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□政治を育てるテレビ [国会TV]
▽政治を育てるテレビ(1)
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20070510-01-0601.html
2007年5月10日
政治を育てるテレビ(1)
テレビは視聴率を追求するものと思われているが、「視聴率を追求するところからテレビの堕落が始まる」と主張するテレビ局がアメリカにある。C−SPAN(シー・スパン)というケーブルテレビ向けのチャンネルで、アメリカ議会の審議、政党のイベント、シンクタンクのシンポジウム、政治家やジャーナリストが出演するスタジオ番組など政治の動きを専門に放送している。国から補助金が出ているわけではない。民間が経営するいわゆる民放である。視聴率を追求しないテレビが何故成り立つかと言えば、視聴率に明け暮れる地上波テレビには真似の出来ないチャンネルとして、ケーブルテレビ業界がこれを支えているからである。C−SPANはケーブルテレビのベーシック(視聴者が選択できない基本チャンネル)に組み込まれ、加入者が支払う月額30ドル程度の基本料金の中から一世帯につき月額6セント(7円)が分配される。アメリカではケーブルテレビが全米7割の家庭に普及したため、C−SPANの加入者も7千万世帯を超えた。
こうしてアメリカ社会に根付いたC−SPANは「アメリカの民主主義を強くする」ことを目的に国民の政治教育に力を入れている。特に若者達に政治を理解させようと、全米の大学と高校を中継車が回って学生による政治討論番組を制作する一方、教師達に議会の審議を教材に使用するよう呼びかけている。
私がC−SPANを知ったのは1980年代の終わり頃、日本の政治が自社馴れ合いの国対政治によって国民の政治不信が渦巻いていた頃である。当時TBSの自民党担当記者をしていた私は、国対政治の裏側を見るにつけ、このままでは日本の政治はもたないと思っていた。当時の国対政治はNHKの国会中継と連動し、野党の審議拒否を前提としていた。NHKは「慣例」と称して予算委員会の各党一巡目の質疑しか中継しない。予算審議は本来2か月間毎日のように行われるのだが、NHKが放送するのは最初の2、3日だけ。すると野党はそこで最もテレビ向きのスキャンダル追及を行い、テレビ中継がなくなる日から決まって審議拒否に入る。国会審議は全てストップし、国対の裏交渉が始まる。裏交渉では労働組合の賃上げからスト処分まであらゆる問題が取引材料となり、それに絡めて国会に提出された百本あまりの法案全ての帰趨が決まる。「成立」、「継続」、「廃案」が議論される前に決められていく。予算成立ギリギリのタイミングになると何らかの理由をつけて野党が審議に復帰するが、それに伴って与党から野党にカネが流れる。そうした事が日常化していた。法案を書いているのは官僚だが、官僚は与党の事前審査さえクリアすれば、国権の最高機関である国会はどうでも良いことになる。「私が書いた法案が成立するのはうれしいが、しかしこんなことで日本の将来は大丈夫だろうか」と若手の官僚が私に言った。
1989年の参議院選挙で自民党が歴史的惨敗を喫し、参議院で野党に転じた。予算以外の法案が全て成立しなくなる事態が想定され、政治改革が急務となった。政治改革の議論は小選挙区制の導入が中心だったが、私は選挙制度には一長一短があり、それよりもスキャンダル追及と審議拒否をやめさせて国会を正常な状態にする方が意味があると思っていた。NHKがもっと国会中継をやれば良いのだが、NHKは国会ばかり放送する訳にはいかないと言う。そこで世界の事例を調べたところC−SPANに行き着いた。
C−SPANを誕生させたのは、ベトナム戦争の敗北とニクソン大統領を失脚させたウォーターゲート事件によるアメリカ国民の政治不信である。70年代半ば、アメリカの政治家達は政治の信頼を取り戻すには情報公開しかないとの結論に達した。「日の当たる所に腐敗は生まれない」を合い言葉に、政治家、官僚、裁判官らは資産公開が義務づけられた。税金で運営されている所は基本的に情報公開の対象となる。議会もまたテレビで公開すべきということになり、議会が撮影した審議映像を無料でテレビ局に提供することになった。しかし視聴率優先の地上波テレビはニュースに使うだけで、そのまま中継することはない。そこにケーブルテレビ業界誌の記者が目をつけた。広告放送でないケーブルテレビならば、開会から閉会までを放送できる。国民が議会を監視できるようになればベトナム戦争も起こらなかったのではないか。その男の構想にケーブルテレビ会社の経営者が賛同してC−SPANが誕生した。
