私は、自分の個人的な経験にもとづく証言を提出することができる。
一九八二年に至るまで、私は、テレヴィ、ラディオ、新聞などの最も大きい報道機関を通じて、自由に意見を発表することができた。
レバノンへの侵略と虐殺が起きた時には、日刊紙、『ル・モンド』の編集長、ジャック・フォーヴェから、一九八二年六月一七日号に有料で、丸々一頁の意見広告記事を載せる権利を獲得し、ミシェル・ルロング神父、パストゥール・マッチオと一緒に、《レバノンでの虐殺とイスラエルの侵略が意味するもの》と題する見解を発表した。
われわれは、あの侵略行為が、決して一時的なやり過ぎといったものではなくて、イスラエル国家創建の基礎をなす政治的シオニズムの、内的な論理にもとづく行為なのだということを説明した。
その後、私は、匿名の手紙と電話で、合計九回の殺しの脅迫を受けた。
LICRAは、われわれを相手にして、“反ユダヤ宣伝と人種差別の挑発”を理由とする民事訴訟を提起した。
『ル・モンド』の編集長、ジャック・フォーヴェの弁護士は、何度も繰返して、その信仰までも含むユダヤ人社会と、イスラエル国家とを混同するべきではないし、イスラエルがレバノンで行なった不当行為に関しては、マンデス・フランスやナフム・ゴールドマンのような高名なユダヤ人も告発していると主張した。
われわれ、ミシェル・ルロング神父、パストゥール・マッチオと私自身の弁護は、聖書の原典そのものから発した。われわれは、われわれの生命がユダヤの予言者の誓約の賜物であると、何度も繰返して主張した。
ところが、政治的シオニズムは、イスラエルの神の代わりに、イスラエル国家を置き換えているのである。
レバノンに対しての、そしてパレスチナにおけるイスラエルの振舞いは、憎悪を煽り立てるのみであり、世間の目の前でユダヤ教の面目を汚すものである。われわれの政治的シオニズムに対する戦いは、それゆえに、われわれの反ユダヤ主義に対する戦いと不可分なのである。
私自身は、法廷で私自身の研究、『パレスチナ・神の伝言の土地』における分析を、つぎのように繰り返した。
《テオドール・ヘルツルによって創始された政治的シオニズムは、発表された当時も世界中のユダヤ教法師から、ユダヤ教の信仰に対する裏切りとして非難されたものであり、ユダヤ教の信仰から発したものではなくて、一九世紀のヨーロッパの国家主義と植民地主義から発したものである
植民による植民地支配としては最後の生き残りのパレスチナでは、南アフリカの場合と同様に、国連による公式の告発にもかかわらず、彼らの人種主義が続いており、土地を占有する植民者に対する原住民の抵抗運動と衝突している。
われわれもフランスでヒトラーの支配を経験したが、すべての植民地主義と、すべての占領支配の下では、抑圧は“秩序の維持”と呼ばれ、抵抗は“テロリズム”と呼ばれるのである》
LICRAの弁護士が、私を反ユダヤ主義者として描き出そうと試みているのを聞きながら、私は、一九六七年にイスラエルの大臣のバルツィライに連れられて、エルサレムの嘆きの壁を訪れたことや、その後に、当時は世界ユダヤ人評議会の議長だったナフム・ゴールドマンの家を訪れた時のことを想い出した。
私は、集中収容所での暮らしを想い出した。現在のLICRAの前身、LICAの創設者で、私の友人のベルナール・ルカッシュも一緒だった。彼は、われわれと同じ収容者の仲間に対して、私が、“イスラエルの予言者”に関しての講義をする際、その準備を手伝ってくれた。
私は、もう一人、戦闘的な共産主義者の年寄りで、タルン生れの無神論者を想い出した。私とベルナールが、アモスについての講義を終えたのちに、彼は、われわれに対して、こう語った。
《こういう話を聞くと、勇気が沸いてくるよ!》
イスラエル=シオニストが、アメリカとフランスのほとんどのメディアを支配する結果、世界中に、事件の意味の逆転が押し付けられている。たとえば、イスラエルの外交官がロンドンで襲撃されると、首相のサッチャー夫人が下院でPLOの仕業ではないと明言しているにもかかわらず、これは、“テロリズム”となる。イスラエルの軍隊がレバノンを侵略して、何千人も殺したのに、この作戦の方は、“ガリラヤに平和を”と名付けられるのだ!
