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(回答先: いや日本の成り立ちにおける神道の重要さが問題なのでは 投稿者 空也 日時 2007 年 12 月 27 日 21:45:06)
飛鳥氏は、ユダヤ・フリーメーソンが成された歴史の偽装に騙されている可能性がある。特に、日の丸と十字架の関係、十字架についている「INRI」の用語等、基督教徒を冒涜し、虐殺する事を目的とした古代メーソンリーが、関与している節が見える。基督教徒は、イエス様の十字架について大切にしたいと考えているが、神側、イエス様の十字架については、イエス様の一生についての悔いと悲しみの象徴にしか過ぎない内容である。だから、強調もしたくはないが。
このことについて、又後で述べたいと考えている。
古代メーソンリーの起源
『ヘロデの呪いー暴かれたユダヤ古写本』 ローレンス・D・H・ローレンス著
http://www.asyura2.com/07/revival2/msg/165.html
元七大天使・今9次元ガブリエル
厳しい師でありながら、慈愛に満ちて、真に許されねばならぬ人の罪を許し、自らを神の前に贖罪の生贄として捧げられたイエス様の生涯と死に就いて、思い出さずには居られ
ないイエス様誕生の月12月、そして生誕の日クリスマスが再び近付いて来ました。
其れは一重に栄光に満ちた誕生でありながら、モーセ様によりエジプトの補囚の民が救い出され、乳と蜜の流れる地カナンへと導かれ、エジプトに代る定住の地を与えられつつも、神の愛を忘れ去った、ユダヤ人の贖罪として定められた生であったが為に、私達天の者に取っては何時迄も暗い悲しい思い出でしかありません。真実は其れが私達の心を救うものではなかったのです。
此の悲劇は天の父エホバ様の弟であり、悪魔ダビデと化した者が巧みにエホバ様を説得し、計画した壮大なドラマに過ぎず、つぶらな瞳の小さな羊や山羊や小鳩を、無意味な供物や燔祭として殺し、其の血を流して肉体を持たぬ神に捧げると同じ結果しか齎しませんでした。しかも小羊等の肉は人々の糧となり得たかもしれませんが、イエス様は何の糧になられたのでしょう? 狂気の如く神への復帰を訴える切っ掛けを与えるかもしれません。しかし象徴的にユダヤの主として神から民に与えられても、民はこぞって其れを受け入れた訳では無く、神の側からは民の最も大切なメシヤを取り上げた事により、贖罪が行なわれたと解するのも良いでしょう。しかし民の側からは彼等の供物としての現実感は無かったのです。
凡そ犠牲による、血を流す供物や燔祭の儀式は、血の臭いに満ちた、常軌を逸した礼拝であり、人の理性を狂わせてしまうものである事に目を向けて見て下さい。イスラエルの宗教の供物に伴う必然的な事柄が、動物を殺して血を流す事であり、祭壇に其の血を注ぎ、塗り付ける事であり、供物無しに礼拝は許されなかったと云う所に、神の美名の下に悪魔的なものを厳存した点に注目して頂きたいのです。
”汝殺す無かれ”と、戒められた天の父が、犠牲を供物として殺し、血を流すのを聖為る儀式とされるのは、正常な解釈では矛盾しているのです。慈愛に満ちた神が何故イエス様の殺人を黙認なさったか。血生臭い礼拝を喜ばれるとされたのは何故か?其処に私達の証した天の悲劇ー天王エホバの最も近き所に悪魔ダビデが居り、しかも天王を自らの意に従わしめていた事が証明されるのです。私達が如何に天王に逆らえましょう。
其の為に神の光を求め、愛を従う人々が、悪魔の教えを身に付け、流血を何とも思わない、異端者を火刑にする基督教会や共産主義思想の基督者や、「聖戦(ジハド)」を口にして好戦的なイスラム教徒を生み出す事になったのです。
最早基督教の歴史は贖罪の意味さえ伴わない流血の歴史としてしか存在しなくなりました。イエス様の十字架の贖罪がある限り、其れを信じる者を狂気の道から呼び戻し、私達真の天が説く、良識的で正しい人生を歩ませるのは、不可能に近くなったのです。
此れはクリスマスが近付く度に、私達が思い出さずには居られない暗い過去の物語であり、彼等に救いが無いと云う点に於て、希望の無い未来でもあるのです。
(11月22日 口述筆記 千乃裕子)
天の奇跡について(イエス様の十字架の死と再生)
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/7073/kiseki.htm
神のお言葉(神にとってのイエス様の十字架の意味)とクリスマスに向けてのお言葉
http://www.k3.dion.ne.jp/~syouhou/kaminokotoba1.html
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