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(回答先: 元公明党委員長、創価学会を提訴=「言論活動を妨害」−東京地裁(時事通信) 投稿者 あややの夏 日時 2008 年 5 月 12 日 22:29:07)
http://www.liberal-shirakawa.net/magscrp/f21070201txt.html
>>FORUM21 2007年2月1日 通巻119号
創価学会党化した自民党-2
排他独善、高じて批判者を抹殺する自民党
白川 勝彦 (元衆議院議員)
巨大な政治的な存在――創価学会
私がこれから論じようとするテーマは、「創価学会党化した自民党」である。
自由主義政党や社会主義政党の場合、それを分析したり批判しようとしたとき、学問的な一定の概念を用いることができる。しかし「創価学会党」なるものは日本にしか存在しない特殊な政党であるから、創価学会党とは何かをまず定義しなければならないことになる。そして創価学会という存在もまたきわめて特殊な存在である。だからけっこう厄介なテーマである。
創価学会は宗教法人法に基づく団体であることは疑いないが、宗教団体というとそこから問題とする人もけっこう多い。小泉チルドレンなどをみていると衆議院議員イコール政治家ととてもいえないように、宗教法人法に基づいて設立された団体だからといって、イコール宗教団体と呼べるかとの疑問が出てきてもそれ自体は不思議ではない。これまでも宗教法人法に基づいて設立された団体であったも、世間の普通の意味における宗教団体と呼べないものも数多くあった。
しかし本稿はこのことを直接のテーマとするものではない。それは宗教や宗教法人法の専門家に譲ることにする。本稿が対象とするのは、信者というのか会員というのか知らないが、構成員が1000万人いるといわれていれ現に存在している創価学会という団体である。創価学会は実に巨大な社会的な存在であり、かつ政治的な団体でもある。日本の政治を論じる場合、創価学会に関心をもたざるを得ないし、それは必要なことでもある。わが国の政治学者やジャーナリズム・マスコミがことさらに創価学会から目を背けようとしていることの方がおかしいのである。
排他独善ー高じて批判者抹殺的体質
宗教的な存在としての創価学会についてどのような問題があるかのか、私はそれなりに本を読んだり、いろいろな人の話は聴いたことあるが専門家として論ずる能力も資格もない。政治的な存在としての創価学会には関心もあるし、それに関与せざるを得なかった。だからある程度勉強もしてきた。社会的な存在としての創価学会についても私はかなりのことを知っている方だとは思うが、専門的なことはいえない。
そこで私は宗教的・社会的な存在としての創価学会について、数人の専門家から集まってもらい、創価学会の特質や問題点などをて面的に聴いた。この団体は実に多くの問題点を抱えているようである。この団体の特質や問題と指摘される特異で異常な体質は数え切れないほどあるようである。
しかし、数の多いことをもってよしとしない。特に政治的な論述や演説では、問題点はひとつがいちばん良い。創価学会の場合、とてもひとつという訳にはいかないようだが、私は少なくとも5項目に絞ってもらいたいとお願いした。最終的には5項目に絞られたがこれはけっこう難しい作業だった。
創価学会の特殊な体質・問題点として、排他独善的でありさらにはこれが高じて批判者を抹殺する特異性をあげることについては全員の意見が一致した。従って、まずこの視点から創価学会の問題点―創価学会党の問題点を観てみよう。
なお創価学会党とは何かを考察する場合、いちばん分りやすいのは公明党をよく観察することであろう。創価学会も公明党も、公明党は創価学会党であるといわれることを嫌い、いろいろな策を弄しかつ意味のない努力をしているが、多くの国民は公明党を創価学会党と政治的に認識している。私もそう思っているし、本稿でいまさらこのことを論証しようとは考えていない。国民や私のこうした政治的認識は長い間の多くの事実に基づくものだからである。
民主主義とタブー
娑婆(しゃば:仏教用語で、人間が現実に住んでいるこの世界―広辞苑)に住んでいる生身の人間などという者は、多かれ少なかれ独善的なものである。そんな人間が作る団体もまた独善的であり、排他的なものであることは否定できない事実である。このように独善的かつ排他的な人間や団体の人権や利害を調整するシステムとして民主主義が生まれ、多数決原理によって共存共栄をはかる努力がなされている。しかし、信仰の自由とは、科学的合理的に証明することを求められないことを信ずる自由である。いかなることやものを信仰しようが信仰の自由である。従って宗教団体にこうした傾向があることはある程度やむを得ない。
だがそれは信仰の自由にとどまっている限りにおいてであり、ある信仰に基づく具体的な行動が社会的なものとなったとき、それが法律や社会的な規範によって批判されることを妨げるものではない。
創価学会においては絶対に侵すことができないタブーがあるという。それは創価学会の名誉会長である池田大作氏の言動について疑義を呈したり批判することだという。ちなみにタブーとは、「触れたり口に出したりしてはならない物・事柄」と広辞苑にある。創価学会においては、池田大作氏の存在・言動は批判的に触れたり口にしてはならないタブーなのである。
宗教団体としてそれが特殊例外的な特質なのかどうか、私には詳しく論じる能力も資格もない。しかし社会的な存在としては、現在の価値観に従えばかなり特異な存在となる。政治的な存在においてはそれは特異であることはもちろんであるが、民主主義に違背する許容されない危険な体質とみなされる。なぜならば民主主義の政治の世界では、自らの主張や政策の正当性を科学的・合理的に論証し、相手の主張や政策を同じように反駁することによって利害を調整することが政治の営みと考えられているからである。
批判者を抹殺しようとする自民党
池田大作氏という特定の個人的存在を絶対不可侵とすることが宗教の世界でどう評価・論及されるのか、それは専門家に委ねよう。しかし創価学会においては前記池田タブーに違背したり批判する者を絶対に許さない、さらにはこれを抹殺しようという特異性があるという。これは宗教の世界でもきわめて特異かつ異常な体質とされているようである。
民主主義の政治の世界では、反対者や批判者を抹殺しようとすることは決して許されない。反対意見が多数決原理によって否定されることは日常的によくあることである。しかし賢明な多数者は少数の反対意見もできるだけ納得させる努力する。
創価学会党の本家である公明党において、池田タブーに違背した政治家が抹殺されていったことを私たちは数多くみてきたところである。同じようなことが自民党でも行われるようになった。抹殺というから刺客という言葉が乱舞した郵政問題を想起する人が多いと思うが、郵政問題は詫び状を出すことで許された。
自民党の中の本当のタブーは、公明党との連立問題である。公明党との連立に反対や批判することはタブーなのである。勇ましそうなことをいう自民党の国会議員はけっこういるが、いまや自民党と公明党の連立を問題にしたり批判する者はいない。タブーなのである。このタブーに違背した者はいずれ抹殺される。池田批判は公明党との連立批判となる。公明党が池田タブーに支配されているように、自民党の国会議員も池田タブーに洗脳されたかもしくは無批判となった。>>