一九八九年一月一日、私はテレヴィで、“石の反乱”の結果、パレスチナ側に三二七人の、そのほとんどが小石を投げた子供の死者が出ており、イスラエル側に八人の、そのほとんどが自動小銃で射撃した軍人の死者が出たというニュースを見た。同じ日に、イスラエルの大臣の一人が言明した。
《パレスチナ人が暴力を止めなければ交渉はできない》
夢を見ているのは私の方なのだろうか? それとも、または、このような批判精神の知覚喪失状態は、集団的な悪夢なのだろうか? ナンセンスの勝利なのだろうか?
すでに一九六九年には、ドゥ・ゴール将軍が、新聞からテレヴィ、映画から出版までの、すべてのメディアに対するシオニスト・ロビーの“過度の影響力”を告発した。現在では、この“過度の影響力”が、すべての事件の意味を逆転させる作戦に成功している。弱者の職人的な抵抗を“テロリズム”と報道し、強者の殺人的で無限大の暴力を“テロリズムに対抗する戦い”と報道するのである。
私たちは、彼らから見れば邪魔者である。ルロング神父、パスツール・マッチオと私は、この事件の意味の逆転を嘘だと告発したのである。そして、パリの重要訴訟裁判所は、一九八三年五月二四日の判決で、私たちの主張を、《ある国家の政策とその国が鼓吹するイデオロギーに関する合法的な批判であり、人種主義の宣伝ではないと考え、……LICRAのすべての請求を却下し、LICRAに訴訟費用の負担を命ずる》という決定を下した。
LICRAは執拗にも控訴という手段に出た。パリ裁判所の高等部は、一九八四年一月一一日、判決を言い渡した。
この控訴審の判決文では、われわれの記事から、イスラエル国家の人種主義を告発した部分を引用し、われわれの主張に関して、つぎのような判定を下していた。
《記事の署名者たちが発表した意見は、イスラエルの法律によって支持されるユダヤ教の限定的な定義だけに関係するものであると考慮する。……LICRAの請求を棄却した判決を追認し、LICRAに訴訟費用の負担を命ずる》
LICRAはさらに、破棄院[日本の場合の最高裁に相当]に上告した。破棄院が一九八七年一一月四日に下した判決は、われわれの名誉を法的に汚そうとしたシオニストの、すべての願望を吹き飛ばした。破棄院は、《上告を棄却し、上告人に訴訟費用の負担を命ずる》という最終判決を下したのである。
司法の外側では、隠蔽工作が続行された。シオニスト“ロビー”は、その手段を握っている。もしも、われわれが敗訴していたならば、われわれには、すべての新聞の一面トップに、晒し台の罪人よろしく、反ユダヤ主義者として吊し上げられる権利が与えられていたであろう。それとは正反対に、一審、二審、最終審と相次いだLICRAの側の敗訴の事実は、組織的かつ系統的に黙殺され続けた。『ル・モンド』でさえも、元編集長のフォーヴェが巻き添えの被告となって、われわれと一緒に戦っていたというのに、平板な雑文の扱いで済ましていた。
しかし逆に、私が願っていた包囲網の形成は、見事に実現した。『ル・モンド』の意見広告で、シオニストの植民地主義の論理を告発した際、私は、末尾の二行で、読者に掲載料金を支払うための寄付を訴えた。意見広告の料金は五百万サンチームだったが、私は、数百枚の小額小切手で七百万サンチームを受け取った。寄付者の三分の一近くはユダヤ人で、その内の二人は法師だった。
だが、この時点以後、メディアによる窒息作戦が開始された。テレヴィ出演はもとより、私の寄稿までが拒絶されるようになった。私は、それまでに四〇冊の本を、すべて大手の出版社、ガリマール・オ・スイユ、プロン・ア・グラセ、ラフォンなどから発刊していた。それらは二七の言語に翻訳されていた。
だが、それ以来、すべての大手出版社の扉は閉ざされた。拙著の主要な出版者の一人は、重役会で、こう語った。《ガロディの本を出せば、アメリカの著作物の翻訳出版の権利がなくなる》。私の方を取れば、彼の出版社は破産に追い込まれるのだ。もう一人の“重要人物”は、別の著作の件で、私の本の出版に熱心に取り組み、仕上げを助けるために三か月も働いてくれた女性の文芸編集長に対して、こう言った。《私は、わが社からガロディの本を出そうとは思わない》
