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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu145.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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日本の企業は、これまで、組織への忠誠心と協調性を基準に
人材を評価し、知的で独創的な人材を排除してきた。
2007年6月3日 日曜日
◆知識資本主義 レスター・C・サロー(著)
http://www.bk1.co.jp/product/2472529
◆知識依拠型経済のグローバル化 2007年1月3日 永井俊哉
http://www.teamrenzan.com/archives/writer/nagai/thurow.html
1. 知識依拠型経済とは何か
レスター・サローは、2003年に“Fortune Favors the Bold”という本を出した。この本の邦訳タイトルは『知識資本主義』となっているが、このタイトルには、違和感がある。“Fortune Favors the Bold”は「運命の女神は勇者に味方する」という諺で、中国の諺では「虎穴に入らずんば虎児を得ず」に近い。日本語訳で原題を採用しなければならない理由はないが、『知識資本主義』というタイトルはまずい。レスター・サローは、“knowledge-based economy”という表現を使っても、“knowledge-based capitalism”という表現を使わない。彼は、資本主義に否定的なイメージを持っているからだ [Lester C. Thurow:The Future of Capitalism] 。
マックス・ウェーバーが指摘したように、資本主義の精神とは、合理的な手段を用いて堅実に資本を蓄積する禁欲主義であり、博打的な方法で一攫千金を狙う冒険主義の対極にある。だから、“Fortune Favors the Bold”というのは、資本主義的ではないのである。そこで、「知識資本主義」という言葉の代わりに、「知識依拠型経済」という言葉を使うことにしよう。
レスター・サローによると、現在の世界は、軽工業中心の第一次産業革命、重化学工業中心の第二次産業革命に続く、第三次産業革命の時代である。
第三次産業革命では、知的所有権がますます重要になる一方であるのに対して、他の競争力の源泉はより重要ではなくなる。
レスター・サローが謂う所の「知識依拠型経済」とは、特許やノウハウといった知識に関する要素が、労働力、天然資源、資金といった他の要素よりも重要な役割を果たす経済のことである。
同じ労働力といっても、かつてのように肉体的な力が求められるわけではない。以下のグラフは、この25年間における高卒の賃金を基準とした各学歴の賃金水準の推移を表しているが、修士号や博士号を取得した大学院卒(Advanced degree)の平均所得が急速に伸びていることがわかる。
2. 知を軽視する日本
もっとも同じ事は日本には当てはまらない。医学部の博士課程とその他の理系の修士課程を例外として、「大学院で上に行くほど人材の市場価値が下がる」と言われているのが、日本の人材市場の実態である。これは、日本の大学院が、教育機関として機能していないからであるが、同時に、日本人の反知性主義をも反映している。
これ以外にも、日本では、高学歴の方が低学歴よりも就職で苦労することがある。本当は短大を卒業しているのに高卒と偽り、中高卒者のみを対象とした仕事に就いていたことが発覚して解雇されるという「低学歴詐称事件」すら起きたりしている[AERA(2006年11月27日号)「高学歴」がだめな仕事 神戸市で14人が諭旨免職]。どうやら、日本の経営者は、高学歴の人ほど人格的に欠陥があり、使いづらいという偏見に基づき、能力と人格のバランスをとって採用しているようだ。
レスター・サローも次のように日本の反知性主義について言及している。
日本人は、歴史的に、科学的リーダーシップと経済的リーダーシップの間になんら強い相関性がないことを理解していた。
確かに、例えば、第二次世界大戦以前では、科学のリーダーがドイツであったのに対して、経済のリーダーは米国であったというように、両者は同じではなかった。同様に、1980年代、科学のリーダーは米国であったが、経済のリーダーは日本ということが可能だった。しかし、これは、知的財産が低コストで利用可能であった時代だから可能であったのではないだろうか。
