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特集 あの日から【東京新聞】
(1999年10月18日 日産 ゴーン改革発表 再生へ『ケイレツ』破壊
2006年12月28日 紙面から)
豊田、鈴鹿、広島、そして武蔵村山…。自動車メーカーの生産拠点というと、メーンとなる工場を頂点として、数多くの下請けや系列企業がすそ野のように広がり、典型的な企業城下町を形成してきた。
この独特のピラミッド構造はニッポン企業の「高品質、安定供給」という二枚看板を支える伝統的システムで、「ケイレツ」は立派な英語となった。従って親企業の業績が“城下町”の経済を左右、文字通り運命共同体といえる関係だった。
しかし、親企業の方針がガラリと転換し、この古き良き日本型システムを否定してしまったら−。
「工場閉鎖、そして系列は破壊する」。極度の業績不振に苦しむ大手自動車メーカー日産自動車が、経営立て直しのために呼んだレバノン育ちのブラジル人(フランス国籍も)は、日本的慣行を徹底的に瓦解させる決断を下した。
主力の村山工場(東京都武蔵村山市)を含む四工場の閉鎖と従業員二万一千人削減、さらに取引部品メーカーを半減させ、保有する千三百九十四社の株式を売却して系列を解体すると発表した。
ケイレツは確かに、右肩上がり経済の下では最大限に利点を発揮したが、一方では親企業の“天下り先”と化し、系列の業績確保のためある種の“高コスト”が黙認されるという「甘えの構造」を抱えてもいた。コストカッターの異名を持つ市場主義の申し子が、この構造に切り込んだのは、冷静に考えれば至極当然のことだった。
日産の最高執行責任者(COO、当時)、カルロス・ゴーン(52)が経営再建策「日産リバイバルプラン(NRP)」を発表した一九九九年十月十八日。日本的経営を信奉してきた下請け、孫請け群は、その日から「競争力」を基準とした“選別”に震え上がり、城下町には地盤沈下への不安が一気に広がった。
村山工場の地元、立川商工会議所専務理事の小松清広(53)は、工場完全閉鎖から二年後の〇三年にゴーンを招いた講演会を印象深く覚えている。
質疑応答で参加者の一人が「外国人だから(主力の)村山工場を切り捨てることができたのではないか」と詰め寄った。
それに対してゴーンは迷いなく言い切った。「業績が悪くなった会社を何としてもよみがえらせるという執念があれば、外国人でも日本人でもやるべきことは同じだ」−。
といって、そんなドライな決断を受け入れる土壌などなかった。しかし、泣き言をもらす余裕もまたなかった。庇護(ひご)から一転、切り捨てに直面した「系列」は、自力での生き残り策を模索せざるを得なかったからだ。
日産の100%出資子会社である完成車輸送会社「日産陸送」(横浜市鶴見区、当時)。ゴーン改革が進むまっただ中の二〇〇〇年、社長として送り込まれた日産上席常務の岩下世志(62)は述懐する。ゴーンからは「日産が保有する株式は売却する。輸送費用は三割減だ」と極めて厳しいコストダウンを言明されたという。
ここから日産への依存体質の転換が始まった。かつてのライバル、トヨタ自動車やホンダなどとの取引、中古車輸送の分野に活路を求めた。死に物狂いの結果、日産の不振とともに沈み込んでいた業績は黒字を確保するまでに転換を果たした。
「自分で何とかしなくてはならないという危機感は大きく、社員の意識改革が進んだ。安住し、もたれ合ってしまうような系列はだめだった」と岩下はかみしめる。
しかし、これは数少ない成功例にすぎない。大半は、親企業からのコストダウン要求を下請けから孫請け、さらにひ孫請けらの納入価格に転嫁、これが実質賃金低下といった形でしわ寄せされたのだった。
厳しい数値目標を掲げ、地域と下請け企業に犠牲を強いたリバイバルプランは狙い通り目覚ましいV字回復を達成。九八年に二兆円あった有利子負債は〇三年に完済し、国内シェアは約12%から20%近くへと拡大した。
ただ、自動車産業の歴史に詳しい三菱総合研究所の上席研究理事、土屋勉男は急激なゴーン改革を「九〇年代半ばに他のメーカーが取り組んだ流れに乗り遅れたツケ」と厳しい見方を示したうえで「V字回復は欧米流の破壊から生み出されただけで、さらなる成長には数値目標では示せない、地道な車づくりの土台に取り組むことが必要。部品メーカーとの関係をしっかりと構築する必要がある」と指摘する。
土屋の解説を裏打ちするように日産には今、頭打ち感が漂っている。ゴーン改革が残した教訓は何か。いかにも日本的なもたれ合い構造に市場原理を持ち込み、各社の系列子会社群の整理・再編を促して国内勢の競争力を高めた。さらに高機能化が進む自動車を支える高度な技術を、秘密を守りながら供給する「系列」の再評価につながったことも確かだ。
村山工場跡地には十一月、大手の百貨店三越とスーパーのジャスコが手を結んだ新形態のショッピングセンター「ダイヤモンドシティ・ミュー」がオープン。延べ床面積十五万平方メートルと巨大な店舗は連日大にぎわいだ。工場閉鎖から五年、城下町もまた、その傷を癒やし始めている。(斉場保伸)=文中敬称略
<プレーバック> 黒字化、負債減…すべて前倒し達成
日産リバイバルプランは1999年10月に発表、2000年4月から実施された。購買コストや人員の削減など強力なリストラを進めて(1)2000年度連結当期利益の黒字化(2)02年度連結売上高営業利益率4・5%以上(3)02年度末までに自動車事業の連結有利子負債を7000億円以下に削減−という大胆なコミットメント(達成目標)を掲げ、いずれか未達成の場合は経営陣全員が辞任すると公約。結果的に、すべて1年前倒しで達成した。
さらにゴーン社長は02年に第二弾として高収益企業への転換を目指す経営計画「日産180」を発表。03年度営業利益率は11%台と目標の8%を上回り、トヨタ自動車やホンダを上回った。
しかし、新型車投入が途切れた影響から国内外の販売台数が次第に減少。今年10月発表の06年9月中間連結決算では、営業利益がゴーン社長が就任する前の98年以来、8年ぶりに減益となった。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/anohi/CK2007061502124491.html