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http://www.diplo.jp/articles07/0701-3.html
ルモンド・ディプロマティーク
スーザン・ジョージ(Susan George)
文筆家、トランスナショナル研究所(アムステルダム)理事長
訳・青木泉
2001年に始まった世界貿易機関(WTO)のドーハ・ラウンドは破綻した。欧州には、国単位あるいは地域単位での保護主義に戻ろうという動きもある。しかし私たちは、かつてケインズが提唱した国際貿易機関(ITO)の構想の、現代的な活用を図れるのではないだろうか。この構想には、完全雇用や福祉向上など、数々の目標も掲げられていた。[フランス語版編集部]
2001年にカタールの首都ドーハで開かれた世界貿易機関(WTO)閣僚会議で始まったドーハ・ラウンドは瓦解した。WTOのラミー事務局長は、交渉の再開を必死に模索している。しかし、ドーハ・ラウンドに反対する人々は、交渉が始まった当初から、ひどい合意ができるぐらいなら合意がない方がましだと主張してきた。この交渉では、最初から最後の(不毛な)やりとりに至るまで、様々な危険が増大するばかりだったからだ。強力な農業事業体だけが優遇される危険、途上国の脆弱な新興産業がゆるがされ、更にはつぶされる危険、サービス貿易に関する一般協定(GATS)を通じて民間部門が公共サービスを牛耳ることになる危険などだ。
ドーハ・ラウンドの挫折は、一時的なものにすぎないかもしれない。妥結していないからといって、1995年に発足したWTOの設立文書がなくなるわけではない。農業協定や、工業製品を対象とした関税と貿易に関する一般協定(GATT)、GATSその他、WTOが管轄する20あまりの協定は効力を持ち続ける。しかし、これらの実施は恐ろしくスピードダウンしている。私たちはWTOの休止状態、一種の執行猶予状態を手に入れた。これはひとつの可能性、打開へとつながるだろう。
多くの人々は、ラウンドの失敗を目の当たりにして、ではドーハの代わりは何か、と問う。これに対して、癌の代わりに何を、というのと同じだと答える者もいるだろう。しかし、国際貿易の場合には、「代わりはなし」という答えは賢明とは言えない。癌がなくなることは文句なしに望ましいが、国際貿易の管理体制がなくなれば、二国間や多国間の協定が増えるだけだ。力の弱い国にとっては、WTO体制よりも更に危険な状態だ。
世界の諸大国には、多国籍企業に追随しているだけだという疑惑が常に向けられている。そのような国々に将来の貿易体制の構築を任せておくよりも、第二次世界大戦直後に起きた国際関係の大規模な再編を振り返る方が有益だ。ここ25年ですっかり変わり果ててしまった世界銀行や国際通貨基金(IMF)でさえ、最初のうちは途上国にとっても、戦争で荒廃した先進国にとっても有用な機構として働いていた。
平和が取り戻されるかなり前から、イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズは、世界貿易のルールを全面的に作り替える構想を打ち出していた。彼が提唱したのは、国際貿易機関(ITO)の創設である。また、それを支える国際中央銀行として国際清算同盟(ICU)を設け、国際貿易の決済通貨となる「バンコール」を発行する。二つの機関はいずれも実現しなかったが、もし実現したらどうなっていたかを考えてみる価値はある。なぜなら、これらの機関ができていたら、先進国と途上国、双方の住民の必要に応じた貿易システムが構築され、世界は現在よりも理にかなったものとなっていただろうからだ。
ITOとICUが実現していれば、現在のような巨額の貿易赤字(例えばアメリカは2005年に7160億ドル)や貿易黒字(例えば中国のそれ)を記録する国は出てこなかっただろう。途上国に対外債務がのしかかり、世銀とIMFが構造改革政策を推進するという事態もありえなかった。この構想によって資本主義が消滅するわけではないが、改めて検討してみる価値はあるだろう。多少の修正は必要にしても、基本的な部分は今でも十分通用する。
ITOが確立するはずだった貿易ルールの詳細を説明する前に、この機関が実現しなかった理由に触れておく必要がある。アメリカが望まなかったから、という説明が一般的で、これは確かに本当だが、事態を単純化しすぎている。構想の挫折には、他の政治的要因も働いていたからだ。
暫定措置だったGATT
