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特集 あの日から【東京新聞】
(1998年4月1日 新日銀法が施行 もろさ残る『独立性確保』 2007年3月30日 紙面から)
逆風が吹き荒れる中での「新生日銀」の船出だった。一九九八年四月一日。新日銀法の施行という記念すべき日ながら、その前日に接待汚職事件で幹部行員が起訴されるという間の悪さ。国内景気は後退色を強め、金融政策のかじ取りも一層難しさを増しており、日銀の前途多難さを予感させた。
政府、とりわけ大蔵省(現・財務省)からの独立性確保は日銀の長年の“悲願”だった。戦時中に制定され、国家統制色の強かった旧日銀法は、内閣による日銀総裁解任権や蔵相(現・財務相)の業務命令権など政府に強い権限を与え、独立性の弱さゆえに日銀は過去に大きな失敗を繰り返していたからだ。
「(日銀総裁の)首を切ってでも利下げすべきだ」−。
失敗の代表例は、七〇年代半ばの「狂乱物価」と八〇年代後半の「バブル経済」。ともに本来は利上げすべき局面ながら、低金利継続による景気刺激を優先させたい政府などの圧力に屈した形で利上げの主張を貫けなかった。特に九二年に自民党副総裁の金丸信が日銀総裁の解任を求める発言をして物議を醸すなど、政治の介入もしばしば起きた。
こうした苦い経験から、日銀は独立性の確保が金融政策には必要だとの主張を抱くものの、声高にそれを主張することはほとんどなかった。旧日銀法時代、日銀は「独立性が低いと言っては、それをいいことに、いつも責任逃れをしていた」(大蔵省幹部)と、愚痴ばかりこぼす“御殿女中”に例えられることもあった。つまり政策決定を大蔵省など政府に委ね、大蔵省監督下で「責任のない気楽な体制」だったこともまた、確かだった。
日銀法改正作業が具体化したのも、言ってみれば棚からぼたもちのようなものだった。きっかけは、九六年、住宅金融専門会社(住専)処理をめぐる批判を受けて自民、社民、さきがけの連立与党が着手した大蔵省改革の行き詰まりだった。
連立与党プロジェクトチーム(PT)の座長を務めた社民党副党首の伊藤茂は述懐する。「大蔵省銀行局、証券局の廃止や財政・金融の分離などの改革案に、大蔵省や族議員の抵抗が激しく、議論が立ち往生してしまった。それで目先を変えて急きょ日銀法改正をやろうとなった。大蔵省は、本当は日銀を自分のコントロール下に置いておきたいんだが、自分への火の粉を振り払いたいから表立って反対できなくなったわけだ」
与党PT代表が同年四月、日銀総裁の松下康雄と会談したことを契機に法改正の動きは本格化。伊藤は「最初から見通しを持って始めたわけではなかった。だが、欧米各国も中央銀行の独立性を強めていたし、今思えば日銀法改正は歴史の必然だった」と振り返る。
首相の橋本龍太郎は「日銀は中立的な組織なので、政党が中心になって法改正を進めるのは好ましくない」と判断、首相の私的諮問機関「中央銀行研究会」(中銀研)を九六年七月に発足させ、座長には慶大OB同士で旧知の慶応義塾塾長、鳥居泰彦を起用した。
中銀研の議論の過程では、やはり大蔵省の影がちらついた。政府代表が日銀政策委員会に出席できることが明記されていない、と大蔵省は抵抗、政府代表の出席と金融政策決定会合の議決を次回まで延期するよう求める議決延期請求権を実現させた。
そうした「後退」はあったものの、中銀研は九六年十一月十二日、内閣による総裁解任権をなくすことなどを明記した最終報告書をまとめる。金融制度調査会(蔵相の諮問機関)での法案づくりを経て、九七年の通常国会で新法が成立、翌九八年四月の施行に至る。
新法施行を受けた記者会見で、当時の総裁、速水優は「一刻も早く自らの改革を果たし、内外の信任を回復する」と表明。日銀の歴史で初めて、金融政策を決定する政策委員会のメンバーもそろって会見し、新しさを印象づけた。
こうして制度上の独立性はまがりなりにも高まったものの、その後の経緯を見る限り実質的な独立性が確保できたとはとても言い難い。
日銀が二〇〇〇年八月にゼロ金利解除を提案した際、政府は「伝家の宝刀」とみられていた議決延期請求権をあっさりと行使。今年一月、自民党幹事長の中川秀直が日銀法改正をちらつかせて追加利上げを露骨にけん制したことは記憶に新しい。
日銀や諸外国の金融政策に詳しい東短リサーチのチーフエコノミスト、加藤出は「FRB(=米国の中央銀行である連邦準備制度理事会)も最初から独立性があったわけではなく、政策判断の正確さなど実績の積み重ねで独立性を勝ち取った。日銀も、実質的な独立性を得るには実績と信頼が不可欠だ」と言い切る。
だが日銀の場合、新法施行直前の接待汚職事件で副総裁を辞した福井俊彦が、〇三年の総裁就任後も村上ファンドへの投資を継続して利益を上げていたことが発覚するなど、相次ぐスキャンダルで信頼は大きく失墜。実績という点でも、金融政策をうまく機能させるために意図や方向性をマーケットに浸透させる「市場との対話」は未熟で、一月の追加利上げ見送り局面では逆に市場の混乱を招いた。国民経済に取り返しのつかない傷跡を残したバブルや狂乱物価の再発を防げるのかどうか、道のりは険しい。(鈴木宏征)=文中敬称略、肩書は当時
<プレーバック> 内閣による総裁解任権を廃止
1998年4月に施行された新日銀法は、42年制定の戦時立法で国家統制色が濃い旧日銀法を全面改正し、日銀の独立性や金融政策決定の透明性を高める狙いを持つ。
独立性に関しては第3条で「日銀の通貨及び金融調節における自主性は尊重されなければならない」と規定。旧日銀法にあった「内閣による総裁解任権」は廃止され、日銀総裁は「その意に反して解任されることがない」と明記された。
「スリーピング・ボード(休眠委員会)」と批判されていた政策委員会についても、大蔵省と経済企画庁からの政府委員を廃し、正副総裁3人と外部有識者の審議委員6人による9人の合議制として機能強化を図った。
一方で、第4条には「日銀は常に政府との連絡を密にし、十分な意思疎通を図らなければならない」とある。政府・与党内にはこの条文を盾に日銀の政策運営をけん制する動きも見られ、独立性の解釈について日銀と政治サイドの間で隔たりが目立つのが実情だ。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/anohi/CK2007061502124497.html