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(回答先: 生徒を能力別に分けて教える事に対して皆さんはどう思われますか? 投稿者 ワヤクチャ 日時 2008 年 3 月 15 日 12:27:09)
一斉授業も習熟度別でも弊害が在るとすると、どうすればよいのか、というと・・
要は教育の目的を主権者〜権力者〜教師〜親および子供たちがしっかり捉えなおすということだ。教育を受けるのは子供の権利なのだ。教育の目的は、親の見栄のためでも、教師の給料のためでも、権力者が「期待される国民像」の枠にはめるためでもない。
それを徹底するなら、一斉授業のもとで、一定レベルに達しなければ留年させる。教師は子供が留年しなくてもよいように、「底上げ」のための補習でも何でもする。教育行政は、教師が補習なり何なりのフレキシブルな処置ができるような時間的余裕・精神的余裕を教員に保障する。
> 日本の小学校でも留年があった方がいいのになあ、とつくづく思うことがある。わからないまま次の学年に進み、塾で補習するなんて、ほんとに無駄だもの。しかもわからないまま大学まで来てしまうから、大学でも補習しなくちゃならないのが実情だ。
> わかっていようがいまいが、横並びに同じ年齢で同じ学年に進級することを重視するか。
>本人が生きていくために必要な知識やスキルをどれだけ自分のものとしたかという絶対値を重視するか。
>フィンランドでは、わからないまま進級する方が恥、と落第して留年することをいとわない。そうやって、きちんとわかるようになってから進級すれば、同じ学年の学力を比べたときに高くなるのは当然じゃないだろうか。
* それと・・。日本では中学までは平等平等と言ってきながら、高校受験で能力別(親の収入別?)で選別しちゃうんだよね。高校単位での「学力低下をよぶ習熟度別学習」がすでに現実化している、ということだ。
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http://emy.tea-nifty.com/book/2007/09/post_f09b.html
2007.09.28
受けてみたフィンランドの教育
『受けてみたフィンランドの教育』
実川真由・実川元子著、文藝春秋。
新聞を開いたら、ある教育雑誌の広告に「学力世界一の勉強法を家庭で実践 フィンランド式勉強法でパワーアップ」なんていう文字が目に入った。そんな記事が作られるくらい、今、フィンランドの教育には注目が集まっている。なんといっても国際的な学習到達度調査で世界一という国。「フィンランド式勉強法」なんてのがあれば、まっさきに飛びつきたくなるのが日本人。
でも、フィンランドの教育の強みは、小手先の「勉強法」というより、社会と教育のあり方、国が教育というものをどう考えるかという根本のところのスタンスにあるんじゃないのかなあ・・・と思ってしまったのは、ちょうどこの本を読んだところだったから。
今、まさに話題のフィンランドの高校への留学の記録。真由さんの留学体験記に元子さんの現地取材による丁寧な解説がつく。高校生が体験した異文化のみずみずしい記録であると同時に、親の世代(子どもを留学させたいと思っているかどうかに関わらず)に向けて、今の学校教育を考えさせる提言の書でもある。
私は、留学体験記の部分は、ほんとうにうらやましいなあと思いつつ読んだ。高校時代、同じ学年に交換留学でオーストラリアやイギリスに留学した子がいたけれど、「私も」とはついぞ思わなかった。英語が大の苦手で、「英語コンプレックス」が深かったからだ。言葉の通じない国の学校に行くのなんて怖かった。
