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(回答先: 又、嘘を書く。産経新聞は、アメリカの言いなりになっただけであって嘘書くな(本文なし) 投稿者 忍 日時 2008 年 2 月 07 日 13:42:08)
米軍慰安施設に関する本紙過去記事
2007/05/06 10:01
今朝の産経新聞には、ワシントンの古森義久記者の記事で、戦後、日本でつくられた米軍用の売春施設の話が載っています。これに対し、慰安婦問題で対日非難決議案を出したマイク・ホンダ課員議員は「日本軍の慰安婦は日本帝国軍隊の政策として性的奴隷という目的のために少女や女性を拘束し、強制し、拉致したのだから、米軍のそれとは異なる」と相変わらず、事実に全く基づかないことを言っているようですね。この手の運動家にとっては、最初から事実関係は二の次で、中国ロビーの指示通り、日本を糾弾するのが目的でしょうから、それはそれで仕方がないのかもしれません。
さて、そこで本日は、この問題に関する産経の過去記事を紹介しようと思います。読んだ記憶がある人もいるでしょうが、こういう話はしつこく繰り返し取り上げた方がいいと思うので。まずは、東京都の渉外部長だった磯村氏の証言からどうぞ。
【正論】地域改善啓発センター理事長・磯村英一 日本軍だけでない慰安婦問題
[ 1994年09月17日 東京朝刊 オピニオン面 ]
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◆命令された娯楽施設の怪
最近の北京訪問で気になったのは、一九九五年国連が北京で開く女性の人権に関する会議のこと。私は一年前の一九九三年九月、国連がウィーンで開いた世界人権会議に、同和問題の関係から参加した。そのとき直面した課題は、第二次世界大戦中、日本がアジアの戦場で、女性の人権を侵したという課題、いわゆる“慰安婦”の問題である。NGO(国連が認めた民間団体)の側からも、きびしい追及があった。
日本側は、その問題に関しての十分な準備がないので次の国連の集会に報告するとして、ウィーンでは問題にならなかったが、次の国連の集会は、問題もそのものズバリの“女性の人権”である。日本政府は少なくとも来年の会議までに何らかの対応を国民にも知らさなければならない。最近一応の案を出しているが、それで済むのか。
直接その問題にはかかわりがない私が、発言をするのは、この慰安婦の問題は、決して日本の軍隊だけでなかったという事実を、私自身が経験しているからである。
日本の終戦直後、私は東京都の渉外部長で、占領軍司令部の命令に、“サービス”を提供する役割を課された。戦勝者の命令は絶対である。僅か一、二週間の間に占領軍の兵隊のためにワシントン・ハイツ等という名の宿舎の建設が命令され、将校たちのためには、洋式のトイレの住宅を接収し、提供した。
敗戦の年のクリスマス、司令部の将校から呼ばれて“ヨシワラ”の状態の報告を命ぜられた。もちろん、その地区は焦土と化していた。命令は宿舎を造って、占領軍の兵隊のために、“女性”を集めろということだった。
命令は英語で“レクリエーション・センター”の設置である。最初は室内運動場の整備だと思ったが、そうではない。旧“ヨシワラ”のそれであった。
敗戦直後の東京の行政は、女・子供はできるだけ地方に分散するようにという命令が出され、占領軍の兵隊のための宿舎をつくる労力さえも不足の状態だった。しかも外国の兵隊は、鬼畜とさえ教えたのを、改めてそのようなサービスを提供するなどできるものではなかった。
しかし、市民の中には、食べ物も少なく、中にはチョコレート一個で身体を売るような話まで広がっている。やむを得ず焼け残った“地区”の人々に、文字通り、食料を支給すると約束してバラック建ての“サービス・センター”に来てもらった。その理由として、日本の“一般の女性の操”を守るためにといって頭を下げた。こんな犠牲を強いた私自身が“人権”などという言葉を口になど出せるものではないと反省している。
◆「昔の恥を」と詰問される
やむを得ず関係している業者に直接話して、“お国のため”という言葉を使ったことを覚えている。もし仮にいわゆる“慰安婦”問題に関して国連の舞台で、日本政府が外国人の慰安婦に何らかの措置をとる場合、そのような言葉を使ってサービスを求めたことはどうなるのか。この一文を書くために、その当時、私の命令―事実は勝者の強制を背後にして―によって、サービスをしたと思われる人を訪れたが、“昔の恥を思い出させるのか”という返事に返す言葉がなかった。正直にいって、敗戦の中で女性をそのような環境に追いやったことに、返す言葉をもたない。
来年、北京で日本軍の“慰安婦”の問題がどう提起されるか知らない。しかし国連加盟の前に自分の国の女性が文字通り、戦争の犠牲―それも外国人のため−になっていた問題について私は黙ってはいられない。
