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(回答先: 仁王像さんが左翼に騙されていると 投稿者 忍 日時 2008 年 2 月 09 日 19:57:09)
反論として、悪魔毛沢東の記念展示会を行うのか。
中国がチベット侵略して何をしたのか
●チベットの場所での中国の文化大革命(地湧社発行 ジョン・F・アベドン著『雪の国からの亡命ーチベットとダライ・ラマー半世紀の証言』の中の第10章の「長い夜」から)
1968年の1月には、嘗てない大規模な戦闘の勃発を見た。ラサだけでも死者の数は何百人にも達し、町は停電になった。ヤプシー邸に総司令部を置いた造反派は、ポタラ宮殿の正面のチベット自治区人民政府に本部を置いていた大連合を、ラサ郊外の中国人居住地に逃亡させる事に成功した。しかし月末迄に、チベットに於いては輸送も建設もコミュニーケーションも全てが停止し、1967年の2月より揉め事の絶えて無かった軍隊でも、遂に乱れを見せ始めた。部隊が丸ごと自動小銃や手流弾を持って、どちらかの派閥に加わったと報じられたのである。こうした武器は、死者の数を一挙に押し上げた。軍の忠誠を明らかにする事が不可能になると同時に、チベットの中国人社会の各部署で、毛沢東派と劉小奇派の間のはっきりとした区別が問題となった。こうして、大連合が造反派の形容として使っていた「大いなる錯乱」は、誰に対しても難なく投げつけられる様になった。全占領軍を統括する任にあった将校陳明義は、国境上の部署を安定させようと必死になって努力したものの、大した成果は上げられなかった。其れと同時に、ダプチ刑務所の東方、チャロンにある配給システムはたちどころに崩れ、最悪の状態が起こった。1963年に飢饉が終わって以来何とか保たれて来た生活水準は崩壊し、又しても飢饉が到来した。此の時の飢饉はまる5年、1973年まで続いた。隔絶した土地柄の為、チベット人は其の後も尚(1980年迄)飢餓に苦しめられる事になった。
文化大革命が始まって2年が過ぎた1968年9月5日、チベットに於いて遂に革命委員会が結成された。チベットは新疆ウイグル自治区(革命委員会の成立宣言は両自治区とも同日に行なわれていた)と共に、公式に北京の支配下に組み入れられた中国29の省や自治区の最後のものになった。とはいえ、両派とも武装解除されつつ、尚も戦いを続けていた。委員会は、急進派と秩序を維持する任を負った軍当局者が中国の首都で交わした一種の協定の産物と言えた。極左を満足させる為に、チベット軍区の副司令で林彪と密接に繋がっている會雍雅が、革命委員会主任に任命された。又、1967年2月の「2月逆流」に於いて果たした役割故に、熱烈な毛沢東主義者から信用される事の無い任栄は、第一副主任と云う、高いが副次的な地位を宛われた。張国華の後継者として、一時期チベットを支配した陳明義は、其れより更に低い地位を与えられ、完全に権力の外に置かれた。新たなチベット人協力者の一団が登用され(んガプー・んガワン・ジグメの名前を除けば馴染みのある名前は無かった)、より低い水準(レベル)である管区委員会の設立と云う仕事が始まった。1968年7月に毛沢東が軍に対して、様々なグループを解散させ、其のメンバーを農村に下放する権限を与えたのに伴い、中華人民共和国の他の地域では武力衝突は無くなっていた。しかしチベットでは、此れは1969年4月の9全大会迄持ち越された。77の県、都市、地区水準(レベル)の革命委員会の中で其れ迄に成立していたのは6つしか無かったと云う事実は、チベット自治区が相も変わらず不安定な状態にあった事を良く示している。革命委員会の設立が公式に宣言されて1年半が過ぎた12月なっても、ラサ放送が「走資派」について触れていたと云う事実は、チベットに於ける内戦が如何に根深いものであったかを明らかにしている。
チベットに於ける政治闘争が如何に激烈であったとしても、其れに加わっていたのは主に中国人であった。しかし、其れによって引き起こされた艱苦を堪え忍んだのはチベット人達であった。死に追いやられたり、逮捕されたり拷問されたりした中国人の数は数千に達しているが、チベット人の死者はーー事故によるものや投獄中の者を含めてーー何万にも達している。極端な残虐行為を受けた者の数に至っては何百万にも上るであろう。もっと悪い事に、文化の継承の面から云えば、チベット文化は、もしインドに逃れているチベット難民がいなければ、最後の一撃とでも呼んだ方がいいような一大被害を被る事になった。チベットのものは一つも残らず破壊された。何もかも中国式に、共産党式にしなければならなかった。宗教の実践は法律で禁じられた。民衆の祭りや市も、伝統的な踊りや民謡も、香(サン)を焚く事も御法度だった。要するにチベットの全ての芸術形式、習慣は禁止されたのである。ラサのパルコルの近くのトムスィカンに大規模な野外展示場が設立され、こうした禁制品を持っている者は、直ぐ様労働委員会や、激動の時代に再建されていた「決起粉砕事務所」へ送る様にとの通達が記された幟が掲げられた。其の下には、実際に禁制品となった宗教用具や装身具が展示された。チベット中で、良からぬ階級に分類されていた(が、未だ投獄されていなかった)チベット人達が、紙の三角帽を被らせて通りに引きずり出され、行進させられた。紅衛兵が太鼓やシンパやどらを打ち鳴らしながら行列の先頭に立って先導し、罪状を記した札を裸の胸にピンで止められた犠牲者は、皆から殴られ、唾を吐き掛けられた[中国には、太鼓やシンパやどらを打ち鳴らしながら残虐な事をする前例がある。其の内容は、例えば秦の焚書坑儒である。内容は、秦の始皇帝が、医薬等の実用書を除き、あらゆる書物を焼き捨てて、更に儒家400人以上を生き埋めにし、其の上を儒家の家族等に踏み固めさせたのである。其の時に太鼓等を打ち鳴らしたと云う。又、悪魔の子供の生贄儀式に於いて、子供が火を押し付けられたりした苦痛で泣き叫ぶのを覆い隠す為に、太鼓等を打ち鳴らすのである。そして良心を麻痺させるのである!忍]。ラマ僧は重い仏像を背中に括り付けられてくの字になり、元貴族や商人は、嘗ては穀物を保存するのに用いられていなかった空っぽの壺を括り付けられた。以前は一日に3時間から6時間しか用いられていなかった拡声器も、今や四六時中ひっきり無しにプロパガンダの歌や毛沢東を称える文句が流される様になった。其の甲高い金切り声は通りと云う通りに、更には、全家庭の中に迄浸透していった。
こうした引き回しの合間にも、紅衛兵の各分派は競って、僅かに残されたチベット文化の徹底破壊に励んでいた。残っていた数少ない祈祷旗は引きずり下ろされ、代わりに紅旗が掲げられた。谷間や尾根を飾る佛塔の列、町の手前に積み上げられたマニ石の山、白く塗った岩の上に刻み込まれた真言の文字と云ったチベットの宗教的風物は壊され、代わりに毛沢東の巨大なスローガンが掲げられた。窓の周囲を縁どる様に描か
れた黒い枠も、多くの部屋の内部を彩る色鮮やかな縞も、削り落とされるか上から塗り潰されるかした。カ
ムやアムドでは、家の二階は「ブルジョワ的贅沢」とされ、住民は二階を壊して、一階の窓も無い湿った馬
小屋に住まなくてはならなかった。男女共に結う習慣のあった三つ編みは、「奴隷の不潔な黒いしっぽ」と
呼ばれ、自ら切り落とさなければ、此処其処に徘徊している紅衛兵によって髪をめった切りにされた。又
「反動」である印に、頭を半分剃り上げられた者もあった。
1967年3月迄に、「毛主席万歳!」と云う合い言葉(スローガン)が刻み込まれた赤い財布と一緒に、何万冊と云う『毛沢東語録』が配布された。チベット人達は此の『毛沢東語録』の一節一節を残らず暗記しなければならなかった。紅衛兵は夜間集会だろうが路上だろうが構わず、チベット人達をテストした。例えば道で待ち伏せをしていて、適当に選んだ犠牲者に『毛沢東語録』を淀み無く暗唱するよう要求し、其れに応じられないと暴力を振るうのである。着用出来るのは人民服のみ。腕輪、耳輪、指輪は付けてはならず、チベット人の昔ながらの挨拶の仕方(息を吸い込みながら舌先を一寸突き出す)さえも禁止された。愛玩動物は、家から家へと回って来た紅衛兵によって一匹残らず殺された。紅衛兵は更に、どの部屋にも毛沢東の肖像写真を掲げる様に要求し、壁には合い言葉(スローガン)を書き殴った。共青団のメンバーや学生と云ったチベットの青年達は、愛玩動物や虫の撲滅運動に駆り出された。此は又、殺生を禁じるチベット文化に背かせる為でもあった。チベット文字や口語のチベット語でさえもが攻撃の対象となり、「漢蔵友好語」と呼ばれる珍妙な中国語訛りに置き換えられた。此の「漢蔵友好語」と来たら、大半のチベット人には語彙も文法も殆ど理解しかねる代物であった。チベット人の多くは、特に中国人に直接雇われている者や幹部は、自分の名前を其れに相応する中国語に替える様に強制された。但し、其の名前には毛沢東の名前の中の一字が含まれていなければならない。親が毛沢東の名に因んで名付ける事を拒否した場合、其の子供は、公式には誕生日や生まれた時の体重で呼ばれる事になる。行政に携わる中国人にとっては、次代のチベット人達は文字通り数字以外の何物でもないと云う訳である。こんな愚かな考えに支配される中国人を、チベット人達はこう形容した。「滑稽な奴等と思って笑っている内に、何時の間にかこっちが泣かされている」。
大半のチベット人にとっては、文革の熱狂は滑稽極まる者で有ったとはいえ、恐ろしさと云う点では、民主改革や其れに付随した階級闘争運動を遥かに上回った。民主改革の際、罰の執行は当局が厳しく統制していたが、文革では、此は集団暴力以外の何物でも無かった。文革初期には見せしめに犠牲者をラサの町中を引き回す程度だったが、瞬く間にエスカレートして、熱いアイロンを押し当てたり、処刑したり、通りの真ん中で即席のタムジンを行ったりし始めた。チベット人は恐怖の余り何年もの間じっと家の中に閉じ籠り、敢えて外出するのは職場の行き帰りだけ、友人に出会っても知らぬふりをしなければならなかった。何せ、街角と云う街角に見張りが立っており、怪しげな挙動をする者があればたちどころに当局に報告が送られていたからである。
1966年の8月、集団強姦が始まった。ポ・タモで材木の切り出し作業に当たっていたチベット人400家族の女の子達が、紅衛兵によって裸のまま人前で引き回され、タムジンを受け、強姦された。ラサの当局に訴えがなされたが、自分達の地位が脅かされる事を恐れた官吏達は、敢えて介入しようとしなかった。1966年から67年に掛けての冬、造反派はラサの北、ナクチュカに赴いた。此処で紅衛兵達は、冬の間町に集まって来ていた夥しい数の遊牧民を服従させ、同様な残虐行為を行った。女達は裸にされ、縛られて、監視付きで凍った湖の上に立たされた。カルマ・シェラプとツェリン・ツォモの父娘は、公衆の面前で性交を強いられた。ロカでも、同じ様な乱暴狼藉が行われたーー有産階級のチベット人が麻袋の中に放り込まれ、袋の口を締めたままで何日も放置されたのである。ギャンツェの郊外のナクヤンチュ河(ツァン河の支流)では、三角帽を被らされ、足には石の重い重石を付けられた有産階級の女性や子供が、凍る様な水の中で5時間も立たされた。ツガツェでは強姦や集団殴打が度々起こった。チベット全土に自殺が流行した。多くのチベット人が(時には一家全員が)中国人の手に掛かって死ぬよりはと、崖から身を躍らせ、水の中に飛び込んだのである。ラサでは自殺の企てが日常茶飯事になり、人民解放軍の警備兵が昼となく夜となくキチュ河の川岸を警備する様になった程であった。
紅衛兵の各派閥同士の争いが激化するにつれ、残虐さの度合いも増していった。こうした残虐行為を行なったのは民間の部隊だけで無い。人民解放軍も同様だった。強姦や殴打は処刑にまで発展し、犠牲者は銃で射たれる前に墓穴を掘らされるのであった。こうした流血沙汰は、1959年の決起時に勝るとも劣らない残虐行為を引き起こした。どさくさに紛れてインドに新たに逃れて来た難民達の証言によると、手足や舌や指を切断されたり、耳や鼻を削ぎ落とされたり、睾丸や眼球を焼かれるのは日常茶飯事であった。敵対する派閥の情報を持っていると見なされた犠牲者は、尋問の為に親指の所を縛られて吊され、熱湯を掛けられた。磔刑も又同様に行われていた。1968年6月9日、ラサの旧獄舎ニェンツェシャルに面した通りに、二人の男の遺体が投げ出された。其の遺体には、手だけでなく、上半身の大関節や頭にも釘が打ち付けられた跡が残っていた。1970年に入ってからも、元僧侶の一団が公衆の面前で台座の上で立ちっぱなしにさせられ、三日連続で『毛沢東語録』を大声で読み上げる様に要求された。此を拒否した者は、其の場で人民解放軍によって射殺された。死体はそのまま通りを引きずって行かれ、道行く人々は此の死体に向かって唾を吐き掛けたり、土くれを投げ付けたりしなければならなかった。其れを拒んだ二人も又即刻処刑された(当に、神に恐れない行動である!忍)。
チベット内6、254の僧院も又、チベット人と同じ運命を辿った。しかし、紅衛兵のやり方が勝手気ままに暴虐の限りを尽くしたものであったのに対し、僧院の破壊は文革以前から慎重に進められて来た運動の結果であった。1959年より此の方、文化財保存委員会なる組織がずっと、チベット全土の僧院の美術品を夫々の価値に従って分類し、カタログを作成していた。こうした美術品は最終的には中国に送り出される事になっていた。治金技術者のチームが北京から送り込まれた。しかし此は膨大な仕事であった為、仕事は遅々として進まなかった。ラサやシガツェやギャンツェ、カムやアムドの大都市周辺の大僧院だけでも余りにも多くの美術品が存在していた為、農村部の僧院ともなると、1966年以前に徹底的な調査を受けたものは希であった。しかし、最初の造反派グループがラサで結成されて1年が過ぎた1967年の9月には、既に熱狂の内に全土に破壊運動が広がっていた。年長の紅衛兵が、夫々の美術品の処理の仕方(破壊するか保存するか)が記されたノートを手に作業を監督した。金、銀、青銅の仏像や高価な錦、古い宗教画(タンカ)等は包装されて封印された。以上の作業が終わった所で、太鼓やシンパルやトランペットが景気付けファンファーレを奏で、紅旗の下、無理矢理駆り出された地元住民が僧院の破壊に取り掛かったのである(要するに、国民に対して神・佛が宿る高貴の心に対する軽蔑の心を教育しようとしている!忍)。何千と云う仏典が威勢の良い焚き火の中に投げ込まれ、焚書の運命を逃れた仏典も、中国人商店の包み紙やトイレット・ペーパーや靴の詰め物に使われて冒涜された。版木は床板・椅子・農機具の柄に作り替えられた。塑像は挽かれて土に戻され、人々が踏む様に路上に投げ捨てられるか、肥料に混入された。残りは煉瓦に作り直され、公衆便所建設といった特殊な用途に用いられた。嘗ては祈りの最も普遍的な表現形式であったマニ石は、舗道の敷石に流用された。壁画は、丁度12世紀にインドを侵略したイスラム教徒が仏教僧院に対して行った様に、顔の部分を削ぎ落とされたり、目を刳り抜かれたりした(此のイスラム教徒は、堕天使ダビデによって動かされた。真の神は、飽く迄も10善戒を犯した人に処罰を与えるが、処刑の仕方も見せしめの刑を行わせない。そして其の当時は、イエス様、ブッダ様、モーセ様の3人は、霊界では尊敬する賢者、預言者として普及させている!忍)。寺の屋根を飾る金や青銅の相輪も又取り外され、他の金属と共に溶かされた。
略奪の限りが尽くされた後に、空っぽになった寺の中にダイナマイトが仕掛けられ、壁が爆破された。野戦用の大砲も又使用され、3年の内にチベット全土の風景は、爆撃を受けた都市にも似た痛々しい廃墟の跡に満たされる様になった。しかし、僧院の壁はそもそも非常に分厚く造られていた為、実際には跡形も無く破壊されてしまった僧院は無く、ゲルク派最大の名刹であると云う理由で徹底破壊の候補に挙げられたガンデン寺でさえもが、鬼哭啾々たる有様で立ち尽くし、嘗て此の地で何が生じたかを永遠に訴え続けていた。こうした僧院の破壊は、最も若い世代を除いたチベット人にとって理解し難い出来事であり、集団ショックを与えた。自分達が知っていた文化の終局と思わせる事態に直面して、個人の体験して来た悲劇は全て色あせた。
チベット文化に対する攻撃は当然ながら、旧チベット社会への罵倒キャンペーンを更に活気づかせた。此のキャンペーンで血祭りに挙げられた主たる二人は、ダライ・ラマとパンチェン・ラマであった。1968年12月のラサ放送は、嘗てない激しさでダライ・ラマを攻撃し、「政治的屍、盗賊、裏切り者」と呼んだ。チベット本土でも、ダライ・ラマは「人々の生肉を食らって生きて来た血塗れの手をした屠殺人であり、両手の赤い汚れを見れば其の事は一目瞭然」と非難されていた(全く逆が事実です。毛沢東の文化大革命の時に、人肉を売っていたのです。この様に、中国人は、自分が行ってきた悪行を他国の人間が行っていると逆に宣伝している、嘘偽りの国なのです。大東亜戦争の時もそうです!忍)。曰く、ダライがお経を唱える時は、人間の心臓、腕、肝臓が犠牲に捧げられていた。其の事実がチベット人に露見する事を恐れて、ダライは帰国する事が出来ない、帰国しても、過去「生肉と血」を貪って生きて来た事によって民衆に罰せられる事であろうと言うのである。夜間集会に於けるお定まりの質問は此の様な物になっていた。「反乱の黒幕は誰か?」答え「ダライである」。次の質問は「ダライは如何なる生活を送っていたか?」答え「ダライは、女や金銀を好んだ快楽主義のラマで、我が国を帝国主義者に売った」(全く逆でこれは全て毛沢東に当てはまるが、不思議にダライ・ラマは、自分の自伝に毛沢東に対して、仏教の良き理解者であると書いているのです。悪魔に魂を売ったような感じです!忍)。
徹底した中国人観(此は、共産主義者によるデマ宣伝観である!忍)による旧チベット社会像が完全に作り上げられた所で、文化大革命も終わりに近付いた頃、ポタラ宮殿の下のシュル村に革命展覧館が設立された。此は、70年代の半ばより、慎重なる選考を経てラサを訪れる事を許された外国人グループなら誰でも案内される、一種の国の出先機関であった。展覧館の最初の部屋には、「13世紀以来チベットは中国の切り離す事の出来ない一部である」と云う事を証明しているとされる文書が展示されている。こうした文書に続き、1977年ジョージ・ブッシュ(当時中国への連絡官だった)に随行してラサを3日間訪れた「ワシントン・ポスト」の記者に言わせると、「旧体制の胸の悪くなるような残虐行為の革命的描写」が続いていた。展示されていたのは、些細な罪を犯した為に罰として切断された腕や手首や足、宗教儀式の間に生きたまま剥がされたものとされる二人の少年の皮、「封建領主」が「農奴」を拷問するのに用いられたと主張される鞭やナイフや手枷といった代物である。「展示室の扉の黒いカーテンを脇に避けて中に足を踏み入れると、待ち構えているのは旧チベット社会の生地獄である」と「中国建設」は1976年の記事に述べている。此の記事は、展覧館で劇的な照明を当てられて展示されている、106体の塑像からなるジオラマを特集したものであった。テープに録音された音楽と説明付きのこのジオラマは、以下の様な題名を付けられた4つのグループに分かれていた。「封建的荘園制度ーー地上の地獄」「ラマ教僧院ーー農奴を搾取する邪な輩の巣窟」「カチャーー反動的地方政府」「解放の為に闘う農奴」。こうしたジオラマのは、雪嵐吹き荒ぶ中、「目から怒りの炎を迸らせつつ」「主人」を背負って急な崖を登る「農奴」、地主によってロバと交換される少年、馬によって死ぬまで引きずり廻されようとしている債務者を、横目で意地悪そうに眺めている僧侶の姿等があった。悲鳴を上げている子供を、犠牲の為に箱の中に閉じこめようとしているもう一人の僧侶。民衆の決起を指導したとされる一女性が、杭に括り付けられ、心臓を刳り抜かれる刑を宣告されている。最後は、「農奴」が立ち上がり自分達の主人を虐殺し、死に行く一少女が岩の上に自分の血で赤い星を殴り書きして「農奴の解放者である毛主席と共産党を熱望する」シーンで終わっていた(此処に描写された残虐者は全て共産党と毛主席に返還します。最後の言葉は、残虐者であるダビデとユダヤ・フリーメーソン・イルミナティ・マルクス共産党の各国の全部と金正日とロックフェラーとロスチャイルドとの解放者である神ミカエル大王様と次期大天使長であるレイナ・エルを熱望する)。