今は、気軽に短期留学などができる時代になったし、親の都合で海外で暮らしたという人も多いけれど、高校生が自分の意思で行き先を選んで留学を決め、チャンスをものにするというのはなかなかのもの。さらに、英語とは語彙も文法もまったく違うフィンランド語も積極的に学んで身につけていく、その向学心、ポジティブな姿勢がまぶしい。でもはじめからすんなりと溶け込めたわけではなかったというのはやや意外だった。フィンランドの高校は単位制で日本の高校でいうホームルームのようなクラスがなく、高校は「勉強をするために来るところ」なので、授業が終わればさっさと帰ってしまう。それにフィンランド人独特の「はにかみ」があり、こぞって留学生を構ってあげなきゃという雰囲気には遠かったらしい。
次第に友だちもできるけれど、そのきっかけはシャーペン回しだったり、音楽だったり、さらにメールを活用して語彙を増やしたりするところはまさに現代の高校生。高校時代に日本とまったく異なる環境で暮らすというのは、多少勉強が遅れたとしたって得るものは大きい。こういう体験をできるってやっぱりうらやましい。
ところで、留学記といっても留学の始まりから終わりまでを並べた日記のようなものではなく、ここでは「教育」にテーマを絞り、ほぼ時系列に従ってはいるが、特定の話題ごとの章立てをして、フィンランドの教育をいろいろな角度から眺める形をとっている。
今の日本では、教育をどうしたらいいかという議論が盛んだけれど、それに対する処方箋がまたお粗末。「ゆとり」がダメなら「詰め込み」に戻れとか、「家庭教育の充実」が叫ばれたり、なんか、場当たり的である。ゆとりvs.詰め込みのような二者択一じゃなく、もうちょっと教育の根幹に関わるところから考える必要があると思う。
そこで、この本を読みながら、つらつら考えたことを書いてみたい。
1,個人の生き方にフレキシブルな社会
日本では何でも横並びであることをよしとする。とりわけ、同じ年齢で同じ学年で進んでいくこと、切れ目なく学歴を進み、その中で序列だてされ、そのまま職業にまでベルトコンベアに載るようにして同年齢集団が進むことが大前提。年齢と学年の関係、学校を終えてから就労までのコースをもっとフレキシブルに、多様にしていいと思う。
高校生で留学というと、圧倒的に女子学生の方が多いという。その理由は男の子は「受験に差し支えるから」というのだけれど、考えさせられてしまう。大学の受験浪人だって、マイナスにばかり考える必要ないのになあ。
前首相の招集した教育再生会議はたいした仕事をしたと思えないが、中嶋嶺雄氏の強い提言で、大学の入学時期は「各大学の裁量に任せる」という文科省答申が出たことは画期的だ。4月でなくちゃ足並みが揃わない、9月にしないと国際化できないという二者択一のような押し問答から、一歩前進したことになる。
横並びじゃなくていい、同じ年齢で同じ学年でなくてもいい、高校を終えて、すぐに大学に行かなくてもいい、大学を出てすぐに就職しなくてもいい。いつも追われるように勉強して進学するから、なんで大学に行くのかわからないまま大学に入ってくる学生が大量生産されてしまうのだ。一歩立ち止まって、考える時間があっていい。
2、勉強することの目的と留年に対する考え方。
フィンランドの学校ではごくあたりまえに留年がある。これは、勉強することの目的をどう理解しているかということと深く関わっている。
日本の小学校でも留年があった方がいいのになあ、とつくづく思うことがある。わからないまま次の学年に進み、塾で補習するなんて、ほんとに無駄だもの。しかもわからないまま大学まで来てしまうから、大学でも補習しなくちゃならないのが実情だ。
わかっていようがいまいが、横並びに同じ年齢で同じ学年に進級することを重視するか。
本人が生きていくために必要な知識やスキルをどれだけ自分のものとしたかという絶対値を重視するか。
フィンランドでは、わからないまま進級する方が恥、と落第して留年することをいとわない。そうやって、きちんとわかるようになってから進級すれば、同じ学年の学力を比べたときに高くなるのは当然じゃないだろうか。
