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(回答先: NHK:後任会長候補に永井、原氏推薦 有志の会(毎日新聞) 投稿者 クマのプーさん 日時 2007 年 12 月 11 日 18:32:03)
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/nhk_b82c.html
2007年12月11日 (火)
原寿雄さん、永井多恵子さんを次期NHK会長候補に推薦―川口幹夫元NHK会長ら67氏が賛同―
原寿雄さん、永井多恵子さんをNHK会長候補として推薦
松田浩、桂敬一、野中章弘の3氏を世話人とする「原さん、永井さんをNHK会長候補に推薦する会」は12月10日、NHK経営委員会委員に宛てて、次期NHK会長候補に原寿雄さん(ジャーナリスト。元共同通信編集主幹)と永井多恵子さん(現NHK副会長)を推薦する、次のような申し入れを提出した。
「NHK会長候補者の推薦に関する申し入れ」(2007年12月10日)
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/nhk_kaocho_koho_suisen_mosiire.pdf
(文末に原さん、永井さんの略歴が記されている。)
この申し入れには、文化人、メデア研究者、ジャーナリストら67氏と3つの市民団体が賛同している(12月9日現在)
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/suisensandosha_meibo20071209_1340.pdf
その後、降旗康男(映画監督)さん、吉原功さん(明治学院大学教授)、吉田俊実さん(東京工科大学教員、メディアの危機を訴える市民ネットワーク事務局員)が賛同の意思を寄せている。
また、推薦賛同者のなかで山田太一さん(作家、脚本家)、大澤豊さん(映画監督)ら6氏が次のようなメッセージを寄せている。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/suisen_sandosha_messege.pdf
私から見た2人の被推薦者
今回、私は推薦賛同者に加わっていない。推薦候補に異論があるからではもちろんない。今回は文化人、メディア研究者、ジャーナリストの方々が連名でお二人を推薦するという動きである。
「私はどのカテゴリーにもなじまないので遠慮します。」
というと、世話人の松田浩さんから、
「いや、文化人でいいじゃないですか。」
と言われた。が、残念ながら私はまだ「文化の香りがする」人間の域には達していないので辞退した。しかし、以下述べるように原さん、永井さんを次期会長候補として推薦することには大いに賛同するので、できる限りのお手伝いはするつもりでいる。
原寿雄さんとはシンポジウムで1度お目にかかった程度だが、著書は読み、E・メールで何度かやりとりをさせていただいている。ズバリ直言される一面と懐の深いおおらかなお人柄に敬意を抱いてきた。今回は開かれた会長選出の制度づくりに役立つならと推薦を承諾された。日本の言論・報道界の大御所としての面目躍如である。
永井多恵子さんについては、このブログの2006年9月18日付の記事で触れたことがある。
「NHK副会長、永井多恵子さんの公共放送像を読んで」
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/nhk_2e4c.html
永井さんの「文化ジャーナリズム試論」
今回、永井さんを推薦するというので、どんな人なのか、もう少し詳しく知りたいと思い、国立国会図書館の文献データベースで永井さんの著作を検索した。その中で、目にとまったのは「文化ジャーナリズム試論」という論説だった。石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞記念講座講義録2『ジャーナリズムの方法』(早稲田大学出版会、2006年)と題する書物に収められた、母校早稲田大学での講演録である。
まず、私の目を引いたのは冒頭で、いわゆるイラク人質事件を取り上げていることだった。