議会がノーカットで放送されるのを初めのうち議員達は嫌がった。勤務評定されて落選することを恐れたからである。一方で国民受けを狙うポピュリズムの政治家が増えるという危惧もあった。共和党で賛成したのはロバート・ドール、ハワード・ベーカー、ニュート・ギングリッチ議員ら、民主党で賛成したのはアル・ゴア議員であった。議会で多数を占めていた民主党は変化を怖れてかどちらかというと反対が多かった。
しかし放送が始まってみると事前の予想とは裏腹にパフォーマンス議員が落選し、地味でもこつこつ勉強している議員が国民から評価されることが分かった。国民はそれほど愚かではない事が証明された。議会は監視されているという意識から緊張感が出てきた。いつしかC−SPANはアメリカ民主主義にとって不可欠の存在と言われるようになった。
▽政治を育てるテレビ(2)
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20070511-01-0601.html
2007年5月11日
政治を育てるテレビ(2)
C−SPANはアメリカ連邦議会から歩いて5分ほどのビルの一遇にある。私が初めて訪れたのは1989年5月、放送が開始されて10年目の春の事だった。華やかなテレビ局とは大違いの小さなスタジオとマスタールームを見ると、まるで学校放送のレベルだと思ったが、放送内容には衝撃を受けた。その時放送されていたのがハンガリーの議会だったからである。当時は東欧に民主化の嵐が吹き荒れ、第二次大戦後の冷戦構造が終焉の時を迎えていた。世界の目は東欧の民主化の動きに注がれ、ニュースはその動きを刻々と伝えていたが、アメリカには東欧の議会の議論をそのまま放送するテレビ局があったのである。
広報担当副社長から聞かされた話も興味深いものだった。まずは放送哲学がユニークを通り越していた。既存のテレビに対して徹底的にアンチなのである。テレビはジャーナリズムであるから世の中の事象を「編集」して国民に伝える。ところがC−SPANは「編集」をせずにあるがままのものをあるがままに放送する。C−SPANに言わせれば「これまでのテレビは編集をし、解説をつけることで、自分たちの考えを国民に押しつけてきた。我々はあるがままに放送して国民に自分の頭で考えてもらう」という事になる。「編集」をしないというのはただの垂れ流しとも言えるが、しかしそれこそがテレビの原点という気もする。
「自分たちの考えを国民に押しつけない」という考えからC−SPANは放送上の「演出」を極力排する。カメラのズームアップは厳禁である。なぜなら人間の目はズームしないから。スタジオ番組を制作する時も音楽は決して使わない。司会者をスターに育てることもしない。もっと言えば番組の司会は社長以下幹部が交代で務める。とにかく視聴率を意識したような「演出」は一切無い。こう書いてくるとメリハリのないつまらない番組の連続だと思われるかもしれないが、既存のテレビには真似のできない番組も放送している。それが「コール・イン」と呼ばれる番組である。
スタジオにいる政治家やジャーナリストに視聴者が直接電話で質問が出来るという番組だが、既存のテレビが真似出来ないのは、C−SPANは質問者を選別しないのである。電話がかかってきた順番につないでいく。放送禁止用語や意味不明の発言の時だけ電話を切る。そうなると番組は予定調和でなくなる。生の緊張感が出てくる。政治家もジャーナリストもどんな質問が飛び出して来るか事前には分からない。難解な質問もあれば頓珍漢な質問もある。それにどう対応するかでその人の資質や素顔が分かる。これまでのテレビにはない面白さがある。この手法はその後CNNの「ラリー・キング・ショー」も真似するようになるが、日本のテレビはおそらく真似出来ない。演出が効かない冒険を犯すことは視聴率第一のテレビには難しい。