まさにこれは、私という一個の人間の、終身禁固刑の物語なのである。
ナンセンスに対するわれわれの抵抗運動のネットワークは、世間には内密のまま処罰されている。私自身の状態は文筆界における死刑である。罪名は希望所持罪違反である。
以上は、シオニズムによる“意味の逆転”に関して、私が自分の経験にもとづいて証言できる一つの実例でしかない。まだまだ沢山の実例を挙げることができる。だが、毎日のように、皆が実例を目撃してるのである。それは、つまるところ、すべての人類に対してヒトラーが犯した犯罪の、意味そのもののに関することなのである。その犯罪は、シオニストのプロパガンダによって変造されている。シオニストは、ヒトラーの人類に対する犯罪を変造し、ユダヤ人が唯一の犠牲者だと称する巨大なポグロムだけに限定してしまっているのだ。
[ニュルンベルグ判決を神聖化するゲーソ法]
一歩踏み出せば限度を越える。行く手には今や、例の法律の名を騙る“ウカーズ”[帝政ロシア時代の勅令]が待ち構えており、言論報道の自由に関する従来の法律を反古同然に遇して、司法官を歴史の真実の審判者に仕立て上げる言論取締法が、すでにファビウス法、または、一九九〇年五月に、この悪辣な法律の父親役を引き受けた共産党議員の名に因む呼び名の“ゲーソ法”として制定された。
この法律は、一八八一年に制定された言論の自由に関する法律に、つぎのような二四条b項[前出。本訳書一三九〜一四〇頁の引用よりも省略されている]を付け加えたのである。
《一九四五年八月八日のロンドン協定に付属する国際軍事裁判所規則6条に基づいて決定された人道に対する犯罪の一つまたはいくつかを……否定した者は、24条6項で予め定められた刑によって処罰される。》(フランス国会議事録90・5・3)
国会議員のアサンシ氏の報告にもとづいて、正確を期すと、この法案は、“見直し論”に着せる新たな罪を作り出すことを狙ったのである。
その他にも、この法案には、《違反行為の発生に際して、民事原告人の志願者が協力関係を結ぶ可能性を拡大する》(同法7条)という狙いがあった。
法案を紹介したのち、報告者は、その立法目的を、つぎのように定義する。《現存の取締法の兵器庫を完成し、刑法が、……威嚇と取り締まりの役割を十分に果たせるように、仕掛けを強化することである》(同前議事録90・4・26)
ニュルンベルグ裁判所は、すでに見たように、他の裁判所に負けず劣らず、判例作りに貢献したのである。
一年後、否決されはしたものの、この法律に対してトゥボン氏が、つぎのような修正案を出した。
《一八八一年に制定された言論の自由に関する法律の二四条b項は廃止された》
この修正案は、ゲーソ氏が提案した“見直し論者”の歴史家に対する言論取り締まりを取り消し、歴史の批判的研究に対して、ヒトラーの弁護論や人種主義と同類扱いすることを拒否するものだった。
トゥボン氏の提案説明は、つぎのようであった。
《一九九〇年に、ゲーソ氏を署名者の筆頭とする共産主義者の集団によって提案された法律に関して、われわれが議論した際に、私は、この法案が、歴史の真実を歴史に自ら語らせる代わりに、法律によって固定しようとする原理から成り立つものだとして、反対したが、反対者は私一人だけはなかった。
ある者は、真実を明らかにすることこそが歴史の役割だとすれば、それを法律で強制すべきことではないという理由を述べて、法案に反対した。ある者の議論は、論旨が広がり過ぎており、一言で表現することはできない。実に、この法律は、それと気付かせず巧みに、政治活動を犯罪扱いにし、さらには、言論の自由を犯罪扱いにするのである。