日本では、しばしば「芸は師匠から盗め」と言われたりする。「盗む」といっても罪悪感はない。日本人は、知が、水や平和と同様に、タダだと思っている。自分で苦労しなくても、飲み水は天から降ってくるし、平和は神風(米軍)によってもたらされるし、知は師匠(米国)から盗めばよい。たしかに、かつては、日本は米国から芸を盗むことができた。
.AT&Tのベル研究所に技術の自由提携を命じた1957年の反トラスト法の発令直後、ベル研究所の技術を監視し、それを日本に移転するべく、ニュージャージーに日本事務所が設立された。カメラをぶら下げた日本人がアメリカの工場を見学して徘徊する姿があまりに頻繁に目撃されたため、彼らは、深夜番組で、お笑い芸人のネタになった。
ライバル企業に自由に工場内を見学させるなど、今では考えられないことだが、この当時は、米国も知的財産権を重視しておらず、この程度のことで、米国産業の優位が日本によって脅かされることはないと高をくくっていたのであろう。しかし、80年代になると状況は変わった。米国は、躍進する日本が米国の科学技術にタダ乗りしているというフリーライダー論が台頭し、日本叩きが始まった。
現在、企業は知的財産権を重視するようになっており、かつて日本がやった方法を現在の途上国がまねをするわけにはいかない。しかし、このことは、技術の先進国から途上国への移転を不可能にはしない。国際経済からグローバル経済への変化により、国民経済が他の国民経済を模倣するという方法ではなく、国民経済のボーダーを越えて、企業がグローバルに活動することで、技術移転が進むという新たな方法が生まれている。
日本は、これまで外資による国内への投資に対して消極的だった。他の発展途上国が、官民ともに先進国による投資を熱望し、様々な誘致策を打ち出しているというのに、日本人は、外資に対して「ハゲタカファンド」というあだ名をつけ、その日本への進出が日本を滅ぼすと信じて、外資の導入に対して、いまだに根強い拒否感を持ち続けている。おかげで、日本は、IT(情報技術)でもGT(遺伝子技術)でも、世界の最先端から遅れをとっている。
もちろん、他の先進国から技術を教わらなくても、自分たちで競争力のある独創的技術を開発できるなら、話は別である。しかし、日本人は、これまで、国内の独創性に対して、それを可能にするほどの敬意と対価を支払ってきただろうか。中村修二氏の青色発光ダイオードの発明の例を挙げるまでもなく、十分ではない。国内の独創性は、海外で評価されるまでは評価しないという悪しき慣習も残っている。
師匠から芸を盗み、それを「カイゼン」し、コストを下げることで収益を上げることができた時代は終わった。外資の導入を拒否するなら、自ら、先端的で独創的な知的財産を作らなければならない。日本の企業は、これまで、組織への忠誠心と協調性を基準に人材を評価し、知的で独創的な人材を排除してきた。これまでそれでうまくいったのだから、これからもそれでよいだろうと思っている経営者は依然として多い。変革の時代においては、過去の成功体験が、新たな成功への最大の障害となる。(中略)
知的財産権の保証は政府が行わなければならない。情報産業がグローバル化する中、著作権を各国が管理するのではなくて、WIPOのような国際的な機関が一括して管理する方が望ましい。特許権に関しても、それぞれの国で申請するのは、費用と手間という点で非合理であり、グローバリゼーションの時代にふさわしい権利管理の仕組みが必要である。
資源・環境問題への対応という観点からしても、大量生産と大量消費を目標とする工業社会から質的向上を目標とする情報社会への移行は必要であるのだが、工業社会の主体が国民経済ごとに存在した開発独裁型政府であったのに対して、情報社会の主体はグローバル経済における個人であり、工業社会から情報社会への移行を促進するためには、経済主体の変化を考慮に入れた社会制度変革が必要である。
(私のコメント)
バブル崩壊後の日本がなかなか景気回復がしないのは構造的な問題を抱えているのか、アメリカの陰謀なのか分かりませんが、日本の60年代70年代は不況になってもすぐに復活できたのはアメリカから技術を導入してきたからで、80年代になってからはそれが不可能になったからではないかと思う。