アメリカとイギリスがこの案について協議し始めたのは、戦争終結のかなり前のことで、ケインズによる構想は1942年にさかのぼる。1944年7月にブレトン・ウッズで開かれ、ケインズが議長を務めた会議で、イギリスは彼の構想を公式に自国案として主張した。しかしこの時すでに、国内の大手企業の意向を汲んだアメリカ政府は、あまり乗り気な姿勢を見せなかった。アメリカ側の交渉責任者ハリー・デクスター・ホワイトは、代案として世銀とIMFの設立を提唱した(1)。続いてアメリカ連邦議会は、「ブレトン・ウッズ機関」とも呼ばれる両機関の設立に関する合意を批准した。ITOは後回しにされた。
1945年には、国際連合が設立される。ITO設立案は米英両国により、経済分野を担当する国連経済社会理事会(ECOSOC)に提出された。1946年、ECOSOCはこの案を検討するために、国連貿易雇用会議を招集する(2)。ところがアメリカは、国際貿易に関して二股作戦を取っていた。ECOSOCの会議に先立って、アメリカと同じく貿易自由化の一刻も早い実現を望む国連加盟国22カ国を集め、別の会議を開いたのだ。この別会議の参加諸国は、いわば暫定的な措置として、GATTを起草した。少なくとも当初は暫定的なものと見なされていた。
1947年に調印され、翌年に発効したGATTは、最終文書たるITO憲章に統合される見通しだったので、機構面はあまり整備されていなかった。ITO憲章は1948年に完成し、ハバナ会議で採択された。この文書がハバナ憲章(正式には、国際貿易機関を設立するハバナ憲章)と呼ばれるのはこのためだ(3)。
ITO構想が実現に至らなかったのは、政治的支持が急速に失われたことによる。1946年にケインズが他界し、ITOのもう一人の推進者だった米国務長官コーデル・ハルは終戦前に健康上の理由で辞任した。ブレトン・ウッズ会議に満ちていた「世界を作り直そう」という熱意が消え去ったのだ。アメリカでは、多くの人々が孤立主義に向かい、議会も意欲を失っていった。産業界では、片やITOは過度に保護主義的、片や保護主義が不十分だという理由から、多くが設立反対に回ったことも大きかった。国務省と財務省は、マーシャル・プランの推進と二国間貿易協定の締結を優先していた。1948年の大統領選は接戦となり、二大政党は、物議を醸すような国際協定で波風を立てたくなかった。この頃には冷戦も始まっており、アメリカの政治家にとっても官僚にとっても、ITO の意義や緊急性は薄れていた。
1948年に大統領に再選されたハリー・トルーマンは、積極的とは言えないまでも、ITO憲章(通称ハバナ憲章)を議会の審議にかけた。しかし批准すると思われた議会は、採決にさえ至らなかった。そのあおりで、GATTが存続することになった。「暫定的」との位置づけゆえに、機構面での国際合意がないに等しかったからだ。その後、GATTはそれなりにうまく機能した。数十年を経て、多くの国に高関税品目が残っていたとはいえ、平均関税率は50%から5%にまで引き下げられた。全部で8回の貿易自由化交渉が実施され、最後のウルグアイ・ラウンドでは、WTO設立という非常に野心的な協定が作成された。GATT体制下での貿易協定はケインズが望んだものとはかけ離れており、WTOに至っては全くの大違いだった。
WTOは国連とは何の連携もない機関で、1948年の世界人権宣言などの法的文書を承認していない。他方、ITO憲章では冒頭でまず国連憲章への言及がある。ITO憲章の数々の目標には、完全雇用、福祉の向上、発展といったことが掲げられている。
ITO憲章の第2章は全編にわたって、失業と不完全雇用への対策に充てられている。こういった課題に関する規定が何もないWTOとは違い、ITOは公正な労働規範、賃金の向上を重視し、国際労働機関(ILO)との協力を加盟国に義務づけている。世界の労働組合運動が、WTO設立から6年にわたり、「社会条項」の追加を求めたことを思い出されたい。しかも、そこで要求された条項は、ITO憲章に謳われていた原則に比べれば、非常にトーンダウンされたものだった。2001年のドーハ会議の後、労働組合は最終的に社会条項の追加をあきらめた。
「保護主義」についての規定
ITO憲章には、技能と技術を世界的に共有することも規定されている。外国投資が加盟国の「内政問題に干渉する口実になってはならない」ことも明記されている。最も貧しく力の弱い国々には、自国の再建と発展を目的とした介入主義と「保護主義」が認められ、「保護措置の方式による政府補助は正当化される」とする。
