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1995年4月19日 円、史上最高値79円75銭 超円高 外為市場も“崩壊”【東京新聞】
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投稿者 そのまんま西 日時 2007 年 6 月 25 日 23:41:50: sypgvaaYz82Hc
 

1995年4月19日 円、史上最高値79円75銭 超円高 外為市場も“崩壊”【東京新聞】2006年11月4日 紙面から

一日に二百兆円以上のカネが動くといわれる外国為替市場。だが、株式市場のように「取引所」といった物理的な市場があるわけではなく、ディーリング用に開発された通信ネットワークそのものが「外為市場」になっている。そんな仮想空間だが、もし「東京市場」に“中心”があるとすれば、日銀本店や大小の銀行本部が集中する東京・大手町辺りだろうか。あの日−、その地を包んでいた空気は、緊張というよりは、むしろあきらめに近いものだった。

 皇居のお堀に面した一等地のビルに入る英ナショナルウエストミンスター銀行東京支店。ディーリングルームのコンピューター端末は、為替レートの変動を示す緑色のチャートが右肩下がりにジグザグ曲線を描き続けた。右肩下がりはドルの下落、すなわち円の上昇を意味した。

 第一線で二十年のキャリアを持ち、同行のディーラー統括、小口幸伸(56)=現・国際投資アナリスト=はその時、「相場が壊れた」と直感した。

 連日、取引材料にされたのは、難航していた日本車をめぐる日米通商交渉。両国の交渉が暗礁に乗り上げるたびにディーラーはドルを売り、円を買いまくった。まるで「パブロフの犬」の条件反射のように−。小口は「もはや経済の理屈の世界ではなかった。いくら何でも行き過ぎ、常識がなくなった」と感じた。

 バブル経済崩壊後に襲った超円高。一ドル=一〇〇円前後だった相場は、わずか三カ月の間に一気に八〇円を突破。国内需要の低迷にあえぎ、輸出頼みとなっていた日本経済にとって、輸出品価格の上昇につながる円高は逆風となり「どうやっても輸出が成り立たない」と悲鳴が上がった。大手メーカーが輸出減少を恐れて設備投資を控えると、すそ野に広がる中小企業が打撃を受けた。

 一九九五年四月十九日。円は史上最高値となる一ドル=七九円七五銭まで上昇。激震は足腰の弱った日本経済に襲いかかった。

 羽田空港の北方約一キロの埋め立て地、東京都大田区・城南島。昭和四十年代以降、住宅と併存していた町工場のいくつかがこの地に移転、大小あまたの工場がひしめきあう。多くは工作機械や金型、特注部品を得意とし、大手メーカーに納入する。

 その中の一つ、工作機械メーカー「サヤカ」。従業員約四十人。大手の発注通りに工作機械を造る下請けだったが、超円高局面に入った九三年、大手メーカーの需要が激減。忍び寄る“崩壊”の予兆に社長の猿渡盛之(62)は決断を迫られた。

 「下請けを脱却し、自立しなくては生き残ることはできない」。町工場伝統の技術を生かし、家電や自動車にとって欠かせない「電子基板」を自動切断する工作機械を開発した。

 猿渡の説明によると、こうだ。基板切断機とは、電子回路がプリントされた基板を数ミリ単位で切り刻む。当時は、作業員がニッパーを使い、基板を手で切り分けていた。しかし、製品の小型化によって人手では切り分けるのが難しくなった。基板のほんの小さな亀裂が、製品の動作に大きく影響するため「精巧な自動切断技術なら危機を乗り越えられるはず」と考えた。

 しかし、商品化にこぎつけても「開発費がかさんで価格を下げられず、当初二年間はほとんど売れなかった」。

 円の最高値から一カ月後。旧大蔵省財政金融研究所長だった榊原英資(65)=現・早大教授=が、政府の外為政策の一翼を担う同省国際金融局長に就いた。

 それまで政府は日銀を通じてドルを買う市場介入を繰り返し、円高阻止を図っていた。しかし、榊原は「当時の市場介入は小刻みで一回当たりの介入額が小さく、市場に見透かされていた。これでは拍車がかかった動きは止められない」と考えた。

 八月二日、榊原はかけに出る。この日の介入額は六千七百五十七億円と、それまでの十倍以上。しかも、米国の協調介入を取り付けた。市場の想定をはるかに超える額を投入し、同時に思い切った規制緩和策を発表、巨額の運用資金を持つ保険会社の対外貸し付けを解禁した。海外投資を促進すれば、円売りドル買いが進む。それまでにない政府の果敢な対応は、ディーラーたちを驚かせた。

 榊原は数カ月間、こうした「サプライズ介入」を繰り返した。ドル安を容認していた米政府が自国経済への副作用を懸念してドル高政策に転換したことも相まって、最高値から五カ月後、相場は一ドル=一〇〇円まで戻した。

 超円高は、九〇年代の金融自由化と金融技術の急激な進展に伴って生まれた経済危機の一側面だった。榊原は「私のやり方には批判もあった。しかし、円高を止めるには従来にない方法をとるしかなかった」と説明する。米紙は榊原を「ミスター円」と称した。

 大手メーカーは円安をきっかけにした国内需要の高まりで、相次ぎ設備投資を復活させた。サヤカの基板切断機も業界に利用価値が広まり、販売は一気に伸びた。

 中小製造業にとって超円高の教訓とは何か。

 超円高に見舞われたにもかかわらず、日本は一九八一年から現在まで一度も貿易赤字に転落した経験がない。円高によるコスト上昇分の多くは、大手の要請に応えた中小企業のコスト削減努力で吸収された。

 「大田区の町工場が持つようなアナログの技術が日本経済を支えたのは間違いない」と榊原は中小企業の持つ技術力こそが超円高の難局を乗り切ったとみる。いったんは安価な労働力を求めて、アジア各国へ移転した大手の生産拠点も国内に回帰し始めた。

 基板切断機のような工作機械は、機械や部品を生み出す母体として「マザーマシン」と呼ばれる。町工場の技術の一つ一つは小さい。しかし、こうした技術の集積なしに、世界中に通用する「ジャパン・ブランド」は存在しない。

 基板切断機をじっと見つめながら猿渡は言う。

 「この機械が売れ始めて、小さな市場とはいえ自社の得意な分野を開拓でき、メーカーとして自立する自信が付いた」(川上義則)=文中敬称略

<プレーバック> 米、通商交渉に「相場」利用
 外為市場は一九七〇年代初頭、主要国が変動相場制に移行して誕生、その歴史は浅い。九〇年代は、多額の資金の運用先を求めた一部ヘッジファンドが各国の経済政策の矛盾を突き、相場の形成を狙った。こうした動きがメキシコの通貨危機を誘発。メキシコと自由貿易協定を結ぶ米国の通貨安を招いたことが超円高につながった。

 また、米政府は、通商交渉にたびたび為替相場を利用してきた。九三年一月に発足したクリントン政権も「米国内の雇用創出」を掲げ、日本の自動車産業に圧力をかける一方、日本側が難色を示すたびドル安を容認する発言を繰り返し、円高を誘発した。

 二〇〇〇年以降は取引額が飛躍的に拡大し、ヘッジファンドを含めた市場参加者の数も大幅に増えた一方、各国が規制を強化したことで外為市場は比較的安定している。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/anohi/CK2007061502124487.html

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