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偉大な発見を実現する「条件」とは(藤堂安人の材料で勝つ)
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2007/11/26 19:11
京都大学の山中伸弥教授の研究チームと米ウィスコンシン大学の研究チームがそれぞれ,ほぼ同時に人の体細胞から「万能細胞」(iPS細胞)を作製することに成功した,と発表した。一度,皮膚などの組織に分化した細胞に遺伝子を組み込むことによって,さまざまな種類の細胞になれるような状態に「リセット」できるという魔法のような話である。これまで,こうした「万能細胞」としては人の受精卵を壊してつくるES細胞が知られていたが,その研究や利用については倫理問題が立ちはだかっていた。iPS細胞ならばこうした倫理問題を解決でき,さらに自らの細胞を使うことによって拒絶反応を回避できることから,再生医療に向けた研究が一気に加速すると期待されている。
この研究内容自体についてはさまざまなメディアで報道されているのでここでは触れないが,筆者が面白いと思ったのが,なぜこれほどの大きな成果が同時期に発表されたのかということである。この2チームは熾烈な研究競争を通じてお互いに刺激しあい学習しあって,共にゴールに近づいた,ということのなのだろうか。今後,研究成果だけでなく,こうした研究競争の裏側に迫るような人間味あふれるストーリーが明らかにされるのを楽しみにしたい。
『生物と無生物のあいだ』
「2チームが同時に同じ成果を発表」,ということで思い出したのが,青山学院大学教授の福岡伸一氏が書いた『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)という本である。同氏がかつて在籍していたボストンのハーバード大学で,あるタンパク質を探し出す研究競争を,ほかのチームと競い合いながら進める様子が生々しく描かれている(余談だが,この本は日経エレクトロニクス誌のYデスクが「これ,面白いっすよ」と紹介してくれたものだが,筆者が今年読んだ本の中でもベスト3に入るほど面白かった)。福岡氏は,生物学者であるが,文学者のように文章がうまい。難解な内容を分かりやすく書くことが一つの役割である我々科学(技術)ジャーナリストがその存在意義を再考させられるくらいの本である。
福岡氏らがライバルと熾烈な競争していたという研究の内容というのがとても面白いので紹介しておこう。人間そして生物とは,さまざまな物質を取り込む存在であるが,一方でさまざまな物質を分泌する存在でもある。例えば,膵臓(すいぞう)は消化酵素やホルモンを分泌する。人間ならだれでも知らないうちに行っている当たり前の現象であるが,体の「内部」から「外部」に物質を移動させるというのは思ったより大変なことのようである。
「内部」の中に「外部」をつくる
というのは,生物は「内部」と「外部」を細胞膜によって峻別することによって,生物に悪影響を与える外部の物質が細胞内部に入らないようにして生命環境を守っているからである。外部から何かを取り入れる際もそうだが,細胞内部で作られた物質を外に出すときも,細胞膜の一部を外部に開放しなければならないので何らかの工夫がいる。では,どのようにして分泌しているのか。その秘密は,細胞の内部にもまた外部をつくること,なのだそうだ。
福岡氏はこのあたりの事情を細胞膜を風船と見立てて分かりやすく説明する。風船に握りこぶしを押し当てて,めり込ませてみよう。握りこぶしは細胞の中に入っているように見えるが,実際には外部と通じている。ここで,さらに中にめり込んだ部分の入り口付近(手首のあたり)を狭めて閉じて切断した場合を思い浮かべてほしい(実際には破裂するだろうが破裂はしないとして)。大きな風船の中に小さな風船が浮かんでいるような状態になる。
この小さな風船が「小胞体」と呼ばれるものだ。外部に分泌される消化酵素などのタンパク質はこの小胞体の内部で合成される。実際に外部に消化酵素を出す際には,さきほどの小胞体の形成と逆のメカニズムが働く。小さな風船(小胞体)は大きな風船(細胞)の皮膜に接触し,二つの皮膜は溶け合い融合して開口部となり,小胞体は外界とつながり,消化酵素が吐き出される。「外部」から「内部」に変換された小胞体は再び「外部」になるのである。
福岡氏らは,この「内」と「外」を行き来するダイナミックな挙動を解明するために,あるタンパク質(「GP2」と名付けられた)に注目する。このタンパク質は酸性雰囲気で互いに分子集合を起こして凝集するということを福岡氏らは発見する。これにより,まさに生命の神秘としかいいようのない複雑なメカニズムが次第に明らかにされる。
細胞膜の上で繰り広げられる生命の神秘
まず細胞膜の上に存在する「プロトンポンプ」という特殊な装置によってプロトン(水素イオン)がある部分に供給され,pHが低下する。すると,細胞膜を形成しているリン脂質の中でGP2を持ったリン脂質が,GP2が凝集するのに引きずられていく。この結果,リン脂質も集合する。ここで個々のGP2がほぼ台形だと考えると,それを集めて並べていくと平面的にはドーナツ状になり,立体的にみれば中空の球状に並ぶことになる。それに沿ってリン脂質も並ぶので,結果的に球状の小胞体が形成されるという仕組みである。
このあたりは,イラストを見ると一目瞭然なので興味を持った方は本を読んでいただくとして(同書p.229),福岡氏はこのようなダイナミックな細胞膜の挙動を司るタンパク質を同定する競争を繰り広げていたのである。しかも,30億個もの塩基情報を持つヒトゲノムの中からGP2の塩基の場所を見つけるという途方もない作業を,常にライバルに先を越されるのではないか,という恐怖の中で繰り返していた。