この法律の二四条b項は、私の意見では、非常に重大な政治的および法律的な間違いを、代表している。実際に、この法律は、「当座のための法律」[訳注1]して組み立てられていたのであり、私は、そのことが非常に残念でならない。あれから一年が過ぎた。一か月以内に、われわれは、「カルパントラ事件」[後出]の記念日を迎える。今となっては、昨年の法案審議をめぐる筋書きは、議論の余地なく明らかである。私は今ここで思い返すのだが、大統領の協議会が昨年の同事件記念日に合わせて大急ぎで、この法案の審議を議事日程に押し込んだのである。われわれは、「法案への署名を自らが行うことを密かに決意した立法議会の議長、ファビウス氏が議論を急き立てるままに」、議会に審議が寄託されてから四八時間以内に、法案審議を打ち上げてしまったのである。あれから一年を経て、われわれは、冷静に、私自身が今そうしているように、この法律の妥当性を吟味できる。二四条b項に定められた「見直し論」を犯罪扱いにすることの是非を吟味し、シモーヌ・ヴェイユも論じているように、このような犯罪扱いは都合が悪いという結論を下すことができる》(同前議事録91・6・21)
実際に、この法律の制定以後、すべての歴史家は、アメリカ代表の首席検察官[ジャクソン判事]が律義にも、《最後の戦争行為》であり、さらには、その決定が、《通常の裁判所において証拠もしくは処罰の材料として利用されてはならない》とまで認めていたニュルンベルグ裁判所の決定に対して、いかなる疑問をも投げ掛けることを禁じられてしまったのである。
訳注1:「当座のための法律」は仏日辞典にある訳語。原語は、loi de circonstanceである。直訳すれば「事情法」になる。この場合も、本書の性質上、協力者の名は記さないが、国際法および外国法の専門家に確かめた。永続性のある原理的な法律ではないという意味である。日本にも「時限立法」などがあるが、総括的な専門用語は確立していない。文中の「一八八一年に制定されたフランスの言論の自由に関する法律」は、国際的にも著名で模範的なものである。トゥボン議員は、その格調高い法律に、いつ評価が変わるか分からないニュルンベルグ裁判所の判決にもとづく追加条項を加えていることについて、「非常に残念でならない」と主張しているのである。まさに、本書成立の「事情」を象徴するかのような法律用語である。
[悪辣な法律に潜むフランス人全体の奴隷化]
この悪辣な法律が残した爪痕の一つは、ジャック・シラクが一九九五年七月一六日の日曜日に行った発言である。この発言は、国民の統一を解消し、かつ放棄する共謀のための、われわれの歴史の中での、重大な瞬間として記録されるべきである。その時、わが共和国の大統領は、こう言明したのである。
《占領者の犯罪的な狂気を、フランス国民とフランス国家が補佐した》
この発言は、フランスに対して二重の犯罪を犯している。
●まず最初に、[ナチス・ドイツに協力した]ヴィシイを、フランス国家として語り、ヴィシイに正統性を与えた。
●さらにはフランス国民を、占領者に奉仕した奴隷的な指導者たちと混同することによって、フランス国民を卑しめた。
これと同じ方法で、シオニズムの考え方を公式化するために擁護したのが、ベルナール=アンリ・レヴィである。彼は、著書の中で、つぎのように記している。
《これがフランス文化のすべてである。……われわれの過去の下劣な歴史を、一人、一人が、自ら証言するのが、われわれの最も大切なフランスの伝統なのである》
彼は、フランスを《ヒトラーの国家社会主義による支配体制の一部》に変えたのはフランス人自身であり、その《フランス人の思想の奥底》に隠されている《古傷の膿》を、狩り立てて出し切るべきだと説くのである(ベルナール=アンリ・レヴィ『フランスのイデオロギー』81)。
当然のことながら、このようにフランス国民を卑しめる議論は、CRIF(フランス・ユダヤ人団体代表評議会)の指導者たちから熱狂的な喝采を受けた。彼らが表明したのは、《一九四〇年から一九四四年の間のフランス国家の継続性を、ついに、最高権威が認めたことを目の前に見る強い満足感》であった。
