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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu157.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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福山雅治 柴崎コウ主演の「ガリレオ」 言語的思考力,論理的
思考力などといった基礎的能力を育てることに主眼を置くべきだ。
2007年12月5日 水曜日
フジテレビドラマ「ガリレオ」 主演の福山雅治
◆「生きる力」も育っていない OECD調査順位下降 12月4日 産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071204-00000958-san-soci
経済協力開発機構(OECD)が4日に結果を公表した生徒の国際学習到達度調査(PISA)で、日本は再び順位を下げた。渡海紀三朗文部科学相も「ゆとり教育」の失敗を挙げた。学習への意欲、関心とも最低レベルで現行学習指導要領で重視されている「生きる力」も育っていないことが浮き彫りに。調査を実施したOECDのアンヘル・グリア事務総長は、日本は応用や活用に必要な能力を育てるよう示唆する。いずれにしても早急な対策が求められている。(中略)
■生きる力伸びず
同時に行われたアンケートで、生徒の科学への意欲や関心、興味は参加国中最低レベルで、前回および現行指導要領で大きなテーマだった「生きる力」の具体的指標が高まっていないことが明らかになった。
今回の調査で、日本は記述や論述の問題で白紙回答が他国と比較しても多く、答えを導き出した過程を自らの言葉で説明できない生徒が多かった。
これまでの「丸暗記」型では「生きる力」は得られず、4日に都内で記者会見したグリア事務総長も「単に知識の記憶だけなら、多くの国の労働市場から消えつつある種類の仕事にしか適さない人材育成となっている」と苦言を呈した。
天才物理学者 湯川学教授の研究室
◆「ガリレオ」的人文科学 12月4日 弁護士村上英樹
http://blog.so-net.ne.jp/h-m-d/2007-11-06
私は,自分が見ているテレビやら読んでいる本(特に小説,映画,ドラマ)にもの凄く影響されやすいのです。
タイトルからも分かるとおり,月9「ガリレオ」。私の友人に熱烈な福山ファンがいるのと,私の友人にこのドラマで福山が演じるマニアック科学者そっくりな人がいるのとで,このドラマは珍しく第2回から毎回見ているのです。
昨日,主人公,天才物理学者「ガリレオ」こと湯川学教授(演ずるは福山雅治)が言っていました。
「全ての結果には原因がある。それらを結びつける合理的理由も。」と。
変わり者で,ひたすらあらゆるものの因果関係を科学的に解明しようとするマニアックな福山。かっこええわーーーーー。
さて,そんなガリレオに触発されて,今日は,人文科学つまり「文系」の世界における合理的科学的ものの見方,ひいては道徳,天皇制まで,について私の持論を述べたいと思います。(中略)
ここで私はこう思います。
ある道徳や伝統について,「まずは従え」「なぜと問うな」というのは,かなり昔は,時代背景を考えればそれがそれなりに合理性を持っていたのだろう。つまり,基礎教育が行き渡らず,多面的な合理的思考・科学的思考をせよ,と庶民に言っても無理だった前近代(!?)の時代においては,下手に考え出すと迷い混乱するだけで「道徳」の真の意味に到達できないことはおろか,(自分の幸せにとっても)極めて不合理な行動を多くの人がやり出す恐れが強かったのだろう。
しかし,戦後は,個人尊重主義(憲法13条)のもと,ひとりひとりに「文化的な生活」(憲法25条)を保障し,9年の義務教育の機会を保障した(憲法26条,教育基本法)日本国憲法のもとの社会。この時代に,うえの「それなりの合理性」は当てはまらないし,「庶民は多面的な合理的思考科学的思考が出来ない」ことを前提にしてはならない。
前提条件が変わったのだ!
9年も日中の時間の大半を使って,言語や数学ほか多教科を学ぶシステムの中で,合理的思考・科学的思考をだれもが持ちうることを前提にすべきは当たり前だし,そこで得た論理的思考力を活用して「道徳」を科学し,「与えられる」「従う」「道徳」ではなくて,自分で合理的説明がつく(又は「今はわからなくともいつか合理的説明がつくと分かるんじゃないかな」くらいには思える)ほんものの道徳を身につける基礎を作ることが大切だ。
ただし,前の記事でも述べたが,教育の成果にはもちろん個人差があり,またスパンとしても,特に人格に関わるものなど,学校卒業時に完成するはずはない。一生のなかで徐々に,「ようわからん道徳」が「考える道徳」になるにすぎない,ということに違いない。
だからまあ「ようわからんうちは,一応『道徳』と言われるものに従っとけ」ってのも大概正しい在り方とも言える。
というと「なあんや〜〜 村上センセも案外フツーの人ですね。」とか「結局,モラルにしばられてるんですね。」「やっぱり従えっていうんですね,ガッ〜カリ!!」と言われるかもしれない。
言われて結構!