結局この競争は,冒頭で述べた「iPS細胞」と同様にライバルと同着に終わるのだが,福岡氏はこのあたりのくだりを,同僚がボストンにある美術館で名画が盗難にあって「シンイチ,知ってるかい,とられちゃったんだよ」と言った冗談に肝を冷やしたエピソードなどを紹介しながら,憎いほど小気味よくまとめている。
「輝かしい稜線」と「山麓のかそけき樹木」
この本の主題は,「生命とは何か」「生きているとはどういうことか」を考えることであるが,その一方で,それを探求する方たちである当事者の生の姿というか人間ドラマが,如実に描写されていて実に興味深い。そして福岡氏の眼差しは,華々しい成果を挙げてノーベル賞に輝いた人間だけでなく,それを陰で支える人々にも向けられる。
福岡氏は書く。「しかし私が語りたいのは,輝かしい稜線をつなぐことではない。今では暗く広い夕闇の中に沈んでしまった山麓のかそけき樹木のざわめきについてである」(同書p.17)。
ここで福岡氏が言う「輝かしい稜線」は例えばDNAの二重らせん構造を発見したワトソン氏とクリック氏,「山麓のかそけき樹木」はオズワルド・エイブリー氏(ロックフェラー医学研究所)とロザリンド・フランクリン氏(ロンドン大学)のことである(以下,敬称略)。
この本を読むと,偉大と言われる発見や発明も,いわゆる「発見者」とされている研究者だけで達成されたものでないことが分かる。先達の知見,そしてライバルも含めた同時代人たちとの知的交流…。ここで,エイブリーは前者(先達),フランクリンは後者(ライバル),ということになるだろう。このエイブリーとフランクリン,二人の生き様を読ませていただいて,ある共通する姿勢があるのではないかと思った。ここでは,その姿勢を二つほど紹介してみたい。
「帰納的」と「演繹的」
その一つは「帰納的」だということである。福岡氏が特に「帰納的」だとしたのがフランクリンのやり方である。これに対してワトソンとクリックは「演繹的」だったという。
ワトソンとクリックは一攫千金を夢見て,DNAの構造を「きっとこうなっているはずだ」というモデルとして机上で考えた。自ら実験を行いデータを収集しようとせず,ボール紙や針金で作った分子モデルを動かしながら,ああでもないこうでもないと議論を繰り返した。偉大な「発見」に一挙に迫るためには,自らコツコツと実験を繰り返していくような行為は「回り道」なのかもしれない。
これに対してフランクリンは,DNAをX線結晶学の単なる一対象として,個々のデータと観察事実だけを積み上げていくという「帰納的」なアプローチを採った。彼女は,DNAが二重らせん構造であることをほぼつきとめていた。
一方のワトソンとクリックは演繹的手法を繰り返していたが,なかなか真実にはたどり着けなかった。そのためには,帰納的なアプローチによって積み上げられた事実が必要だったのである。ワトソンとクリックに足りなかったもの---。彼らはフランクリンの研究成果を盗み見て大発見につなげたのだと見られている。
これに対して,フランクリンは淡々と,DNAの構造解析が終わると,次の対象に研究テーマを移す。「一攫千金」も含めて,DNA構造を解明することの「意味」が分かっていなかったのか,分かっていても興味がなかったのか,研究者のモチベーションを考えるうえでも興味深いところである。
「現場の質感」と「ひらめき・直感」
もう一つ,共通する姿勢ではないかと思ったのが「現場感覚」ということである。エイブリーは,肺炎双球菌の1タイプであるS型菌(病原型)から DNAを抽出し,これをR型菌(非病原型)に混ぜるとS型菌に変化するという実験データから,遺伝子の本体はDNAであることを示したが,当時の研究者たちの猛烈な非難にあう。同氏はそうした非難に対しても立場を変えずに,地道な実験を繰り返した。こうしたエイブリーの態度について福岡氏は次のように書いている(同書p.55)。
エイブリーを支えていたものは,自分の手で振られている試験管の内部で揺れているDNA溶液の手ごたえだったのではないだろうか。DNA試料をここまで純化して,これをR型菌に与えると,確実にS型菌が現れる。このリアリティそのものが彼を支えていたのではなかったか。別の言葉で言えば,研究の質感といってもよい。これは直感やひらめきといったものとはまったく別の感覚である。
直感やひらめきに頼って,演繹的アプローチによって名声と一攫千金をものにしたワトソンとクリック。その一方で,現場の実験データにこだわって帰納的アプローチによって真実に迫ろうとしたフランクリンとエイブリー…。
ここで考えたいのは,偉大な発見がもたらされる条件としては,大胆な飛躍をもたらす演繹的アプローチとそれをデータ面で支える帰納的アプローチの両方が必要ということではなかろうか,ということである。福岡氏の言う「研究」を「現場」と言い換えると,「現場の質感」と「ひらめき・直感」の両方だと言ってもよいかもしれない。この二つを一人の人間(チーム)が実行するのは難しそうだ。他人の成果を盗み見るという倫理的な問題は別にしても,複数の人間(チーム)がなんらかの共同作業を行うことが大切だということを,「山麓のかそけき樹木」は小さな声でささやいているのかもしれない。
藤堂 安人=Tech-On!
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20071126/143002/?P=1
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20071126/143002/?P=2
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