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(回答先: 日さん、ありがとうございます。 投稿者 ワヤクチャ 日時 2007 年 3 月 19 日 22:34:37)
感謝します。
>神とは理想化された人間のことであり、
理想化された人間について一番よく知る者こそがこの世の統治者になる権利を与えられるかのような錯覚があると思います。
神=理想化された人間とするなら、=未来か過去の人間=現在の人間ではない、ということを暗に表現しているだけになりますね。
すると、同時存在としての人間の上位を想定した表現は消えますが、正にそこにこそ神と表現する意味があるのです。
ここにまず、「神」と言う言葉の持つ意味の根本的なすり替えが無意識に使われたかも知れません。ここを見逃して話を進めると、永久に平行線となる議論となる気がします。
人類を頂点とする根拠も無いのです。故に人の上の、未知の、高度な次元の存在を想定して置くことも妄想とは言い切れない、ということです。更に、無神と論じる神が善とは反対、つまり敵としての神でも無神と安んじていて良いのでしょうか。
何時如何なる時でも、強大な力がどんな未知の手段で来ようとも、その洗脳や圧力、強制には絶対に屈しない、ここはそうした決意の巣窟ですよね。
ならば、まずは神をも敵のひとつとして、想定して置くことは重要ではないでしょうか。闘争に油断は禁物です。
これはいるかいないか以前の、用意周到な戦略問題であると思います。
自らの中にある甘さ(見えない現実を切り捨てる無防備で呑気な観測)を排除するためにも必要な、徹底した現実の認識として。
「何故こんなに苦しみと悲しみを解決出来ない世の中がある?」と、神社仏閣を未知の想定する創造主に見立て石を投げ、勝負を挑み続けて来ました。
徹底的に逆らうと面白いことが起こります。世間の反応です。日の行動は非常識と映り、非難されるのですが、世間と決定的に違う点が発見出来るのです。
彼らと比較する覚悟の度合いです。
どんな無神論者でも、オカルトを信じない者でも、祟りや暗闇、魔物は恐れる。
だから、宗教儀式慣習には形式上逆らわない。ワヤクチャさんはどうですか?
しかし、不幸のどん底や怒りの極致にある者なら、それらを恐ろしがっている余裕などありません。
信仰や洗脳によらずとも恐れは消えるのです。
その怒りにも私憤と公憤の二通りがあり、ここは公憤の掲示板だと認識しております。
あなたの公憤が本物である事は疑っておりません。それがあなたの今の行動の源泉にあるはずです。
それが信じられる。だからこそ、徹底的に神を受け入れようとせぬのだと。
表面的に受け入れる者の自己都合の神にはまるより、その方が安心出来ます。
自己都合の神を持ち出したのは自我でしょう。その戦争や宗教も自我によって正当化される。それは言葉のすり替えであり、それを見逃す甘さも自我。
これを許さぬ姿勢とは、言葉に曖昧さを持たせない、自我に付け入る隙も無い数学の如き等式、或いはアナログよりはデジタルな定義付けから始まらねばならぬでしょう。