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エリツィン前大統領死去のニュースを見ながら、
広瀬隆氏の著作の或る一節を思ひ出しました。
この本は、ソ連崩壊前の1988年に書かれた本
です。エリツィンは、ソ連共産党政治局員候補だ
ったこの時期に、失脚した事が有りました。その
失脚には、この年の5月4日に、エリツィンが訪
問した西ドイツ(当時)のハンブルグで行なった
或る発言が関係して居たのではないか?と言ふ広
瀬氏の指摘です。皆さんは、広瀬氏の以下の指摘
をどうお考えになるでしょうか?
−−−ボリス・エリツィン。彼の名前を知ったのは、
ペレストロイカをめぐる話題の中ではありま
せん。1986年5月5日にAPやUPIな
どの大通信社があるニュースを配信し、日本
の複数の新聞が掲載しました。5月5日とい
えばチェルノブイリの爆発事故から九日後に
なります。
その短い記事の内容はこうです。エリツィ
ン・ソ連共産党政治局員候補が西ドイツのハ
ンブルグを訪問し、チェルノブイリ原発事故
についてコメントしました。彼はチェルノブ
イリ周辺の信じられない被曝量を具体的に話
したのです。
それによると被曝量は一時間当たり150
レントゲン。
致死量は600レントゲンですから、わず
か4時間いるだけで全員が死亡し、一時間い
るだけで20%近くの人が一ヵ月以内に死亡
するというおそるべきレベルです。この数字
は5月4日の時点、チェルノブイリ爆発から
八日後のものでした。八日後もまだそのよう
な状態であるということは、避難した住民の
ほとんどは生存の可能性がない、と推定でき
ます。このようにきわめて衝撃的な情報をも
たらしたのが、クレムリンの幹部であるエリ
ツィンでした。
ソ連当局者がチェルノブイリの危険な状況、
真実と思われる情報を語った唯一の報道と言
っていい。第3章で、私がこの事故による急
性症の死者は、単に万単位にのぼるだろうと
述べたのは、エリツィンのコメントを根拠の
ひとつにしていたのです。
そのエリツィンが失脚したのは、ゴルバチ
ョフ批判のためだけでなく、チェルノブイリ
に関する彼の考え方も、大きな要因だったの
ではないか。エリツィンは非常に正直に西側
へ情報を流したのですから、危機意識もかな
りあったでしょう。現在、ソ連経済で一番大
きな問題はやはりチェルノブイリの影響だと
思う。それまでのソ連の苦しい経済状態にだ
めを押すような形でチェルノブイリの爆発が
起こった。ソ連経済の最大の課題であるはず
です。クレムリンでも議論が沸騰しているで
しょう。
その証拠もあります。87年12月上旬に
米ソ首脳会談(ワシントン)が開かれ、IN
F(中距離核戦力)全廃交渉が中心的課題に
なりました。ゴルバチョフが初めてアメリカ
を訪れ、INFを全廃する合意がなされて歴
史的な調印式も行なわれた。
その解釈はさておき、12月10日付ワシ
ントン発UPIが、次のような興味深い記事
を配信している。「ジョージ・ブッシュ副大
統領主催の晩餐会で、ゴルバチョフ書記長は、
INF全廃交渉を含む軍縮交渉の非常に大き
な動因として、チェルノブイリの事故があっ
たということを示唆した」
エリツィンの失脚と絡むようなソ連の状況
を、やはりゴルバチョフ自身は認識しており、
それをアメリカで「示唆」したわけです。示
唆ですからはっきりとは言わなかったようで
すが、UPI記者はそう解釈した。INF交
渉の裏にはソ連経済の非常に苦しい状況があ
るのです。−−
(広瀬隆『ジキル博士のハイドを探せ』
ダイヤモンド社1988年110〜111
ページより)
あの時、エリツィンは、ハンブルグで、
ただ単に 口をすべらしたのでしょうか?・・・
核時代62年(平成19年)4月26日(木)
チェルノブイリ原発事故から21年目の日に
西岡昌紀
http://blogs.yahoo.co.jp/nishiokamasanori/
http://nishiokamasanori.cocolog-nifty.com/blog/
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