恥ずかしいことに、フランスのすべての党派の指導者たちが、公共的機関である『フィガロ』やら『ユマニテ』やらの紙上で、このシラクの裏切りを承認してしまった。
これは、フランスの統一と、すべての人々のレジスタンスの伝統への裏切り行為なのである。
ドゥ・ゴールは、一度たりともヴィシイを国家と見なしたことはない。彼は、『回想録』[日本語訳題は『ド・ゴール大戦回顧録』]に《ヒトラーがヴィシイを作った》と記し、《ヴィシイの傀儡》(同前)と表現し、こう語っている。
《私は、敵に無条件降伏した政体に正統性はないと声明した》(同前)《フランス固有の政府は存在しなかった》(同前)
ドゥ・ゴールは、一九四〇年三月二八日にイギリス政府と結んだ協定を引用して、すべての分離停戦を否定(同前)し、つぎのように明快に語っている。
《ヴィシイに位置する組織は、それが名乗っている名称(国家)とともに、フランス憲法に反しており、侵略者への屈服に他ならない。……この組織は、フランスの敵の道具でしかなく、道具としてのみ存在を許されているものである》(同前)
ドゥ・ゴールは、戦争中、一貫して、この態度を維持した。一九四一年九月二三日にフランス国民委員会を創設する布告の中で、彼は、こう宣言している。
《一九四〇年一〇月二七日および一一月一二日布告とともに、一九四〇年一一月一六日の付帯宣言を踏まえて、以下のように現局面を判断する。
戦争が続いている結果としての状況下、国民代表の集会や表現の自由が、すべて妨げられている。
フランス共和国の憲法および法律は、首都および全領土内で、敵の活動によるよりも敵に協力する権威の簒奪者によって、これまでと同様に今後も蹂躙され続けるであろう。
多くの証拠によって示されているように、フランス国民の圧倒的多数は、暴力と裏切りによって強制された政体を受け入れるどころか、自由フランスの権威に対して希望を寄せ、ともに戦う意志を表明している。……》(同前)
ドゥ・ゴールは、このように、フランス国民と奴隷根性の指導者たちとを、別個の存在として考え、連帯責任を否定した。
《ヴィシイの指導者たちを個人として非難することによって、フランスを、国家の放棄でしかない政治的策略から分離したのである》(同前)
パリで市民の蜂起を思い起こしながら、彼は、こう書いている。
《敵の勢力圏内にいようとも、われわれの勢力圏内にいようとも、誰一人として知らぬ者はなかった。四年間の圧制も、首都の心を屈服させることはできなかった。裏切者どもは、健全さを失わない身体の表面の、みすぼらしい泡にしか過ぎなかった。パリの街々、家々、工場、アトリエ、事務所、造船所は、銃殺、拷問、投獄、レジスタンスの英雄的な戦いと引きかえに、その自由を取り戻し得たのだ。》(同前)
《最悪の事態に立ち至った時にも、わが国民は、自らを見捨てなかった。》(同前)
以上の歴史的事実を、シラクは、わずかな言葉の中で、シオニスト指導者たちが牛耳るメディアに取り入るために、売春宿の主人よろしく否定して見せたのである。この有様は同時に、彼が、すでにシオニスト・ロビーの餌食となったアメリカに、さらに隷属することを示している。彼は、さらに、シオニスト・ロビーの圧力に屈して、[欧州同盟結成に向けての]マーストリヒト条約への反対を取り下げた。フランスの崩壊と、“国際通商機構”を焼き直したGATT[ガット]というアメリカの強制命令への服従が、こうして確認された。ここに至って、第三世界との関係の根本的な変革によるフランスの独立と、再生の可能性は、ついに破壊された。
[反ユダヤ主義の妖怪で世論を煽る常套手段]
従来と同様に、シオニストは常に、反ユダヤ主義の妖怪を持ち出しては煽り立て、イスラエルに対する絶え間ない脅威が存在しているのだから、イスラエルには援助が必要なのだと、世間に信じ込ませ続けている。イスラエルの不当な請求に仮面を被せるためには、新しい挑発行為を重ねる努力も怠らない。手口は、いつも似たようなものである。[レバノン侵略で]サブラとシャティラの虐殺が起きた時、作家のタハル・ベン・ジェロームは、つぎのように記した。
