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強きにへつらい弱きを挫くそのまんまファッショ知事の県でブロイラーがインフルエンザで大量死する事件が起きた。
我々は自由・人権・民主主義という言葉を頭で知っている。しかし、戦後日本から民主主義という言葉を取れば、役所の「守ろう人権 なくそう差別」という横断幕を取れば、後には何が残るというのだ?受験産業と過密労働だけだろう。
子供の頃にはお受験で、成人すれば職場でカンヅメ。我々も塾と電車と会社の箱の中で飼育されるブロイラーに過ぎないのではないか。親から進路を強制され、職場には自由はない。民主主義は家庭と学校と塾と職場の前で立ち止まる。
労基法は守られている職場以外は全く守られていない。ベルトコンベアー方式の労働は体調不良では自分の意思で止める事は出来ない。しかも自動車や飛行機など産業革命にはないような重量の物体を扱う必要が出てきた。したがって、我々の労働は決して中世の封建時代に比べて楽であるとは言い難いのだ。悲惨な交通事故、いくさ一つ取っても中世騎士の時代には、どれ程激しい戦闘をしてもB29も原爆も枯葉剤もクラスター爆弾も劣化ウラン弾もないのである。その意味では全てが中世より良くなった訳ではない。むしろ監獄の扱いは労基法遵守の会社に最も近いかも知れない。我々が自由を得る為には、少なくとも8時間労働が全ての職場で実現される事を勝ち取らねばならない。労基法はザル法なのである。
中世の百姓はローマ法王のキリスト教の教えに支配された。今の労働者は強制をあたかも自主的な選択でしているかのような形で支配されている。宗教裁判所はなくなり、代わりに24時間稼動する監視カメラに支配されている。もはや教会による宗教的な装いは一切捨てられ、数字と結果のみが問われる時代となった。
我々はもはやカトリックでないからと言って、異端審問官に火あぶりにされる事はないが、過労死で奇怪な死に方をする可能性は十分にある。教育も医療も全てが民間企業の利益に奉仕するように強制され、CMの中まで以前以上に企業論理が前面に出てきている時代にあって、いかに精神の自由を守るのかが問われている。この国の半分は終戦直後からずっと憲法番外地なのであるから。