「自国の一次産品を加工する産業を振興するため」の特別補助は、とりわけ推奨される。その他にも多くの条項が一次産品に言及し、小規模生産者の保護を謳っている。一次産品価格を安定させるために政府資金を年毎に投入することが認められ、また「枯渇性の天然資源の保全」が提唱される。一次産品に関する生産国間の協議を促す一連の措置を見れば、ITOが石油輸出国機構(OPEC)のような生産国カルテルの形成を暗に奨励していたことが分かる。ITO はまた、これら諸国が一次産品を国内で加工して、付加価値を付けることも推奨していた。
実際には、そうした方向に進むどころか、一次産品の価格は低下した。国連貿易開発会議(UNCTAD)によれば、1977年から 2001年までに食糧価格は毎年平均2.6%、トロピカル飲料は5.6%、油糧作物と油脂は3.5%下がった。食糧や飲料と違って小規模生産者によらない金属の場合は低下率が1.9%にとどまったが、それでも生産国にとっては輸出収入に大きく響いた。
同じく現行のWTOとは異なる点として、ハバナ憲章では政府が補助金や政府調達によって国内産業を援助することが認められ、映画市場における自国作品の最低上映時間についての規定もある。農業と漁業の保護も認められる。他方、ドーハ・ラウンドで最大の争点となり、失敗の原因となった項目のひとつが、農業輸出補助金だった。ITOの場合には、「価格を国内の購入者に対するものよりも低く抑える」ための輸出補助金が特に禁止されるにとどまる。加盟国は、財政困難に陥った場合には、輸入制限を認められる。ただし、制限の規模は財政問題の度合いに応じたものでなければならず、それまでの輸入先には公平な割当を与えなければならない。
機構面に関しては、ITOの規定は単純で民主的だ。国連貿易雇用会議に招聘された国は自動的にITOの加盟国となる。それ以外の新規加盟は、同会議で承認する。表決権は一国につき一票(世銀とIMFでは分担金の額によって票数が定められており、このためアメリカ一国だけで重要議題の決議を阻止することができてしまう)。国連分担金の滞納国は表決権を失う。つまり、もしITOが発足していれば、この20年間でアメリカが表決に加われないことの方が多かったはずだ。
「ガバナンス」について言えば、ITOでは18の理事国が選ばれる。このうち8カ国は「経済規模および世界貿易に占める割合から見た大国」、その他10カ国は地域および経済類型のバランスを考慮して選ばれる。決議は単純過半数、場合によっては3分の2を必要とする。意見の対立は協議による解決を基本とし、それが不可能な場合は、どの加盟国からも理事会審議を請求できる。理事会は、不当な利益侵害を受けた国に対し、報復措置を許可する権限を持つ。
このような新たな貿易秩序を作る努力がなされたのは、世界が戦争の廃墟から立ち直ろうともがいている時だった。アメリカ以外に、財政的に余裕のある国などなかったと言ってよい。マーシャル・プランも、米欧間の貿易を再開することで新たな景気後退を未然に防ごうとしたものだった。アメリカは、支払能力のある消費者が買ってくれる以上に、自国の工業生産量が増え続けて、だぶつくことを危惧していた。
では、各国が立ち直り、生産と貿易を再開するには、どうすればよいのか。ケインズは1940年代はじめに解決策を考え出した。戦争勃発の一因は、より安く売ることで他の国を出し抜こうとする諸国の貿易政策であり、競争激化によって引き起こされた市場の争奪戦だった。『雇用・利子および貨幣の一般理論』の著者は、いかなる国も市場を独占し、膨大な貿易黒字の累積を得ることができないような仕組みを望んだ。それがICUである。ICUは諸国の中央銀行にとっての中央銀行であり、貿易決済のための国際通貨バンコールを発行する。
黒字国にも科せられるペナルティー
ICUの仕組みは次のようなものだ。ある国の保有するバンコールは、輸出によって増え、輸入によって減る。会計年度末に、その国のICU勘定が黒字でも赤字でもなく「清算」された状態、つまりプラスマイナスがゼロに近い状態になることが目標とされる。各国通貨とバンコールの為替レートは固定されるが、調整は可能とする。ケインズ案の革新性は、バンコール残高が黒字の国もまた赤字の国と同様に世界経済システムの動揺を引き起こす、言い換えれば、債権国が債務国と同じように安定と繁栄を脅かすという認識にある。
