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「ヒロシマ・ナガサキ」 スティーヴン・オカザキ監督語る
西山聡2007/11/20
この夏、全米規模のケーブルテレビ放映と、日本での岩波ホールでの上映で大きな反響を呼んだ「ヒロシマ・ナガサキ」。姉妹作の短編「マッシュルーム・クラブ」(※)との同時上映(東京・ポレポレ東中野)にあわせてスティーヴン・オカザキ監督(日系3世)が来日、11月16日に会場で思いを語った(※ この題は、原爆小頭症患者とその家族の会「きのこ会」からとられている・ヒロシマ平和映画祭2005出品作品)。
ヒロシマ・ナガサキ オカザキ監督トーク(24分42秒)
観客に語りかけるスティーヴン・オカザキ監督(左)=東京・中野で11月16日、筆者撮影
「ヒロシマ」に出会って、私は人生が変わった
「ヒロシマ・ナガサキ」は多くの人に観てもらおうとつくった作品ですが、「マッシュルーム・クラブ」はよりパーソナルなものです。私自身と「ヒロシマ」の関わり、25年間の集大成として、まず「マッシュルーム・クラブ」をつくりました。
私が広島を初めて訪れたのは1981年です。平和運動家や被爆者に出会い、とくにその魂に触れたことで、私は人生が変わりました。その後、毎年のように広島を訪れていますが、平和資料館の存在や被爆者のみなさんの記憶は、年々、日本社会の中でその存在を小さくしているような気がしてなりません。
95年に私は、長編のドキュメンタリー映画をつくろうと思いました。しかしその計画は頓挫しました。被爆60周年の2005年にはどうしても作品を世に出さねば、と思い、低予算でパーソナルにつくったのが「マッシュルーム・クラブ」です。ロケはわずかに2日間、ジャーナリストが本業の私の妻が休暇につきあってマイクを持って撮影した、いわば手づくりの作品で、制作期間も8週間です。
幸運だったのは、佐伯敏子さんが長年にわたって拾い集めてきた被爆ボタンのコレクションを撮影できたことです。コレクションはその後、ある日本のジャーナリストに貸したまま戻ってきておらず、高齢の佐伯さんは貸出先を思い出すことができません。また、「マッシュルーム・クラブ」で、知的障害を持つ原爆小頭症の娘さんの面倒を看ていた畠中さんは、今は年老いて理髪店をたたみ、娘さんの面倒はお姉さんが看ています。
原爆投下は、アメリカにとって生々しい「今」の問題
「マッシュルーム・クラブ」がテレビ放映され、アカデミー賞短編ドキュメンタリー部門にノミネートされたことで「ヒロシマ・ナガサキ」をつくる途が開けました。アメリカには原爆投下をめぐって賛否の意見がわかれますが、圧倒的に大多数の人々は何がおきたのかも知らないのです。まず、知って欲しい、その想いから長編「ヒロシマ・ナガサキ」をつくりました。
ニューヨーク、ロサンジェルス、シカゴ、ヒューストン、国連で上映会が開かれ、そして有料ケーブルテレビネットワーク・HBOで「ヒロシマ・ナガサキ」は上映されました。原爆投下について賛否両論の議論が再燃するかと思いましたが、原爆投下に多くの人々の関心を呼んだのが上映の成果です。それは「9.11」以後だからで、アメリカが今、イラク戦争を戦っているからでしょう。多くの人々は、まさしく今の問題として「ヒロシマ・ナガサキ」を受け止めたのです。
「ヒロシマ・ナガサキ」は、私が、意識して設定したテーマにもとづいて撮った作品ではありません。出会いがあり、つづいた縁があって出来たものでした。私自身、まさか出来るとは思っていなかった作品でした。全米ネットのケーブルテレビ・HBOから電話がかかってきた時は、正直、驚きました。
1995年から原爆投下や被爆の問題を撮り続けてきました。時にはこの、重いテーマから「離れたい」と思うこともありました。しかしテーマの方が、私を捕らえて離さなかったのです。しかし、このテーマを撮ることで、私はよりよく成長できました。世間や人を見る目を養えたのです。
「マッシュルーム・クラブ」のあとで「ヒロシマ・ナガサキ」を撮れたことに、私は大変に満足しています。完成の後には、このテーマから離れようかとも思いました。しかし全米放映の後「やはり、できなかった部分が残っているのでは」と思い始めています。つまりテーマが大きすぎるのです。私はもしかしたら、また、このテーマについて撮るかもしれません。
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マッシュルーム・クラブ:公式サイト
ヒロシマ・ナガサキ:公式サイト
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