《別の場所で同時に発生することが、何度も繰り返されると、ついには重要な兆候として理解されるようになる。現在、人々は、ヨーロッパにおける反ユダヤ主義的な暴行事件が何に奉仕し、その種の犯罪が誰の得になるのかを良く知っている。それは今、パレスチナやレバノンの民間人の住民に対する計画的な虐殺を、巧みに隠蔽する役割を果たしている。この種の暴行事件が、ベイルートでの流血の惨事に、あるいは先行し、あるいは続いて起き、あるいは同時に発生していることが確認できる。このテロリストの作戦は、彼らが追求している政治的な目的を、直接的または間接的に成し遂げる能力を見せており、現在までのところでは完璧に、その目的を果たしている。その目的とは、パレスチナ問題についての理解が、いささかでも高まり、同情を呼び始める度毎に、その関心を、そらすことである。この種の組織的な作戦によって、事件の意味が逆転し、犠牲者の方が逆に、残忍な殺人者やテロリストに仕立て上げられている。パレスチナ人を“テロリスト”に仕立て上げることによって、彼らから歴史を奪い、その結果として権利を奪っているのだ。
八月九日のロジェル街での虐殺事件が起きたのは、ありとあらゆる種類の爆弾の豪雨が、ベイルートに降り注ぐ数時間前ではなかっただろうか?
ベヒル・ゲマイエルの暗殺事件が起きたのは、イスラエル軍がベイルートの西部地区に侵攻してから、二時間後のことではなかっただろうか?
しかも、この侵攻作戦は、その一方で、ヤセル・アラファトの法王訪問という画期的なニュースを、片隅に押しやってしまったのである。
カルディネット街で爆弾を仕掛けられた車が爆発し、その翌日には、ブリュッセルのユダヤ教会堂の前で銃撃戦が始まったのは、サブラとシャティラのパレスチナ人キャンプで、史上空前の虐殺が繰り広げられたのと、時期が合致するのではないだろうか?》(『ル・モンド』82・9・22)
われわれは歴史の前例から、教訓を引き出さなくてはならない。世論を型にはめ、人種中心主義の霊感による“情報”で飽和状態にするための組織的な努力が、反ユダヤ主義を育てたのだ。
《ベルリンでは、劇場も、ジャーナリズムも、その他もろもろも、すべてユダヤ人の事業だった。『ベルリナー・ターヘブラット』はドイツで最も重要な日刊紙だった。それにつぐのが『フォジッヘ・ツァイトゥング』だった。前者の持ち主はモッセ、後者の持ち主はウルシュタインで、ともにユダヤ人だった。社会民主党の主要な日刊紙、『フォルヴァェルツ』の編集長はユダヤ人だった。ドイツ人は、新聞のユダヤ人所有を非難した時に、“ユダヤ人新聞”と呼んだが、それは、紛れもない事実だった》(『イスラエルとユダヤ教』93)
[カルパントラ事件の“モンタージュ”と沈黙]
この種の策略の内でも、最も新しいメディア利用の実例が、カルパントラ事件である。
一九九〇年五月、カルパントラのユダヤ人墓地で、墓が荒らされた。遺体の一つが串刺しにされた上で、別の墓に移されていた。
内務大臣のピエール・ジョクスは、直ちに声明を発した。
《このような“人種主義的憎悪”に満ちた犯罪を犯した人物については、警察の捜査が必要ないほど明らかである》
ところが、五年も経って、何十人もの捜査官が掛かりっきりだったというのに、検察官も、警察官も、いまだに誰一人として、この卑しむべき行為を犯した人物について、正確に語ることができないのである。
確かなことは、ユダヤ人墓地が荒らされことと、その後に、“モンタージュ”が行われたということである。なぜなら、数日後に、問題のジェルモン氏の遺体が、串刺しにはされてなかったことを、捜査官が確認したからである。そこでさらに問うべきであろう。誰が、そして、何のために、“モンタージュ”をしたのだろうか? “モンタージュ”された報道は、事件の恐怖を増幅し、世間の憎悪を煽り立てたが、その結果として、誰が得をしたのだろうか?
ティミショアラでは、遺体置き場から遺体を運び出して、写真を撮るという手口が使われた。その写真が世界中に報道され、大量虐殺と称された事件に対する怒りと憎しみを駆り立てた。
評論誌、『エスプリ』の前編集長、ジャン・マリー・ドムナフは、『ル・モンド』の一九九〇年一〇月三一日号に「カルパントラに関しての沈黙」と題する一文を寄せた。
《カルパントラのユダヤ人墓地での冒涜的行為の発生以後、すでに六か月が過ぎた。……六か月経ってもまだ、誰が犯人だったのか分からない。しかも、さらに不安な実情がある。というのは、活字メディアも、音声・映像メディアも、当時はこぞって、この忌むべき事件をスキャンダルに仕立て上げ、何十万人もの街頭デモに火を付け、世界中にフランスの汚名を轟かせたにもかかわらず、以後は、捜査状況を継続して追及せずに、沈黙を守っているからである。国会議員の誰一人として、道徳的または知的な問題の権威の誰一人として、政府当局を詰問していない。カルパントラ事件は、どうやら決定的に、誰が犯人なのか、実際にどんなことが起きたのか、まるで分からないままに、この国の暗い伝説の一つになってしまったようだ。誰しもが、今後、カルパントラについて語ることができず、または、あえて語ろうともしなくなるであろう》
ジャン=マリー・ドメナフが告発した奇妙な“カルパントラに関しての沈黙”は、事件発生当初のメディアの大騒ぎ振りとは、実に対照的である。
一九九〇年五月一四日のデモに関して言うと、警察発表で八万人、主催者発表で二〇万人が、パリの街頭をデモ行進した。ノートルダム寺院の大鐘が、このデモ行進を称えて鳴り響いた。
だが実際には、誰一人として、カルパントラの卑しむべき行為の仕掛け人を知らなかったのである。そうだとすれば、一体、皆は、誰に対して抗議をしていたのだろうか?
誰に対して? 事件の捜査によってのみ、その名を語り得るのだが、捜査当局は何も語っていない。
それでは、誰が得をしたのだろうか?
この疑問への解答は明白である。デモ行進の先頭には、イスラエルの国旗が、輝かしく翻っていたのである。
この奇妙な“国民共同戦線”によるデモ行進の真中で、ジョルジュ・マルシェ[共産党書記長]は、これ見よがしにフランソワ・レオタール[共和党党首]と握手していた。このデモ行進と握手は、結果として、相手が誰であろうとも、すべての国際法の上にイスラエルを置こうとする教義に疑問を投げ掛ける者に対しては、全世界規模の攻撃を加えることを許すものであった。大法師のシトルクは、演説の中で、このデモ行進の意味を定義していたが、つぎのようなことまで大声で語ったのである。
《余計な発言を放置してはならない。“見直し論者”の教授たちや、無責任な政治家に、教訓を与えなければならない。》(『ル・メリディオナル』90・5・14)
カルパントラの卑しむべき事件の真相に関しては、まるで結論が出ていないのだが、実は、捜査官に対して示唆されたすべての手掛かりの内、たった一つだけ排除された事実がある。ところが、この、ある人物に命ぜられた沈黙こそが、実は、最も真実に立脚した手掛かりだったのである。
その人物こそが、最も必要かつ不可欠な証人となり得たのであるが、なぜ彼に対して、沈黙を守ることが命令されたのであろうか?