「人質」3人が政府や国民に迷惑をかけた――そう思う方は手を挙げてください、と会場に向かって問いかける永井さんの言葉に私は感慨深いものを覚えた。それは、私自身、「人質」となった高遠菜穂子さんら3人をバッシングから擁護する市民運動を呼びかけた一人だったことにもよる。しかし、それ以上に、3人に対し、「政府と世間に迷惑をかけた」という非難が渦巻いていた時期に、公の講演の場で控え目ながら、疑問を呈するのは相当に勇気が要ったに違いない。
さて、講演の本論であるが、永井さんが一貫して強調しているのは、文化は精神を浄化するアーツだという持論である。
「今は財政が逼迫しており、社会のなかで位置づけというのが低い、また、日本の社会は歴史的にも文化を社会の装置として明確にしてこなかった」
と永井さんはいう。また、
「アーツ・文化は無駄である。金ばかり使う、役に立たない、という排斥論が今日でも散見されます。文化はまだ、社会におけるステータスを獲得していないのかもしれません。」
ともいう。しかし、永井さんはこういう。
「文化ジャーナリズムの効果、それは一つの啓発です。感性を刺激し、啓発し、人々の感じ方を、考え方を変えていく。・・・・・・・美しいものが人々の心を浄化する。そのことこそが、文化には公共性があるといえる一つの根拠であろうと、私は思っています。」
公のことに民が参加するということ
では、文化を市場経済に任せるとどうなるか? それでは人気のある大衆的なものしか生き残れない、と永井さんはいう。たとえば、ピカソは幸い、自分が生きているうちに評価を得、経済的にも功をなした。しかし、こんな幸せなアーティストはめったにいない。
モジリアニは評価を得ることなく貧乏のどん底で死んでいく。しかし、彼の絵の価値を見抜いた画商は彼が死ぬと彼の絵を買占めた。すると、この画商の予想どおり、モジリアニの絵は彼の死後、爆発的な人気を得た。つまり、生きているうちに報われることが少ないのが芸術の常である。だからこそ、文化芸術は目先の営利性で動く市場経済にゆだねるわけにはいかず、公的な援助が必要なケースが大多数である――永井さんはこう結論づける。
では、文化を公的に支援するとは、どういうことなのか? これについて永井さんはメセナ(民間支援)の必要性を次のように記している。
「結局、何でもかんでも国や自治体、つまり官に頼る必要はないわけですね。公のことは官だけという時代は終わりにして、公のことに民が参加するということは、これからはあっていいのではないでしょうか。」
ゴチック体は私の追加であるが、大変含蓄に富んでいる。私も最近、公会計や放送の公共性、公的サービスの民営化論などを考える中で、公=官ではないし、民=私でもないことを認識する必要性を痛感している。官が公を独占するのは普遍ではなく、特殊に過ぎない。むしろ、これからは、民が私を超えて公に参加する時代である。この意味で永井さんのメセナ論は誠に卓越した見解である。
見る(息を吸う)ことと表現する(息を吐く)こと
講演の最後に、永井さんは学生に次のように語りかけている。
「とにかく私は一貫して、文化というものは大事だと言ってきた。なぜ舞台を見るのか、あるいは映画でもいいのですけれども、それはやはり自分の人生というものを振り返ってみる時間が、人間には日々、必要だということ、そして何かピュアなもので自分の精神が浄化される。そんな時間をもつことが人間には欠かせないと思っているからです。」
「それともう一つ。これは見るだけではなくて表現をするということも、とても大事だと私は思うのです。・・・・・・皆さん学生の時に何か発表するということは自己表現のチャンスだし、仕事をするということも、私はひとつの自己表現だと思います。吸っては吐いて、それは呼吸なのですね。詩を創ったり、作曲したり。皆さん若いのですから、いろいろなチャンスがありますよね。そういうことを自分の生活のなかに組み入れながら、いい人生を送って欲しいと思っています。」
私は最近、権力を監視するのがジャーナリズムの使命である、と言い募ってきた。しかし、それと同時に、ジャーナリズムは<魂の洗濯をする>文化の担い手でもある、というのが永井さんの持論のようだ。このような剛と柔を兼ね備えた見識の持ち主こそ、公共放送の顔として待望されているのではないか。
ともあれ、ジャーナリズムのご意見番としての存在感にあふれる原寿雄さんと、しなやかな知性とジャーナリズムの自主自立にかける芯の強さを兼ね備えた永井多恵子さんをNHKの会長候補として視聴者たる市民が擁立したことは、きわめて賢明な判断であったし、画期的な出来事であったと私は思う。
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