C−SPANはアメリカ社会に根付いたと書いたが、必ずしも順調だった訳ではない。存続の危機に見舞われた事もある。アメリカ議会には「スペシャル・オーダー」という仕組みがあり、法案審議とは関係なく議員が演説をすることを認めている。無人の議場で演説をするのだが、その演説は議事録に残される。後に下院議長になった共和党のギングリッチ議員は、この「スペシャル・オーダー」を利用して民主党攻撃を続けた。それをC−SPANが放送したことに民主党が反発した。当時のオニール下院議長は議会が撮影した映像をC−SPANに提供するなと言った。まさにC−SPAN存亡の危機である。その時C−SPANの視聴者のおばちゃんたちが「私達はC−SPANを見たい」と書いたプラカードを持って議会に行き、それが新聞記事になった。論争の結果、民主党も「スペシャル・オーダー」をどんどんやれば良いじゃないかということになって事は収まった。ギングリッチ議員はC−SPANを大いに活用した事で「C−SPANコングレスマン(議員)」と呼ばれるようになった。C−SPANを見る国民は少ないだろうが、デモをしたおばちゃんのように視聴者は熱烈な支持者が多くC−SPANジャンキー(中毒)と呼ばれている。そしてC−SPANは視聴率を決して調査しない。一人でも見たいという国民がいれば存在する意義があると主張している。
「まもなくイギリスでもC−SPANのようなテレビが始まる」と広報担当副社長は言った。英国議会はポピュリズム(大衆迎合)に陥るという理由で議会のテレビ中継を認めてこなかった。1960年代から11回もテレビ中継を認める法案が提出されたがいずれも否決された。しかし「編集」をしないテレビがアメリカに登場した事を知って、C−SPANの社長が英国議会に参考人として呼ばれた。C−SPANと同じならばポピュリズムにはならないという事になり11月から試験放送が始まるという。そうなればC−SPANでも週に一度は英国議会を放送すると副社長は言った。いずれ世界の国々が議会の議論を見せ合う日が来るかもしれないと思った。
1989年8月、私は自民党政治改革推進本部にC−SPANのようなテレビを日本にも実現したらどうかと提案し、それは自民党の政治改革大綱に重点項目として盛り込まれた。
1990年5月、C−SPANの意義を日本に紹介するため、私はC−SPANの配給権を取得してアメリカ議会やシンクタンクの議論を日本に紹介する会社を興した。ちょうど冷戦が終わる頃からアメリカ政治の実態をC−SPANを通して見るようになり、日米の政治を比較しながら同時並行で観察することになった。
▽政治を育てるテレビ(3)
http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20070514-01-0601.html
2007年5月14日
政治を育てるテレビ(3)
ベルリンの壁が崩れて冷戦体制の終焉が明らかになると、アメリカ議会の最大関心事は「ソ連に代わる次の脅威」となり、それは経済大国となった日本であった。日本に関する公聴会が次々に開かれ、日本経済の強さの秘密の解明が試みられた。上下両院合同経済委員会は34本の論文からなる「日本の経済的挑戦」と題する報告書をまとめた。当然日本政府も入手して分析しているものと思って調べたが、その形跡はない。当時の日本にはアメリカから「次の脅威」と見られている意識が驚くほど希薄だった。
1990年8月2日、イラク軍がクエートに侵攻して湾岸危機が発生した。8月末にはアメリカ議会が招集され、歴代国防長官や軍事専門家、経済学者らが議会に呼ばれて200時間を越える公聴会が行われた。ところが日本の国会は10月まで開かれず、その間日本政府はアメリカに対してひたすら経済支援の金額交渉を行っていた。
「中東の石油に依存している日本がなぜ湾岸危機を自らの問題として考えないのか」、「日本は大国になったと思っていたが、所詮は従属国にすぎない」、アメリカ国内には日本を蔑む声が出てきた。
大統領に戦争権限を与えるかどうかの採決が行われる日、議会はそれまでにない緊張感に包まれた。議場では議員一人一人が自らの考えを表明するが、それは政治生命を賭けた演説となる。国民の血を流す決断をする訳だから当然の事だが、その緊張感がひしひしと伝わってくる。日本の国会では見たことのない緊迫した光景であった。
バグダッドの上空に閃光が走り、アメリカ軍の空爆が始まったとき、世界中のテレビが戦争の実況中継を始めた。その時C−SPANはそうした報道姿勢をとらなかった。空爆開始の日は24時間「コール・イン」番組を放送した。昼間は軍事委員長ら政治家を相手に視聴者が電話で質問をぶつける。ゲストがいなくなった夜中には、視聴者同士が電話で意見をぶつけ合わせた。翌日からは一週間にわたって雑誌「タイム」の編集会議を生中継した。湾岸戦争でどのような紙面作りをするか、編集者達が激論を交わす。その模様を放送した。戦闘のシーンは全くないがこれも立派な戦争報道である。視聴率を追求しないテレビだからこそ出来たことで、国民は初めてメディアの内側を見ることが出来た。湾岸戦争報道で一躍有名になったのはCNNだが、ねつ造映像を放送した事もあり、米国内のメディア批評家たちはC−SPANを高く評価した。
