★阿修羅♪ > マスコミ・電通批評6 > 675.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: 【池田信夫氏ブログ、「偉大なる三流紙」読売新聞】(読売は「さる人」と「福田代理人」に言及して下さい) 投稿者 小沢内閣待望論 日時 2007 年 11 月 08 日 13:03:06)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%96%9C%E6%9C%97
経歴
石川県能美郡根上町(現在の能美市)に、根上町長を務めた森茂喜の長男として生まれる。石川県立金沢二水高等学校時代はラグビー部のキャプテンを務める。北陸三県大会で準優勝(当時はこの大会で優勝すると全国大会に進出できた)などの成績を残した。その縁もあり、父の知人であった当時のラグビー部監督への縁故を活用し、スポーツ推薦を受けて早稲田大学第二商学部(夜間学部)入学。早稲田大学ラグビー部に入部するもわずか4ヶ月にして胃カタルにより退部した。
その後早稲田大学雄弁会に入り、政治家を志すようになる。大学卒業後は水野成夫の口利きで産業経済新聞社に事実上無試験で入社。入社試験はとうに終わっていたにもかかわらず、“自分には約束があるんだから”と強引に内定を取り付けたという(入社後は、初めは日本工業新聞に勤務し、のち移籍)。
その後、今松治郎秘書を務めた後、1969年に衆議院選挙に初出馬で初当選。選挙運動中に、近隣の家の火災に遭遇し、決死の覚悟で家にとびこみ、仏壇を抱えて出て来たという。この行動(暴挙ともいわれる)のため、地元での人気が上がり、当初泡沫候補扱いだった新人が当選にいたったという。ちなみに、この選挙では同じ選挙区(旧石川1区)で竹下派七奉行の一人・奥田敬和も初当選しており、のちに二人のライバル関係は「森奥戦争」と呼ばれるようになる。
当選後は今松の属していた福田派に入会。福田内閣では内閣官房副長官に就任し福田を補佐、1983年第2次中曽根内閣では文部大臣として初入閣し、以後自民党文教族の実力者として実力を付ける。しかし1988年のリクルート事件で2度目の入閣間近という時に一時謹慎を余儀なくされる。
福田派を継いだ安倍派では三塚博、塩川正十郎、加藤六月と並んで安倍派四天王の一人に称され、次代のリーダーへの地歩を固める。安倍死去後の三六戦争(三塚と加藤の後継者争い)ではいち早く三塚を支持。それからは党政調会長、通商産業大臣、党幹事長、建設大臣、党総務会長と重要役職を次々と歴任。1998年には三塚に派閥の継承を求め、森派を結成した。
▲このページのTOPへ HOME > マスコミ・電通批評6掲示板
フォローアップ: