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(回答先: 地球温暖化に加担する原子力発電<藤井石根>(ちきゅう座) 投稿者 クマのプーさん 日時 2008 年 6 月 04 日 20:46:00)
http://chikyuza.net/modules/news1/article.php?storyid=349
内外知性の眼―時代の流れを読む
<08.04.18>暴かれた原子炉発電安全神話の実態<藤井石根>
<ふじいいわね:明治大学名誉教授(機械工学)>
顧みるに原子力発電(以下原発と略称)に対する安全神話ほど好い加減なものは無かった。元来、「人のおこなうことに絶対などと言えるものは存在し得ないし、万が一にしろチェルノブイリ原発事故のような惨事に遭う可能性がある以上、その利用は極力抑えた方が結果的には得策である。」との主張を筆者は機会がある度に繰り返してきた。かかる主張に対して受けた反論は少なからず原発の安全神話であったし、「背に腹は代えられない」式の意見であった。無論、この神話が醸成された背景には人の驕りと技術に対する過信、それに自然に対する敬虔の念の希薄さがあるが、この神話があったが故に他方で気の緩みを生じさせ杜撰な行為や責任感の欠落などを助長させてきた。
一見、自身満々に語られてきたこの安全神話も茨城県東海村で生じた彼のJOC臨界事故(1999年9月30日)を皮切りに日本でも次第に綻びが見えはじめてきた。それまでは史上最悪の惨事、チェルノブイリ原発事故に対してでさえ、あの原子炉は日本のものに比べて安全性が劣り技術者のレベルも低いので、両者の点で優れている日本では到底、起り得ないことと説明されていた。しかし炉心溶解事故に直結するような2004年の美浜原発三号炉の事故などで遂に死者や多数の被爆者を出す事態に及んで完全に安全神話は通用しなくなった。と言うのも実状は1999年6月に定期検査中の志賀原発一号炉で3本の制御棒が脱落、原子炉圧力容器の蓋がない状態でその3本の制御棒を手動で入れ直した。その間の15分もの間、炉は臨界状態にあったという。幸運にも大参事に至らずに事が済んだが、この事故の発覚は社員の内部告発によるものであった。もしこれが無かったら永久に闇に葬られる公算が高かった。その後もこうした隠蔽やデータの改竄、偽装などの不正が東京電力や東北電力等の会社でも行われていたことが次々に明らかにされた。東京電力・福島原発一号炉でも志賀原発と同様に1978年に制御棒の脱落で事故を起こしていたし、東北電力・女川原発一号炉(1988年)や中部電力・浜岡原発三号炉(1991年)でも制御棒の脱落事故があった。原発の暴走・爆発に直接つながるこうした多くの制御棒脱落事故の存在は炉そのものの欠陥に起因する公算が極めて高くロシアの原発云々を言えた義理ではない。その他にも関西電力・敦賀原発二号炉の格納容器空気漏れ事故の隠蔽(1997年)や同原発一号炉の緊急炉心冷却装置に使う復水貯蔵タンクの腐食減肉(基準値の半分以下)の放置(1995年から4年半)なども明らかになりその数、公表されただけでも12原発で97項目にも及んでいる。こんな状況下の業界の体質では大参事が何時、起っても決しておかしくなく、よくも国、監督官庁、業界それに推進に関与した学者らが一体となって「絶対に安全」などと国民を欺いてきたものである。
設計寿命を間もなく迎える原発を故意にその寿命を延長して稼働させている炉も含めると現在、55基もの原発が日本に存在している。地震列島にこれだけの数を設置している以上、当然、地震に対する配慮が十分になされているものと思いきや、その杜撰な実態もこの度の新潟県中越沖地震による東京電力・柏崎刈羽原発の被災を皮切りにここでも明らかになってきた。この原発の設計で採用された耐震設計基準加速度は450ガルであったが、この度、記録した加速度は680ガルで想定外のものであったと弁明している。しかし当該地は日本海東縁変動帯の中でも地殻活動度が高い羽越―信越褶曲帯の真っ只中にあり、活断層の多い地域であることを知っていながら十分な海底活断層の調査を怠り危険性に対する過小評価を行うと共に真下にある活断層の存在を見落としていた。本来ならば不確実要素が存在する際の設計に対しては「安全係数」なるものの考え方を導入して余裕を持たせた設計をするのが普通で「想定外」などと称して責任を回避し得るものではない。ここでも当該地に原発の設置を優先する余り、隠蔽の感情が働いたことは否定できない。しかも島根原発での活断層の見逃しもあった。こうした状況にありながら幸いにも大参事に至らずに事が済んでいるのは、過去約40年間というもの日本列島の地震活動は静穏期であっただけのことである。このことが逆に災いして地震を甘く見る体質が国、業界、一部の学者らに染み付き、これに歪んだ経済感覚が加担して無責任体質を助長させてきた。論より証拠、かの島根原発の活断層見逃しと安全審査ミスも未だに放置されてままで、しかもかかる審査に参加して活断層の過小評価に大きな役割を果たした専門家も未だに原子力安全・保安院の要職にある。最も危険視されている中部電力・浜岡原発に対してでさえその稼働を黙認し続けている。
こうした現状から判断して将来のいつの日か、たとえ大きな災害に見舞われても誰も責任を取らないだろうし、取れないだろう。いま我々、一人ひとりにとって必要なことは今日、明日の潤沢なエネルギーを手にするためにこの現状を黙認し、事が起ったときの覚悟をするのか、それとも多少の忍耐を覚悟の上で新しい別の途をとるのか、その選択をすることであろう。いずれにしろ廃止も含めて原子力政策を抜本的に改革させない限り我々国民の安全は全く保障されないことだけは確かである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye323:080418〕
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