では、各国の勘定残高を限りなくゼロに近づけ、その状態を維持させるにはどうしたらよいのか。ケインズはすばらしく巧みな方法を考え出した。 ICUは新通貨バンコールを発行する中央銀行として、各国に当座貸越枠を設定する。市中銀行と個人顧客との関係と全く同じだ。当座貸越の限度額は、過去5年間の貿易額平均の2分の1とする。限度額を超えた場合、超えた分に対して利子を支払う。このように、債務国は赤字分に対してペナルティーを科せられるが、ここで実に独創的なのは、債権国、つまり国際収支勘定が黒字の国も、超過分に対して利子を払うことだ。赤字額または黒字額が大きくなるほど利子は高くなる。
更に、赤字国は、輸出を伸ばすために平価を切り下げ、輸出品の価格を下げることを義務づけられる。黒字国は、その逆で、輸出を抑えるために平価を切り上げ、輸出品の価格を上げる。黒字国が輸出超過を改めない場合は、当座貸越の限度額を超えた分をICUが没収し、準備金に組み込む。ケインズは、この資金を国際警察部隊や災害時の救助活動など、全加盟国にとって有益な活動に用いることを考えた。
よくできた仕組みである。利子を払ったり、更には利益を没収されたりするのを避けるために、黒字国は、こぞって赤字国からの輸入を増やすだろう。赤字国の側では輸出が増え、貿易収支が改善に向かう。誰もが得をする仕組みなのだ。これが実現されていれば、国際貿易は拡大し、労働者の生活も保障され、より多くの富がより公平に分配され、国際関係はより平和になり、途上国の発展に向けられる資金も増えていたはずだ。そして、途上国の債務が現在のように膨れ上がることもなかっただろう。
しかし、ケインズのこの構想は実現せず、彼が想像したような戦後世界は日の目を見なかった。そして世銀とIMFが推進した構造改革政策が、恐るべき事態を生み出してきた。途上国の膨大な債務は完済不可能だ。諸々の政策を決めているのは、民主的に選ばれた諸国の政府ではなく、ウォール・ストリートである(それに対してアルゼンチンなどの国がついに反旗を翻した)。最貧国は世界貿易の恩恵を受けていない。富める者は豊かになるほどにエゴイズムを膨張させている。
WTOとそのルールがすでに存在する今、どうすれば均衡の取れた貿易が実現できるのだろうか。ジョージ・モンビオによれば、途上国は世界の金融システムに対して、26兆ドルの債務をいわば核の脅威のように突き付けて、ITOの創設を迫ることができる。あるいは途上国が、当初案よりは小規模な、独自の清算同盟を創設することもできるだろう。ラテンアメリカが先陣を切ってもよいのではないか。たとえばフランスなどで、新政権が発足した際に、このような構想を政策に組み入れるのも一案だ。それほど突飛なことではないだろう。いずれにせよ、仕組みについての細かい議論をする前に、頭に入れておくべきことがある。貿易システムの新たな骨組みを改めて考え出す必要はない。それはケインズが、とっくの昔に済ませているのだから。
(1) George Monbiot, The Age of Consent, Flamingo, London, 2003 では、世銀とIMFの構想を先頭に立って推進したのがケインズだったという通説に反論が加えられている。モンビオはまた、歴史学者の著作 Armand Van Dormael, Bretton Woods : Birth of a Monetary System, Palgrave Macmillan, London, 1978 に依拠して、ケインズがアメリカから一定の譲歩を得ることに成功しつつも、IMFが返済不可能な債務を作り出すだろうと予想していたことについても述べている。ケインズは結局アメリカ案を呑んだが、それは、ルールのない組織よりはルールのある組織の方がよいと考えたからであって、彼は創設された機関に満足はしていなかった。
(2) この会議の名称に注目したい。WTOは雇用問題に関心を向けることをはっきりと拒否してきたからだ。
(3) この時の経緯は以下の著作に詳述されている。Susan Ariel Aaronson, Trade and the American Dream : A Social History of Power Trade Policy, University Press of Kentucky, Lexington, 1996.
(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2007年1月号)