戦争というものが、もしこのような一見“ムジュン”ともみえる犠牲を生んでいることから、たとえそれが国連という“議政壇上”のテーマであるかどうかは別として、日本人が本当に平和に徹し、そのために協力するというならば、“勝者のみの論理”を否定するだけでなく、“人権の哲学”にこれまで語られてきたような深刻な意義のあることが認識されるようになって欲しい。
◆無神経な政治にいらだち
そして我々日本人は、私が強く反省した“私を証人に立てて再び恥をさらすのですか”という反論の言葉に象徴される“弱きゆえの犠牲”に対して、終戦から五十年目を迎えるに当たって、“一億の国民の反省”があってもよいのではないか。
敗戦が終戦と置き換えられて五十年、この半世紀の日本の変化のなかに“日本人にとって敗戦とは何であったか”といった反省が足りないように思える。否それどころではない。一歩誤ればその当時よく使われた“玉碎”という美しく見える表現のなかに、真の人権というものを忘れる恐れさえ感じる。
敢えてこの問題を“政治的課題”としてとりあげるのではないが、余りにもこの半世紀の経過に無神経すぎる政治の現状に反省を促したい。(いそむら・えいいち)
次に、本紙産経抄執筆者だった石井英夫氏のコラムです。ここで取り上げられている「特殊慰安施設協会」(RAA)については、現代史家の秦郁彦氏の著書「昭和史の謎を追う」(下)の中にも、次のような記述がありますね。
「『良家の子女』を守るため、米軍兵士用に『性の防波堤』という思いつきで有力業者を集めて結成されたのが『特殊慰安施設協会』(RAA)である。大蔵省に頼んで三千万円の緊急融資を受け、米軍第一陣が到着する前日の一九四五年八月二十七日、大森の小町園に第一号が誕生、新聞の募集広告で一三六○人が集まった。(中略)都内の焼け残った花柳界も、あらかた米軍専用に召しあげられたが、半年後に占領軍はすべてオフリミットに指定した」
【夏 戦後】(8)石井英夫 ヨコスカ白昼夢のころ
[ 1997年08月15日 東京朝刊 1面 ]
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昨年と一昨年も、この日(八月十五日)にこのように書く機会をもらった。そこで中学一年の時、三浦半島の突端の、さざえのしっぽのような浦賀という港町で敗戦を迎えたことを書いた。
「日本が負けるなんてことがあってたまるか」
軍国少年だったぼくは、一人、海辺へでて泣いたが、横須賀はその日からヨコスカへと変身するのである。正確にいえば米海兵隊がヨコスカへ上陸してきたのは八月三十日だった。
大仏次郎の『敗戦日記』(草思社)はこう記している。
「八月三十日。晴。横須賀上陸の日とてB29の編隊が水晶の飾り物のように青空を旋回、P51も蠅のように飛ぶ。(中略)横須賀料亭待合芸者屋に廃業禁止の命令がでている。米軍の慰安所に向けられる用意である」
そう、ヨコスカには一夜にして「アミューズメント・ハウス」という名の慰安施設ができた。進駐する米兵を迎えるべく、ここに数十人の日本女性が送りこまれた…そう記憶していた。
それがどんな形の建物だったのか、今はもうまるで覚えていないが、ニキビ面の中学生にとって、それは「禁断の館」であり、「妖しの家」だった。ぼくはおく手の子だったから、そこで何が行われているのか定かにはわからず、怒号と嬌声の迷宮は、近づいてはならぬ“聖域”なのだった。
ところが、キツネにつままれたようなことが起きた。この夏、この稿を書くために調べ直してみると、その「アミューズメント・ハウス」の存在を確認できなかった。あれは何だったのだろう。ぼくは白昼夢をみたのだろうか。
本紙横須賀通信部の金子聡記者にも手伝ってもらったが、そのような建物があったという証言を得ることができなかった。往時、繁華街のドブ板通りをはじめ、至るところにパンパンハウスが林立した。「アミューズメント・ハウスもその一つではなかったか」ということであった。
『横須賀市史』には穏やかにこう記されているだけである。
「終戦後まもなく基地周辺の地域に、米兵相手の歓楽街が突然と出現し、種々の風俗問題は市民の眼をそむけさせ…」と。
◇ ◇
“世界最大の売春トラスト”とシカゴサン東京特派員のマーク・ゲインが呼んだ「特殊慰安施設協会」(RAA)が誕生したのは八月末である。それより早く八月十八日、内務省警保局長から各府県の担当者あてに「進駐軍慰安施設について」と題する秘密指令が発せられていた。
つまり慰安婦募集である。
RAAの幹部が当時の大蔵省主税局長の池田勇人(のち首相)に会った。「いくら必要か」という池田の質問に「一億円ぐらい」と答えると、「一億円で(一般女性の)純潔が守れるなら安い」といったという伝説が残っている。もちろん教科書にスミを塗る作業に追われていた田舎の中学生は、そんな事態は知るよしもなかった。
