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(回答先: 長野県旅行と部落問題 投稿者 空也 日時 2007 年 12 月 09 日 08:05:01)
もともと長野県への旅行は、武田信玄や諏訪氏の歴史ロマンを追求する旅のはずであった。
4つある諏訪神社へも訪れた。諏訪地方は江戸時代やそれ以前の歴史が偲ばれる。
安曇野はさらに古い歴史の跡があると聞く。善光寺に参ってから、戸倉上山田温泉の駅を過ぎて、長野県の佐久地方に列車は入ってきた。みると高校の建物らしいが、全体に校舎の羽目板が破られて荒れ放題だった。
ぞっとして唖然とした。まわりは殺風景で歴史ロマンどころではない。
佐久を舞台にした小説の「破戒」については、下記のホームページを参考にしてほしい。
http://plaza.rakuten.co.jp/hongming/diary/200303050000/
島崎藤村 「破戒」
あまりにも有名な小説だが、初めて読んだ。
被差別部落のない所に育ったので、「カムイ伝」を読むまでそういうものの存在を知らなかった。部落差別は知識としては知っているが、その実体については感情の面ではわからない。
穢多という言葉が頻繁に出てくる。現代では書けない話だ。最初から主人公は穢多だと書かれている。今なら、最初はそれを明らかにせず、読者に、「主人公には何か隠している事があるな」と思わせ、途中で明らかにする、という書き方をするのではないだろうか。
小説中に書かれる、主人公を取り巻く人々の差別意識、というより、当時の信州の社会通念には驚かされる。「新平民」は同じ人間ではなく、まったく人種が異なるものと考えられていたのだ。
最後に、主人公は自らの出自を明かし、教え子たちに土下座までする。胸を張って「自分は穢多」だとは言えないのだ。
告白後、親友は相変わらず親身に心配してくれ、思いを寄せていた女性が離れていくこともなく、教え子達も慕ってくれ、援助者もいてテキサスにわたることになる。
小説だからこうなるのだが、現実だったらどうだろう。
よその土地へ行って生活する、など簡単に出来る事ではないし、告白したとたん人々が離れていくのではないか。
被差別部落といえば、岡林信康の「手紙」を思い起こす。こちらのほうが現実だろう。
差別に目を向けたという点では思い切った事をした小説ではあるが、現実に差別されている人達が読めば、生ぬるいという印象は受けるだろう。
野間宏の解説によると、批判を受けて訂正版を出した事もあったという。訂正版では、「穢多」という言葉をさけて「部落民」という言葉を使っているそうだ。しかし、野間宏はそれを指して、「ただ部落民という言葉を用い、表現をあいまいにすることによって差別を取り去ったと考えたとすれば、そこに差別する心がひそんでいたと考えられる。」と述べている。
表面的な言葉遣いをいじることで事足れりとしているメディアは、この指摘を肝に銘じるべきだろう。
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