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(回答先: 創価学会批判の要諦 [那田尚史の部屋] 投稿者 white 日時 2007 年 4 月 17 日 20:52:23)
http://www.liberal-shirakawa.net/tsurezuregusa/index.php?itemid=182
>>私が両事件に関して他の人とかなり違った見方をしているのは、私の以下に述べるような体験に基づくものである。私は学生時代の最後に、東大紛争が起きた。昭和43年の秋から翌年の初めにかけてである。大学内は、一種の“革命的状況”におかれた。そのような中で、私は2回傷つけられた。ひとつは学内でデモをしているとき、“武装”していた全共闘といわれるグループから大きな石を額にぶっつけられて、病院に担ぎ込まれた。額は切れて、血が噴出した。その傷跡はいまでも残っている。もうひとつは、学内を歩いているときに武装していた全共闘に不意打ちされた。ゲバ棒で滅多打ちにされた。私は頭だけを手で守った。彼らが立ち去った後、折れた数本のゲバ棒が残っていたが大事にはいたらなかった(もちろん、1週間くらいは身体はひどく痛かったが…)。
平成8年と平成12年の総選挙および平成13年の参議院選挙で、私は創価学会・公明党グループと正面から激突した。メールや掲示板などには明らかに狂信的で異常な言動が認められた。私は身の危険を想定せざるを得かかった。しかし、私はいずれも警察に警備などを頼むことはしなかった。民間の警備会社に頼んだ。かなりの費用がかかったが多くの支援者の応援を受ける者として、狂信的なグループから身を守ることは候補者の義務だと私は考えた。私の警備を実際にしてくれた人に聴いたのであるが、緊迫した状況が何度もあったという。「選挙期間中の警備の強化が必要だ」などとのたまっている御仁は、こういう経験があるのだろうか。
創価学会・公明党の反対者に対する攻撃は、目に余るものがある。彼らは、批判者を抹殺しようとする。自民党は、これをみてみない振りをしている。こういう抹殺体質を放置している者が、民主主義に対する攻撃であるなどといっても私は信じない。いまわが国には、批判者を抹殺する体質が普通のこととして罷り通っていることを忘れてはならない。この抹殺体質と長崎市長銃殺事件は、関係ないのだろうか。私にはどうしてもそうは思えないのである。郵政民営化の国民投票ということで詐取した3分の2を超える巨大議席で、次から次に反対意見を潰していくのも、ひとつの抹殺体質ではないのか。4月22日の一票は、この抹殺体質と対決するものでなければならないと思う。>>
(私のコメント)
警察はじめ地方自冶体でも公明党の進出により命令系統の分裂が起こって来ているのを感じる。これは住民にとって不幸な事である。責任体制が益々ぼやけて行政に支障を来たし、特定の団体勢力が有利になってしまう。特に気をつけなければならないのは創価と外資カルト系である。