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東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤
新しい朝にぼくは何処で、そしてどんな想いで、この一枚のアルバムを聴くのだろうか。
ぼくたちが 初めて、大聖堂でのライブ録音を実現した。
(早稲田大学音楽プロデュース研究会)
1978年11月 アルバムレコード ポリドール 発売
時代は1980年になった。70年代の最後である。
あまりにも重くそして暗い70年代が過ぎ去ろうとしていた。
1980年5月、韓国民衆が光州市で蜂起し、そして鎮圧された。
光州蜂起は日本の70年代民衆に勇気を与える・・・
なにか日本の民衆に希望が見えてきたのが1980年の雰囲気だった。
1970年代をくぐりぬけてこられたのは「敗北の過程」にとって奇跡だった。
森田童子はポリドールからワーナーパイオニアへと移籍する。
そこでワーナーパイオニアから「森田童子レコード全集」が復古版として発売された。
レコードには森田童子が書いた短編小説が付録としてついていた。
その文章にわたしは魅了された。森田童子は詩人でもあり文学者でもあった。
1980年6月、森田童子は池袋の名画館「文芸座」地下でコンサートを開催する。
わたしは初日と楽日、2回ほど観戦した。
初日は舞台前の席でみられたのだが、楽日は天井桟敷からだった。
森田童子の舞台はいつも満員だった。
入場前、観客は「文芸座」を囲むように並び、開場をひとりひとり待っていた。
静かなる熱い共鳴への情熱があった・・・
文芸座地下「ル・ピリエ」で森田童子は
ニューヨークのハドソン川で死んだ女性写真家のことを話した。
俳人尾崎方哉のことを話した。
スペインの音楽家バブロ・カザルスの「鳥の歌」のことを話した。
わたしは森田童子に魅了され激情の海底へと落下していく。
森田童子の声がわたしの疎外された孤独の心に棲みついたのである。
70年代の最後にわたしが出会ったのは、森田童子の「人の歌」であり
その「声」だった。共鳴感覚こそが、70年代を生存できる方法だった・・・
「人の歌」は「鳥の歌」のように貴重だった・・・
70年代を奇跡的に生存してきた「人の歌」それはあの重い「敗北の過程」を
それぞれがくぐりぬけ、心の深淵で守ってきた共鳴感覚の旋律でもあった。
70年代、よく仕事をずる休みしては、午後からひとり池袋にいった。
ひとり文芸座で過去の映画をみてきた。
文芸座から出ると池袋の街は夜、はらがへり「立ち食いうどん」を食べ、アパートに帰った。
わたしは新宿より、文芸座がある池袋が好きだった。
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