やがて昭和二十五年六月に朝鮮戦争が起こるや、基地ヨコスカは戦場帰りや戦地に赴く米兵であふれ、娼婦(慰安婦)もまた急速に増加したことはいうまでもない。 「横須賀警察署の調べでは、二十六年十一月には四千人から五千人に達した」(『横須賀市史』) 彼女たちは、戦時中の慰安婦と同じく強制されたものでもなく、連行されたものでもなかった。しかしこれが「軍隊と性」の悲しい現実であり、おぞましい生態だった。言うならば“国家の下半身”の生理である。この場合の国家はアメリカだが、下半身は覆い隠すべきものではないか。それを歴史教科書に載せるなどということは正気のさたではない。百歩譲って載せるとするなら、それは日本だけのことではなく、どの国家にとっても例外でなかったことを付記すべきなのである。
しかし往時のヨコスカに集まった五千人の慰安婦たちが、その後、補償を要求した話は知らないし、謝罪を要求した騒ぎも聞いたことはない。恐らく彼女たちには、羞恥(しゅうち)の感情とともに、それぞれに自尊心があったからだろう。
◇ ◇
先週末、ふるさと横須賀をたずねた。
京浜急行の横須賀中央駅前はこの四月から再開発の装いも新たにすっかり改まり、「国際海の手文化都市」をうたい上げていた。聖ヨゼフ病院のあたり、かつてのドブ板通りも石だたみの道に変わり、いまは日本の若者を相手の店へ変身していた。ミリタリー・グッズ、輸入衣料、ファミコン、ジャンパー、ナイフ、メダル、プレート、肖像画などをあきなっている。円高の影響もあって米兵は金を落としてくれないのである。
かつてこの街にあふれた脂粉の香りも嬌声のひびきも、遠い潮騒のように去っていた。ドブ板通りの裏手に回ると、何軒かの店は廃屋となって朽ちかけていた。
それにしても、あの敗戦まもない夜ごとの肉体のさんざめきは何だったのか。五千人を数えた厚いルージュの女たちはどこへ消えてしまったのか。何もかもが夢の幻覚のようにも思え、かるい酩酊(めいてい)感をおぼえた。
空母インディペンデンスの軽油流出騒動も収まったが、臨海公園は強い風で波立っている。公園には野生のハマヒルガオの花が群れて、晩夏の影がくろぐろと落ちているばかりだった。(産経抄担当) =おわり
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【産経抄】
[ 2001年04月10日 東京朝刊 1面 ]
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歌手・並木路子さん(七九)は、八日も埼玉県草加市でコンサートに出演する予定だった。それがリハーサルの時刻になっても顔を見せない。心配した家族が並木さんの自宅を訪ねると、浴室で倒れていたという ▼「リンゴの唄」が焼け跡にひびいたのは、昭和二十年十月(レコード化は翌年の春)だった。敗戦にうちひしがれた人びとの気持ちを、どんなに明るく励ましてくれたことか。戦後第一作の松竹映画『そよかぜ』の主題歌で、並木さん自身もそれに出演していた ▼そのころの話である、いわゆる「第三国人」と呼ばれた朝鮮人や中国人が肩で風を切って街を支配したのは。彼らは“解放国民”ともいわれ、どぶろく・カストリ・ばくだん(酒)などを密造し、進駐軍用の物資を流用、ヤミ市を作った。警察も手を出すことができなかった ▼そのころの話である、パンパンと呼ばれた日本女性が米兵の腕にぶら下がっていたのは。終戦直後、東久邇内閣がまっさきに手がけた政策は、進駐軍用の慰安所の設置だった。それがRAA(特殊慰安施設協会)で、全盛時は七万人の日本女性が所属した。「世界最大の売春トラスト」と呼んだのは、シカゴ・サン東京特派員マーク・ゲインだった ▼同二十一年に米兵はオフリミット(立ち入り禁止)になり、彼女らは街娼になって町にあふれた。特殊飲食街は警察の地図の上で赤い線で囲まれたため「赤線」と呼ばれ、もぐり営業(私娼)は青い線なので「青線」と呼ばれた。赤線には六万人、青線は五十万人ともいわれた ▼これが戦後の「性」の実態である。中学生の歴史教科書に慰安婦を登場させるなんてもってのほか。どうしてもというなら、進駐軍慰安婦の真実をなぜ取り上げない?
…歴史では、たとえ自国に起きたことでもすぐに忘れ去られることもあるし、事実に基づかないプロパガンダが、歪曲され、拡大された伝説となって他国で語り継がれることもあるようです。そんな相手の土俵にまで降りていくことは、自らの品性をも貶めることになる場合もあるでしょうが、仕方ないのかもしれません。
最近の一連のできごとを見聞きしていて、「無知は罪」という、どこかで聞いた言葉が繰り返し頭をよぎっています。そして、知ろうともしない人たちへの憤りも。もちろん、自分自身のことを含めて言うのですが…。
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