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http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/fukuoka/20080103/20080103_001.shtml
●死の直前までつづる
ブラジル移民が始まって今年で100年。閉山で働き口を失い、ブラジルなどに渡った炭鉱労働者と家族を追い掛けたルポルタージュ「出ニッポン記」(1977年刊)を残した記録作家上野英信さん(1923‐87)からの手紙を、福岡市出身でサンパウロ在住の画家・イラストレーターの田中慎二さん(72)が大切に保管している。文面からは死の直前まで南米の同胞を気にかけた上野さんの思いが伝わってくる。
「出ニッポン記」は上野さんが74年3‐9月、ブラジルを中心にボリビア、パラグアイなどの元炭鉱労働者の移民約150人を取材、後にドミニカ移民訴訟などで明らかになる政府の移民政策の無策ぶりを現地の肉声を拾うことでいち早く浮き彫りにした労作だ。題は南米が移民の〈約束の地〉となることを願い、旧約聖書の『出エジプト記』になぞらえた。
20歳でボリビアの原始林に入植した田中さんは、77年に上野さんが「出ニッポン記」の最終作業のためブラジルを再訪した際に知り合い、装丁などを担当した。
現在、田中さんの手元に残っている手紙は6通。帰国後間もない時期とみられる手紙にはこうある。〈サンパウロの空港でお別れしたのは、つい昨日のような気がしますが、(中略)心はいまだにサンパウロに残っているような感じです〉
85年2月16日付はこんな記述だ。〈南米各地でおせわになった炭鉱離職者のみなさんも、つぎつぎに他界されていますので、せめてもう一度、お元気な様子を見たいという思いはつのるばかりです(後略)〉
死去の7カ月前、闘病中の87年4月22日に病院から出した手紙には〈退院後はふたたび文学の世界へ戻れるわけですから、今度こそマイ・ペースでじっくり取り組みたいと思っているところです〉となお執筆への意欲をみせていた。
長男の朱さん(51)によると上野さんはめったに手紙を書かなかったという。「南米の方々にはまめに書いていたようでした。父の思い入れがうかがえます」
上野さんの死後、日本はバブル景気を迎え、出稼ぎで日本に戻る日系人も増えていく。田中さんは「上野さんはピンガ(ブラジルの蒸留酒)を飲みながら熱心に作業をされていました」と振り返る一方、「南米が約束の地とならなかった人も多い。今の実情を彼が知ったら…。ある意味、いい時期にお亡くなりになった」。複雑な思いで手紙を読み返していた。
=2008/01/03付 西日本新聞朝刊=
2008年01月03日10時22分
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