自動車や家電製品などの技術的な発明の基本的なものの多くがアメリカの研究所で発明されたものだ。日本企業はそれに技術的な改良を重ねて製品化することで経済発展することが出来た。ところが80年代に入ってからは、日立のエンジニアが後ろ手に縛られた写真があるように産業スパイは捕まるようになってしまった。
技術的改良程度なら社員のエンジニアでも出来る事でしょうが、知的で独創的な発明となると社員エンジニアでは、なかなか生み出せるものではない。たとえ生み出したとしても会社からは正当な評価を受けないから、優秀な発明家は日本ではなかなか生まれない。ノーベル賞をもらった島津製作所の田中耕一さんは偶然的なものだろう。
フラッシュメモリーを発明した元東芝の舛岡富士夫教授も、企業からは正当な評価を受けたとは言えない。日本企業はなぜこのような独創的な発明を評価する事ができないのだろうか? アメリカから技術導入する場合は多額のライセンス料などを払って導入してきたが、基本的には知的財産権を重要視してこなかった為だ。それが海外で評価されると慌てて表彰したりしている。
中国や韓国の追い上げも、外資系企業が技術供与を積極的に行なって、日本企業は独自技術で対抗しようとしているのですが、独創的な発明は簡単に出来る事ではない。さらに基本的な発明はコマーシャルベースに乗らないから企業は手をつけない。大学などの研究所で行われる事が多いのですが、日本では高学歴者は評価されない。
医科理科系の大学ならそれなりに評価は高いのですが、文科系の大学や大学院は学歴を偽って高卒資格で公務員になる事もあるくらい能力は評価されていない。ブログなどを見回しても政治や経済などのブログのレベルは低く、読み応えのあるブログは少ない。大学や大学院で論文などを書いて実力を上げる事もないからだ。
大学を出て会社に就職しても、求められるのは協調性や会社への忠誠心だ。バブル崩壊以降は会社も大幅なリストラを行い、多くの正社員がクビを切られてアルバイトやパート社員や派遣社員に置き換えられて、日本でも会社への忠誠心は薄くなり、新卒社員もすぐに会社を辞める事が珍しくなくなった。
バブル前は定年まで勤めることがサラリーマンの常識でしたが、最近では定年まで勤め上げるサラリーマンは珍しい。となると4年かけて大学を出ても転職を繰り返せば意味はなくなり、学閥で就職や出世が出来る事は官庁でしか通用しなくなる。社長の実力が無ければどんな大会社でも倒産する世の中だ。
日本のように長期に経済が停滞した世の中では、会社でも協調性や忠誠心よりも、独創的な能力を持った社員を使いこなさないと、会社も生き抜いては行けなくなった。ソニーのようなクリエイティブな会社であったところでも出井社長のような上司の受けが良かった程度の社長では、ソニーという会社でも画期的な新製品を出せなくなってしまった。
最近では自動車や家電製品でも製品そのものよりも、製品に組み込められたソフトが付加価値を左右するようになっている。自動車でもコンピューターを数多く組み込んで燃料制御や運転制御を行なっている。トヨタのハイブリットカーにしてもどのようにコンピュータ制御するかは企業機密だ。他のメーカーでもハイブリットカーは作れても制御ソフトは作れない。
これからの日本は大企業や官庁に勤めるサラリーマンが動かしていくのではなく、情報化型社会においてはグローバル経済における個人であり、私のように個人で自営業を営み、ネットのブログで毎日のように「株式日記」で情報を発信し続ける先端的で独創的な情報を生み出し続ける人材が日本を動かしていくのだ。もはや大新聞の記者や中央官庁のエリート官僚では情報化社会では使い物にならない。時代の変化についていけないのだ。
今では大新聞の記者たちもウェブを見ながら記事を書いているし、中央官庁の官僚たちもブログを読みながら世論の動向を探っている。もはや世論は新聞やテレビではなくてネット社会が作り出していきつつある。ブログは無料メディアだがくだらない無益な事ばかり書いていたのでは読者も集まらない。
永井氏が「知識資本主義」の書評で書いていたように、日本社会では知的で独創的な人材を排除して来た。小中学校でも独創性があったりするとイジメにあったり、会社でも独創性や秀でた能力があったりすると足を引っ張られて排除される。無能でも協調性があり忠誠心のある社員の方が可愛がられて出世した。しかしネット社会では情報化社会だから能力のある人間でないと何の役にも立たない。
今日はレスター・C・サロー教授の「大接戦」の書評を書こうと思ったのですが、永井氏のサロー教授の「知識資本主義」の書評があったので、それを基に書きました。「大接戦」の本の書評は次の機会にさせていただきます。