ソ連邦崩壊の日が来た。その時歴史の瞬間を自分の目で確かめようとアメリカの議員の多くはモスクワに向かった。しかし日本から現地入りした国会議員は皆無。自費を払ってでも歴史の現場を見に行こうとする議員がいないことに愕然とした。
旧ソ連が消滅してアメリカ議会の議論は熱を帯びた。民族主義の台頭にどう備えるか、軍をどう改革するか、諜報機関をどうするか、核と核技術の流出をどう防止するかなどがおよそ2年がかりで議論された。その頃日本の国会では、冷戦が終わって「平和の配当」が受けられるという議論ばかりで、誰も次の脅威など問題にしなかった。
初の戦後生まれの大統領が誕生してアメリカ経済の再生が主要なテーマとなった。再び日本経済が俎上に乗せられたが、「日本経済はジャングルのようで理解は不能」となり、結果だけを求める方が得策という結論になった。日本との経済関係に「数値目標」が導入され、日米関係は刺々しさを増していった。
21世紀を「情報の世紀」と位置づけるアメリカは1996年に「電気通信法の改正」を行う。通信と放送の融合に備えた法改正である。レーガン時代に7分割された電話局にさらに競争が促進され、電話料金が飛躍的に下がった。それがインターネットを普及させ、新たなメディアの時代が幕を開けた。
同時にテレビの多チャンネル化も整備された。ケーブルテレビや衛星放送の世界が視聴率と娯楽一色にならないよう、チャンネル数の4%を教育目的にする事が消費者保護として法律で義務づけられた。政治教育チャンネルであるC−SPANは衛星料金が免除される恩恵を受けるようになった。
多彩な情報、多彩なメディアを存在させる事は社会を活性化し、また既得権益に対抗する挑戦者を育てることが経済を活性化させる。それが政治のやるべき仕事であった。
アメリカが新たな経済の時代を迎えたのとは対照的に、日本経済はバブル崩壊後の低迷から抜けられずに長い不況の時代に入った。政治の世界も自民党分裂以降は混迷が続き、クリントン大統領の任期中に日本では7人の総理が交代した。かつては「次の脅威」と見られた日本がすっかり見くびられるようになった。
日本には官僚と財界さえしっかりすれば、政治はどうでもいいと考える風潮がある。しかしそれはアメリカの傘の下でひたすら経済に邁進していれば良かった冷戦時代の話である。冷戦後の世界は新たな枠組みをどう創るかで各国がしのぎを削っている。その中で生き延びて行くためには、官僚でも財界でもなく政治の力を上向かせていくしかないと思うのだが、国民はその事に気づいていない。政治を国民が育てるものと考えず、相変わらず陳情と罵倒の対象でしかないように見える。陳情しても出ないものは出ない。罵倒してみても国民には何も得るものがないことに気づいてもらわないと困る。
小泉内閣以来「テレビ政治」の効用が盛んに議論されるようになった。テレビは政治と国民の距離を縮める有力なメディアで、「テレビ政治」は世界共通の現象だと思うが、テレビの質については日本と世界の間に大きな隔たりがある。1980年代から日本のテレビは極端な視聴率主義になり金儲けに走った。視聴率と無縁でいられるはずのケーブルテレビまでが視聴率を意識するようになり、政治教育を目的としたチャンネルは日本のテレビ界に根付くことが出来なかった。
その一方で視聴率主義はお笑い芸人を時代の寵児に押し上げ、報道番組までタレントが司会を務めるようになった。政治家も選挙の票を目当てにお笑い番組に続々出演する。タレントと政治家の垣根がなくなり、政治家がタレントに媚びを売るようになった。そのため芸人の方が政治家より偉く見える時がある。それが日本の「テレビ政治」の現実である。しかしそんな国が世界のどこにあるだろうか。
「視聴率はテレビを堕落させる」と主張するC−SPANは、従来のテレビとは異なる報道姿勢をとり、アメリカ国民の政治教育の一翼を担っている。政治家達は自らの勤務評定につながりかねないC−SPANに初めは抵抗したが、ポピュリズムにならないことを知って受け入れるようになった。そしてアメリカでは議会の議論を学校の教材にする運動が20年前から始まっている。日本とアメリカのテレビの違いが政治力の差になって広がっていくと危惧するのは私だけであろうか。
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