★阿修羅♪ > 議論25 > 272.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: 今日の人間観や身体観そのものの問い直しが必要なのかも知れません。 投稿者 張良 日時 2007 年 2 月 10 日 14:58:41)
>また、臓器の提供を受ける側は明らかに他人の犠牲によって苦痛を軽減し延命を図っています。人の命や身体というものをそうした手段によって永らえることにどのような意味を与えるべきでしょうか。手段を選ぶことなく果たされるべき価値があるのでしょうか。いや、価値ではなくエゴであって何ら恥じる必要はないと言って構わないのでしょうか。
「その傲慢な言い方を恥じる必要はないのですか?」と聞きたい所はあります。
この言い方は自分と家族が健康で何十年も生きられた人が発した場合は、すごく嫌みであり、許せないものを感じます。一発ぶん殴ってやりたいくらい、否、殺意を覚えるくらい頭には来る所もない訳ではありませんが(多分面と向かって健康な人間がそうう言ったらすごくカチンと来ると思う)、臓器移植なしの治療の方向性を出来る限り考えねばならないとは思います。
どんな気持ちで移植を待っているのか考えると、頭に来る言い方ではあるけれど、現在の医療を考える問題提起にはなると思います。少なくともドナーを待つ患者さんとその家族の方に面と向かって直接言ったら断じて許さないし、その場合は徹底的に意図を追求しますが。全く・・問題提起としては良いと思います。