★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ51 > 274.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
http://otd10.jbbs.livedoor.jp/1000013618/bbs_plain
れんだいこのカンテラ時評348 れんだいこ 2007/11/29 17:57
【天理教教祖中山みきの研究新版のお知らせ】
れんだいこは、久しぶりに「天理教教祖中山みきの研究」を書き換えた。まだまだ不十分であるが、既成本のどれよりも勝れた中山みき論に成り得ていると自負している。興味の有る方は読まれ、ぜひご意見くだされば有りがたい。糠釘が一番辛い。(ttp: //www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/)
れんだいこがなぜ中山みきに拘るのか。それは、極めて深い現代ネオ・シオニズム的文明批判になっているからである。そういうことに気づいたからである。ネオ・シオニズムは今や世界をままにしており、その挙句に社会の奇形と戦争と原子力、地球環境破壊をもたらしており、その傾向をますます強めつつある。
ネオ・シオニズムはこの危機を打開する能力を持たない。なぜなら、あの強欲が生み出した独特の資本主義秩序の自己否定に繋がるからである。彼らは自己の支配権を維持しながらの改良改革を望んでいるが、既に事態はそういうものでは何ら改良改革さえももたらさないほど深刻化しつつある。
れんだいこはほぼ30年前の或る時、中山みきの御教えと邂逅した。それまで天理教とは何の接点もなかったのに不思議なほど胸にすっきり治まったのでよほど相性が良いのだろう。そう云えば、村上重良氏の「ほんみち不敬事件」を読んでいたので、それが効いていたのかも知れない。
天理教聖地のおじばに都合6ヶ月留まり、離れるに当たってれんだいこなりのみき教祖伝を書き上げる心定めをした。みきが神がかった41歳の時までを期したが、それはかなわなかった。ほぼ完成したのはれんだいこ50歳頃である。道中何度足踏みしたことか。今57歳だから7年ぶりに書き換えた事になる。
今なぜれんだいこが中山みきに拘るのか。それは、中山みきの御教えが、現代の世界閉塞をこじあける叡智を秘めていると思うからである。そう思うようになった。れんだいこは坐りづとも立ち手踊りも忘れたが、改めて覚え直そうと思っている。あの踊りの中に思惟の原理原則が凝縮されていると気づかされたからである。
まだある。れんだいこが拘り続けてきたマルクス主義の再生が、マルクスを起点にする限り不可能と云うマルクス主義のネオ・シオニズム性に気づかされたからである。俗流マルクス主義が親ネオ・シオニズムなのは決して偶然ではない。そういことからむしろ、中山みき思想を核として世界の様々な思想を練り合せたほうが、却ってれんだいこの希求するものに近づくということを知ったからである。
まだある。ネオ・シオニズムを原理的に批判するのにキリスト教に傾斜して為そうにも、キリスト教自体がネオ・シオニズムの思惟様式を取り入れており、ほぼ絶望的に難しい事を知らされたからである。むしろ、開祖イエスの御教えに着目し、イエス教義とみき教義を練り合わせたほうが、却ってれんだいこの希求するものに近づくということを知ったからである。
世界思想にはほかにも多々優れたものがあるだろうが、奥深い根本まで立ち入って思惟を深めているとなるとそうはなかろう。むしろ、みき教義を核としながら、世界の優れものを寄せたほうが手っ取り早いのではなかろうか、そう思っている。
最後に云いたいことはこうである。最近は学んで為にならず却って馬鹿になるネオ・シオニズム系学問が横行隆盛しつつあり、次第に我々の日常生活をがんじがらめに規制しつつある。政財官学報の五者機関の頭目がこぞって被れているから、下が皆ならう。これに対抗するには、ネオ・シオニズム系学問の個々を批判してもきりが無く、ネオ・シオニズム系学問総体に対峙する別系学問を打ち立てる以外に無い。その別系学問は、みき教義を学び深く思案するところから生まれる。そう気づいた次第である。
みき教義にちんぷんかんぷんな者には何を言っているのかそれこそちんぷんかんぷんだろうが、各自銘々がみきの門を叩くのが良かろうと思う。れんだいこは、毎日の生活の癒しにもなることであるからして、日々立ち返り更に充実させて行こうと思う。
2007.11.29日 れんだいこ拝
−−−−−−−−−−−−−−
れんだいこ 人生学院
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/
▲このページのTOPへ HOME > Ψ空耳の丘Ψ51掲示板
フォローアップ: