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(回答先: Re: 世の中で起きることは自分の鏡>一面的には正しいけれど、正解とも思えません。 投稿者 考察者K 日時 2008 年 1 月 29 日 21:51:11)
考察者Kさん、お返事ありがとうございます。
>自分の意図しない事でも決定してしまう事もありますから、自分の行いとは関係ない現象もあります。
もとより。先の文章では事象を少し単純化し過ぎ、かつ、負の側面のみを捉えたきらいがあることは認めます。
>不完全な人間の世界では「試行錯誤」の繰り返しです。
試行錯誤さえしていない人が多いというのが問題ではないかと思います。
試行錯誤しても、市場原理主義的な費用対効果を考えるだけの試行錯誤であれば、考慮の対象から最初から除外されてしまっているものがあるということであり、試行錯誤をしたと言うのにはおこがましいというものでしょう。
>【見せかけのクリーン】も確かにあるでしょうが、全てが「確信犯」ではないでしょう。
私の尊敬する上司が、「善意で動かない人はいない」と言っていたことを思い出します。
それが善意に根ざしたものであれ、本当にそれがステークホルダーにとってよい結果をもたらすのかどうかまで考慮したものでなければ、善意はなかったも等しいことになってしまうのです。善意を真に世界に循環させていくためには、個々人の精進にまかせるしかないのかどうか、、ここは一つの課題だと思います。
>必要悪という言葉もありますが、「全てに対して良好になる」という事は少ないと思われます。全ての事柄には「プラス面もあればリスクも伴っている」のでしょう。
何を重視して取捨選択するかという問題ですね。
人によって価値観が異なる以上、人によって選択が異なるのも当然と言えます。
しかし、少なくとも私が先の投稿で挙げた事象に関して言えば、見せかけでない真の美しさ、自然に近い美しさを追求しさえすれば起こり得ない現象ではないかと思うのですが・・・。もっとも、これも私の価値観に根ざした考え方であるにすぎず、人によって「真善美」の価値基準は異なるのでしょうが。
解が一つではないというのが非科学の社会のよいところであり、かつジレンマでもあるのかもしれません。
>人類の歴史は「便利さの追求」と「他人より幸福な暮らしの模索」の積み重ねではないでしょうか?
>誰でも、隣の家より「幸福を手に入れたい」のでしょう。
>人によっては「自分はともかくとして、自分の妻とか家族には幸福を与えたい」と思うでしょう。
>その幸福の基準というのは「隣の家の生活」が基本であり、絶対基準ではなく、相対基準になっています。
人類の歴史がそうであるのかどうかは勉強不足でわかりませんが、
幸福の基準が相対的であるのかどうかは人によると思います。
私などは他人は他人、自分は自分、と思って生きています。
もっとも、他人と全く比較していないかと問われれば、ウソになるのでしょうが。
>で、誰も「いじめられる側」には行きたくはないので、加害者側に回ろうとします。
>これ、人間の性(さが)でしょうが、生物の習性ではないでしょうか?
加害者になるくらいならイジメを止める側になりたい人もいると思いますよ。
>「長いものには巻かれろ」というのは保身の知恵です。
その保身が保身になっていないと私は思っています。
長いものに巻かれてきた結果が今の腐敗した日本社会そしてそれに悩まされる日本国民だと思っています。
>【大勢と一緒になって少数者を叩くことに快感を感じるからである。】というのは、そのような人もいるとは思いますが、全ての人には適用できないかもしれません。
もとより。
>ただし、弱肉強食は「生きている生命体の本能」でもあります。
>自然界の野生の中で生きる場合は「弱い物を食する」「相手の弱点を攻撃する」のは鉄則であり、甘い事を言っていたら「自分が死を迎える」でしょう。
人間以外の動物は、生きるためのみに弱肉強食を行いますが、人間の場合は他の動物にない欲望が発達してしまっている分、弱肉強食の本能に従って生きると絶滅する運命にあると思います。しかも始末に負えないのは、人間は他の動物も地球も宇宙をも自身の破滅の巻き添えにしてしまうということです。
人間は特別だというのならば、特別な分だけ注意を払って生きなければならない、しかしそれができていない。なんとも迷惑な生き物だと思います。
何を重視し、何を求めて生きることが求められているのか。
これをこそ、試行錯誤しながら生きなければならないのではないかと思います。
考察者Kさん、これからもよろしくお願いいたします。