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表題について、以下は二つの本からの抜粋である。
第一の書については、奥付きに
「本書はともすれば一方的になりがちなテーマを普遍的、一般的に書いた通史として好評を博し、、、」とある。「それにしては」というのが現投稿者の感想であるが、コメントはしない。まずは、読まれたし。
(1)A short history of the Jewish People 1998 by Raymond P Sheindlin, (高木圭氏による訳書、中央公論、2003年、310頁)
著者:アメリカ・ユダヤ新学校教授(同校でラビ資格取得)兼シャロン・シュピーゲル中世ヘブライ文学研究所理事、雑誌「イスラム・ユダヤ関係研究」編集委員
とある。
113頁:アシュケナジム(中部東部ヨロッパ人)の起源
古代ローマにおいて、ユダヤ人社会は重要な地位を占めており紀元一世紀にはローマ帝国の国境を越えて周辺地域にまで移り住んでいた形跡がある。スペイン、プロバンス、ガリアの各地においてその足跡が見られるがスペインを除いては永続性のあるものではいなかった。西ヨーロッパにおける最初の重要なユダヤ人社会はシチリアと南イタリアで出現した物でそれらは、1091年までビザンチン帝国下にあった。9世紀以降、これらの地域のバリ、オリア、オトラントの町にはラビの法を学ぶ神学校が設けられ、又礼拝詩の詩人を輩出した事で、このユダヤ人社会は一層有名になった。彼らの詩の中には今でもアシュケナジムの間で朗誦されるものがあるが、その詩はビザンチン帝国下において皇帝たちに迫害された歴史をのべたものである。フランク族の王たち、中でもシャルルマーニュ(768-814)と息子ルイ一世はイタリアのユダヤ人に対し、プロバンスやライン地方に移住する事を奨励した。彼らの狙いは遅れた農業地域であった、これらの地方に活発な商業活動をもたらす事であった。
この時期、ライン川沿いのケルン、マインツ、ウルム、シュバンセなどに重要なユダヤ人社会が形成され、移行中央ヨーロッパにおけるユダヤ人の定着地として繁栄していった。これらの地方はヘブライ語でアシュケナジと呼ばれたので同地域に住むユダヤ人をアシュケナジムと称するようになった。
アスケナジムはその始まりのときから周囲と異なる性格を持っており、、そのことがやがて非ユダヤ人社会との軋轢を生み出す原因の一つになる。西あるいは中央ヨーロッパのユダヤ人は商人としての技量をかわれ、支配者たちに招かれたのであり、土地所有者と農民からなる中世封建社会の枠組みから最初から外れており、その法的地位は王、貴族領主、あるいは司教たちに全面的に依拠していた。土地との関係が人間の立場を決する封建ヨーロッパでは異色であった。(中略)
126頁:ビザンチン帝国の異教徒迫害はバシリエスI, ロマヌスカペぬスI統治下で厳しく、それに伴い多くのユダヤ人はハザリアに逃れた。トルコ系遊牧民族であるハザール族により7世紀に建国されたこの小国は背党的な性格で知られ、ボルガからに面したアティルを首都とし、カスピ海と黒海の北に祖の領土を有した。この王国野王との支配者階層は740年ごろユダヤ教に改宗した。ビザンチン帝国はなんとかこの王国を征服しようと試みたが、王国内の少数キリスト教徒に対する迫害が強まるのを怖れて徹底的に戦う事を控えた。この王国の存在は世界のユダヤ人の心のよりどころとなった。パレスチナの故国を失い、よくてイスラム教国の片隅に少数派として細々と生きるか、悪くすればキリスト教国で迫害にあう運命のユダヤ人にとって、神が彼らを見捨てなかったばかりか自らが主人公となれる場所を用意してくれたという事実は実に大きな意味があった。
このハザリアのニュースは10世紀にスペインにも届きスペインのユダヤ人社会の指導者であったシャブルートは、当時ハザリアの王であったヨセフスと文通を行った。丁度その頃がハザリアが最盛期を迎えていた時代で、965年にロシアのキエフ公国により激しい侵略を受けた。12世紀までなんとかその存在を確認できたがその後は歴史からその姿を消した。
(2)以下は栗本慎一郎氏からの抜粋(「シリウスの都飛鳥」たちばな出版2005年358頁)
317頁:サカスタンの残党たる諸小王国は4世紀末から5世紀はじめにグプタ朝のチャンドラグプタ2世に滅ぼされる。グジャラートにだけは残存王国が残る(投稿者による注:2001年1月26日に発生したマグニチュード7.7、2万余の死者をもたらした地震の発生地、東経70.3、北緯23.3)。グジャラートは(Gujarat)トルコ語系のkhがgに、zがjになってしまう印欧語の法則を考えるとあきらかにカザール(Khazar)の土地になるのではないかと考えられている。確かにトルコ語系のkhが印欧語系ではgになることに疑問の余地がない。そして、このことは、とても本書で扱いきれない大問題を生むのである。つまり現ユダヤ人の源流たるカザール人が本当は何処から来たのかという大問題だ。(中略)カザールは西匈奴の主力部隊から出てアッチラの死後もコカサスの支配権を維持し6世紀から13席までの間そのコーカサスを拠点に大帝国を作った(その間、8世紀半ばまでは突厥帝国に従属していて、突厥崩壊後から11世紀に至るまでは、ビザンチン帝国とイスラム帝国に対抗する巨大な第三の帝国となった)強力民族である。一般的には、オビ川流域のチュバシ地方が源流地点ではないかと目されているがそれにもかかわらずインドに「カザール人の土地」があったということには大きな謎が付きまとう。別個の問題として、カザール人は13世紀以降の足取りが不明で現在のユダヤ人の主流派であるアシュケナジとなる謎の多い民族だ。アッチラが死んでからコーカサスの地に独立するまでは突厥帝国の支配下に合ったという事になってはいるが、アッチラの軍に加わる前はペルシアの東にいた可能性があるというのだろうか。グジャラートは現在は州の名前になっている(投稿者による注:パキスタンとの国境に近いインド南西端)。カザールの土地という名が現在のインドには都市にも州にも残っているわけだ。