佐藤真知子さんの「号令のない学校」という本によると、オーストラリアの学校でも留年がある。「日本では義務教育では留年はない」というと、「なんと不親切な」と返されたそうだ。ただ、オーストラリアの場合は、学校が一方的に留年を宣告するのではなく、「留年した方がお子さんのためですよ」と親への打診があるらしい。そして、親は留年させるのを了承することもあるし、それを拒否する権利もあるという。低学年では留年させるのを躊躇する親が多いが、高校くらいだと、絶対留年させる方を選ぶとか。
留年をいとわないことの背景には、高税率高福祉の北欧型福祉社会で、余分な学費負担がないということもあるかもしれないが、日本との最大の違いは「学校は学ぶための場所」という認識が社会の合意事項となっていることにあるだろう。学校教育の中で、掃除や給食の配膳といった生活指導やら、運動会や文化祭といった学科の勉強以外の部分をたくさん盛り込んだ日本の学校にもそれなりにいいところはあると思う。たしかに、低学年なら勉強なんかしなくても学校に行けばいいってところもある。ただ、それが「勉強はまったくするつもりはなくて、最初から、レジャーランドのつもり」で大学に来る学生を生んでいるのだとすると困るのだけど。
3.科目は単位制、試験はエッセイ
カリキュラムで全員が同じ科目を習うというシステムではなく、選択した科目に単位が与えられるという単位制。教育内容は読み、考え、書くことを重視しており、期末試験も「エッセイ」が主だ。何かを暗記し、その暗記内容をテストするのではなく、ある課題について自分で考えをまとめて文章で表現するというもの。ニュージーランドの高校も似たような感じで、試験ではやたらにエッセイをたくさん書かされたと聞いている。日本の学校のテストが暗記して穴埋めや選択式で答えさせるという形をとっているのとは対照的だ。
日本では、試験対策に暗記ばかりさせているのだから、書く力をつけるのは難しい。自分で問題を見つけ出したり、考えたりというのもとても苦手だ。だいたい、大学の入学試験でさえ、マークシートで択一試験が全盛なのだから、いきなり、大学に来て「レポート試験」というのも考えてみれば無理なのである。教師としては、「今の学生は書けない」と嘆くばかりではなく、だからこそ書かせるようにし向けるような、書く課題を含むような教育方法を繰り返すしかないのだろうと思う。
4.語学教育
フィンランドの公用語がフィンランド語だけではない。これはけっこうびっくりした。ラップランドにサーミ人がいることは知っていたけれど、スウェーデン語を母語とする人もいて、フィンランド語と並んでスウェーデン語も公用語だということ。さらに英語が準公用語的に使われていて、早くから英語になじんでいること。
資源の少ない小国だから教育立国しなくてはならない(ルクセンブルグなどもそうだと聞く)というだけでなく、言葉の教育に対する考え方が日本とはずいぶん違う。このごろは日本の小学校でも正課ではないけれど、英語が取り入れられるようになってきたけれど、どうせやるならきちんとシステムを作ってやるべきだと思う。
5.信頼して手放すこと
これは、親としての心構え。初めの方に、上の娘さんのチリのホームステイ先のホストマザーが「心の底から大絶賛」してくれたことから、この「心の底から大絶賛」で子どもは自信がつくという話が出てくる。親の目から見ると子どもは不完全なところばかり。どうしても細かいところに注文をつけたくなる。でもそれは時として逆効果。
親の目には頼りない子どもを子どもを遠くの地に留学させるということは心配なことだけれども、そこでまちまと気を揉んで口出しするよりも信頼することがなによりも子どもを成長させ、親も成長するということ。なかなか子離れできない親には肝に銘じたい言葉だ。
最後に。
日本という枠組みの中だけで子どもの教育を考えていると、どうしてもいかにいい成績をあげて、いい学校に入れて、そのために塾に行かせて、というパターンに陥ってしまう。オルタナティブが見えてこないのだ。
だから、この本は留学したいとか、子どもを留学させたいと考えているちょっとエリート志向の人(やっぱ、そうだよね?)だけじゃなく、今の学校のシステムにちょっとついていけなかったり、今の教育をなんとかしなくちゃと思っている人にも読んでもらいたいと思う。