《カルパントラのユダヤ教会堂の守衛で、墓地の鍵を預かっているクハナ氏は、フェリクス・ジェルモン氏の遺体の第一発見者の一人であるが、われわれと話すことを拒んでいる。〈たとえ、あんたが警視総監だろうとも、私は、何も話すなという命令を受けている〉。長老会議の議長が、彼の発言を禁止したのである。〈彼がテレヴィに余計なことを話すかもしれないからだ〉というのが、フレディ・ハダド博士による弁明である。彼自身も、あの卑しむべき事件を思い出させないように沈黙を守っている。アマル法師の対応振りも、まったく同様である》(『ヴァル・マタン・マガジン』95・4・15)
なぜ、カルパントラの法師は、墓を再び神聖にする儀式を行わなおうとしないのかという問いに対して、《私の仕事ではない!》と答えたのだろうか? なぜ長老会議の議長は、《いかなる理由もない!》と答え、なぜ市長は、《誰からも要求されていない》(以上、同前『ヴァル・マタン・マガジン』95・4・15)と答えたのだろうか?
なぜ、どのフランスの日刊紙も、……そっくりそのままだった……前例を、思い出さなかったのだろうか?
実は、一九八四年三月二日の夜中にも、まったく同じやり方の“墓荒らし”が、テル・アヴィヴ近郊のリスホン・レツィオンにあるイスラエル人の墓地で行われていたのである。そこでは、一人の女性の遺体が掘り出され、ユダヤ人墓地の外に捨てられていた。この時も同様に、世界中のユダヤ人社会全体が、“野蛮な反ユダヤ主義の行為”であるという声明を発した。数日後、イスラエル警察による捜査の結果、この下劣な行為の真の意味が明らかになった。
カルパントラと同じように見苦しい扱いを受けた遺体の主は、テレサ・エンゲロヴィッツ夫人で、ユダヤ人の妻だったが、キリスト教徒の血筋だった。ユダヤ教徒の統一主義者たちは、彼女の遺体がユダヤ人墓地に存在することは、墓地の純潔を汚すことになると考えており、すでにリスホン・レツィオンのラビが、その発掘を請求していたのだった。
なぜ、どのフランスの日刊紙も、この類似点を、思い出さなかったのだろうか? ジェルモン氏は、その遺体が、同じように夜中に掘り出され、串刺しという陰惨な“モンタージュ”の対象とされたのだが、彼も同じく、キリスト教徒と結婚していたので“有罪”だったのである。だから、彼の遺体は、その隣の、同じくカトリック教徒と結婚していたので有罪だったエンマ・ウルマ夫人の墓に、移されたのである。
なぜ、誰も、イスラエルで起きたことを、思い出さなかったのだろうか? イスラエルでは、彼らが建国する以前のパレスチナは“荒れ地”だったということを、イスラエル人に信じ込ませるために、ブルドーザーで、何百ものパレスチナ人の町が、家も、塀も、墓地も、墓も含めて、すべて破壊されたのである(前出『イスラエル国家の人種主義』)。
エルサレムのヘブライ大学で、“民主主義の日”の翌日、ユダヤ人の学生たちが、正しい質問を提出した。
《エルサレムのアルゴン通りとテル・アヴィヴのヒルトン・ホテルが、破壊されたイスラム教徒の墓地の跡に作られることを知っていながら、なぜ、あなた方は抗議をしないのか?》(『イスラエル社会主義組織の学生たち/マッペン』)
[後略]
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