しかし,私が言いたいのは,学校教育について,「与えられる道徳」「従う道徳」など強調するよりも,学校を出てから世の中にでて色んな出来事にであうなかで,「ようわからん道徳」を自分の頭で合理的科学的に検証し,自分なりに解釈して,「自分がより幸せに生きる知恵としての,考える道徳」に変えてゆける基礎力,つまり言語的思考力,論理的思考力などといった基礎的能力を育てることに主眼を置くべきだ,ということである。
だから、「道徳」を教科にするとか、「道徳」の時間を増やすなどという短絡的アプローチではなく、自分の頭で考えるきっかけを作るとか、自分の頭で考えるためのツールを育てるとかを、「算数」「国語」「理科」「社会」などの教科の中でやっていくことこそが、ホンモノの道徳につながるだろうと思うのだ。
そのほうが一人一人の人間が,自分の頭で生き,発展する力になる。
繰り返すが,そのほうが,人が生きるためにする思考(知恵)としての道徳になる。真に内容のあるモラルの高い社会になる。
さて,最後に,極めて単純に言おう。
ボーイズビーガリレオ!!
ガールズビーガリレオ!!
女性刑事の柴咲コウ
(私のコメント)
昨日のニュースでOECDの加盟国で日本の高校生の学力低下のニュースがありましたが、特に理科に関する関心や答えを自らの言葉で説明できない事が指摘されていた。このような事は「2ちゃんねる」やブログのコメント蘭などを見れば分かるように、感覚的な表現が多く一行足らずの言語的思考力にかけたコメントが多い。
もともと教育には小学校や中学校などの低学年では基本的な読み書きそろばんが中心となって、つめこみ的な教育にならざるを得ない。しかし高校大学などでは思考力や応用力を高めていかないと学んだ事を生かすことが出来ない。しかし日本の学校教育では自らの意見を発表させるような教育はほとんど行なってはいない。
これは日本の戦後教育のせいでもあるし、自己主張することを嫌う日本の文化風土にも関係がある。小学校などでは無理だろうが、高校大学などでは自分の意見が言えるように教育しないと実社会で意思伝達に支障をきたす事もあるだろう。しかし会社などにおいても会議などで自己主張することはタブーである事が多い。
OECDの学力調査では日本の高校生の学力は年々落ちている。ゆとり教育の失敗によるものであるし、教育方法による違いによるものでもある。日本では高校などでも政治的な事を議論しあう事はタブーであり、学生の政治運動などを極端に嫌う傾向がある。
「株式日記」をこのように毎日書いている事は頭の体操にもなるし思考力を高める働きもする。「株式日記」は1997年から書いて来ましたが、書き始めた当初は数行の文章も書くのがやっとでしたが、最近では長文を書く事もさほど苦ではない。文章を書きながら考え事をしていると思わぬ閃きが浮かんでくる事もある。だから結論的なことは一番最後になることが多い。
フジテレビの「ガリレオ」というドラマは、天才的物理学者の湯川博士が不可思議な出来事を物理学的に解明していくドラマですが、今の教育に欠けているのは答えのわからないことに対して解明していこうという熱意だ。これは理系も文系も関係ないことなのです。
弁護士の村上英樹氏は、道徳や伝統においても「まずは従え」「なぜと問うな」という文化的風土は昔はそれで正しくとも、今では合理的な思考や科学的な思考に基づく論理で考えていく必要性があると指摘している。しかしながら学校教育ではいまだに「まずは従え」や「なぜと問うな」といった前近代的な思考が蔓延している。実社会においてもそうなのだ。
ドラマの湯川教授も実際に起きた出来事は物理的科学的に説明する事ができると述べている。ドラマではその解明が面白さなのですが、湯川教授を少し変人奇人に描いているところが日本的だ。日本では並はずれた能力のある人物を変人奇人扱いする事でスポイルしてしまう傾向がある。江戸時代の平賀源内は天才科学者でしたが変人扱いされた。
しかし現代の日本のように壁に突き当たり停滞した世の中では、天才的才能を持った人物が壁を打ち破る事ができる。しかし現代の日本の教育は平準化教育が行なわれ、優れた才能のある若者を潰してしまっている。会社などでも個性のある自己主張に強い社員は会社にいられなくなって辞めてしまう。
理系の学問においては普遍的な答えが得られるから成果を評価しやすいが、文系の学問では普遍的な正解が得られないことが多い。物理学では1+1=2ですが社会科学では1+1はゼロでもあり無限でもある。それを科学的合理的に解明していかなければならないから難しい。
理系でも文系でも実験をしてみて証明されなければ心理といえない。しかし文系では実験をすることが難しく、歴史的事実を分析解明して答えを求めなければならない。しかし歴史的事実がどのようなものであるかは千差万別であり、言語的思考力や論理的思考力を磨いて事実を組み立てなければならない。しかし日本の学校教育ではそのような教育が欠けているのだ。
テレボドラマの「ガリレオ」では理系の物理学者だから変人奇人でも能力があれば大学教授になれますが、文系の分野ではまず無理だろう。例えば大東亜戦争は植民地解放と人種差別撤廃の戦争であったなどと言う解釈する歴史学者はまず大学教授になる事は無理だろう。経済学でも、政府発行紙幣を発行して1000兆円の国債を買い取れなどといった意見を言う経済学者は大学教授をクビになる。
しかし”ガリレオ”ではないがそれは真実なのだ。
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