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(回答先: 悪魔のトランス脂肪酸・・・外食/スーパー/冷凍加工食品業は顧客の健康より経済優先の格安のトランス脂肪酸を使用しています。 投稿者 忍 日時 2007 年 12 月 26 日 16:49:25)
ここまで壊れた日本の食卓
テーマ:経済(書籍)
食糧自給率が40%という外国に頼り切った安全保障面から見ても危機的状況の我が国。現在は経済効率が優先で、安価で簡単に食べることができるインスタントやファストフードなどの加工食品で溢れ、食の質がどんどん悪くなっているというのに、手軽さを求める人々は平気なようです。その安さや簡単さのわけまでは考えが及ばないらしい。
本書は日本人の食生活の変化、とくに主食である穀物「コメ」についてどのように日本人の主食となり現在に至ったのかを中心に書かれています。我々の父祖たちの苦労と努力の結晶が日本食の主食である「コメ」であり、日本人全員が三度の食事にコメが食べられるようになったのは40年ほど前からで、それまでに千数百年の歳月がかかっているといいます。それだけの長い年月を経て主食となった「コメ」ですから、我々の体もコメを中心とした穀物を食すのに適した体になっています。
しかし、敗戦後米国の残り物の小麦や脱脂粉乳がGHQによって押し付けられ、その巧みなプロパガンダにより小麦や乳製品は日本中に広がりました。給食はその典型的なものですが、私はどうしても給食のパンと牛乳が嫌いで、給食の時間が憂鬱でした。今でもパンは主食とは思えないし、牛乳はあまり飲みません(骨粗しょう症が心配・苦笑)今の給食はご飯も多く献立もバラエティに富んでいるようです。
日本を米国産小麦の長期輸入国にする計画はGHQの思い通りに運び、日本人の食生活は穀物・野菜中心から肉食・乳製品中心に変化しました。肉や乳製品、砂糖などは小麦によく合うため、小麦の消費量が増えました。そして高度経済成長によって食も工業化され、食事がインスタントやレトルト食品などの「製品」となりました。これらの食の劇的な変化によって我々の先祖が繋いで来た穀物中心の日本の食文化が壊われ、日本人も壊れています。
p117 おにぎり1個が和食の復活につながる
(以下、健康料理家・木下穂支子さんのお話部分を一部引用)
人間も生き物ですから、食事は群れて食べるのが基本のはずなのです。そこで分け合い、食の太さ細さを互いに気遣いながら食べる。けれども今は、孤食と呼ばれるように、家族全員が違うものを食べている。その結果、市販のものや、外食が、母親の料理よりも美味しいと感じてしまう子どもも増えています。その代表がおにぎりです。
お母さんのおにぎりは、時間がたつとかたくなる。でもコンビニエンスストアのおにぎりは、いつまでもふっくらしていてのど通りもいい。食べやすいものを美味しいと感じるのが現代の食の感覚です。テレビのグルメ番組を見ていても、柔らかいが最高の賛辞です。
なぜ加工食品のおにぎりの方が「美味しい」のでしょうか。その原料には古米が使われています。それを食べやすくするため、油、調味料、塩が使われているのです。さらん、子どもの頃から加工食品になれた舌は、そうした添加された味にしか反応できません。離乳食の加工食品、最近では赤ちゃん用の番茶の飲料まであります。
家庭における食の経験の受け渡しが途切れ、次世代はお店の売場の充実に安心感を覚え、その中からの選択がかしこくて正しい判断だと信じています。そこに私は、大きな危機感を感じています。
食育基本法が施行されたことで、地方自治体でも食への取り組みが多くなりました。それはたいへん喜ぶべきことです。私にも調理実習の依頼がきます。その場合、私は1つの条件をお話しし、それが通ればどこへでもでかけていくことにします。その条件とは、「実習内容は、ご飯を炊くこと、おにぎりをむすぶこと、みそ汁を作ること」です。
たいていの担当者はあわてます。おにぎりの作り方では、受講生が集まらないと思うのでしょう。そんなことはありません。参加者は集まりますし、実習も充実したものになります。
実習ではおにぎりとみそ汁を作ります。コメをとぐ、そこからがすでに人それぞれです。その家のスタイルもあれば、まったく出来ない人もいます。炊飯器のスイッチを押すだけなのに、水加減でいつもと違う炊き上がりになる驚き。コメを握ることで感じる「料理」の楽しさ。逆にみそ汁は、煮干しでだしをとる、それだけで後は何をいれても美味しく仕上がるという簡単さを知ってもらう。ここに和食の原点があるのです。しかも、手早く一食分のできあがりです。
本当は簡単で楽しく、それで美味しい和食。その経験は、自信となり、関心を深め、その後は誰もが熱心に長く参加してくれるのです。その過程で添加物の話、輸入食材の話、遺伝子組み替えの話、食糧自給の話をしていきます。新聞に書いてあっても素通りの事柄が、食という視点を持つだけで一気に身近な事柄となる。納豆や豆腐を手にしたときに原料に目がいきます。醤油を手にしたときに成分表に目がいきます。同じ店頭に並んでいながら、実は異なる部分がある。そこに気づくと判断が必要になります。どちらを買おうか。その結果、家計と相談して安い方という判断であれば、それでもいいのです。要は自分が何を口にしているかを見つめるまなざしを養うことが大事。けれどもやがては見て見ぬふりは、できなくなるものです。
判断せずに安い方を買う。満腹になればいいという食事をする。食費を削って、携帯電話の使用料を払う。その陰で身体は悲鳴をあげているはずです。心身の失調は、実は身体が飢えているからだと、私は思うのです。食事は命をいただくものです。何を奪い、何を口にしているのかを知ることは、命の鎖をつないでいく行為です。食の便利さは、その鎖を分断してしまいました。食べることが病につながるのは、そこに大きな原因があるのではないでしょうか。
(引用ここまで)
「大和ごころ。ときどきその他」から
http://ameblo.jp/shionos/entry-10064184658.html
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