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「観光」としての「アイルランド」音楽消費 【加藤晃生】
http://www.asyura2.com/07/bd51/msg/225.html
投稿者 愚民党 日時 2007 年 11 月 16 日 16:16:49: ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: アイルランド表象―ダブリン舞踏公演の記録  【撮影=坂内 太】 投稿者 愚民党 日時 2007 年 11 月 16 日 16:07:34)

「観光」としての「アイルランド」音楽消費

加藤晃生
Kato Kosei


http://www.k5.dion.ne.jp/~bearhug/eire.html


1.はじめに

 1990年代以降、欧米諸国や日本などの先進工業国におけるアイルランドに対する関心は、高い状態が続いているようである。「リヴァーダンス」の興行としての大成功や増え続ける「アイリッシュ・パブ」などは、これを裏付ける現象と考える事が出来るだろう。特にアイルランドの音楽家に対する関心は、1980年代までのU2やエンヤEnya、クラナドClannadといったいわゆる「ポピュラー音楽」の音楽家を中心としたものから、チーフテンズChieftainsをはじめとする、いわゆる「伝統」的音楽の音楽家へと広がって来ている。例えば1990年に発行されたアイルランドのガイドブック、『エアリアガイド/157:アイルランドの旅』においては、アイルランドの音楽に関する記述はパブに関するコラムの中で三カ所ほど見つかるだけ1)であったが、1998年に発行された『地球の歩き方81:アイルランド』(改訂第4版)では3頁を「アイルランドの音楽」という項目に費やし、アルタンAltan、ドーナル・ラニーDonalLunny、メアリー・ブラックMary Black、チーフテンズといった音楽家たちを紹介している2)。さらに同じく1998年発行の『ヨーロッパ・カルチャーガイド10:アイルランド・パブとギネスと音楽と』になると、第1章の全てを「いつも音楽がここにある」と題して、アイルランドの音楽の紹介に充てているのである3)。

 しかし、エリック・ホブズボームEric Hobsbawmらが指摘したように、「伝統」とは創造されるもの、あるいは発見されるものであり、極めて政治的なものである4)。とするならば、チーフテンズらが自らを「伝統」的音楽の音楽家として表象しているという状況にも、政治的なものが関与していると見なければならない。しばしば「伝統」的音楽は「ポピュラー音楽」と対立する概念として論じられるが、「ポピュラー音楽」とは大量複製技術と大規模な物流システムの成立、そしてマスメディアによる情報の流通がもたらした音楽経験の形式なのであり、我々がHMVでドーナル・ラニーのCDを購入し、NHK-FMの「ウィークエンド・サンシャイン」でシャロン・シャノンSharonShannonの近況を確認し、渋谷のシアター・コクーンでチーフテンズのコンサートを体験している以上、彼らの音楽を消費する事は「ポピュラー音楽」の経験なのである。彼らと彼らを媒介するメディアが、そこにあえて「伝統」という概念を持ち込んでいるという事は、やはりなんらかの理由が存在すると考えて良い。一方、我々消費者も決してこのような状況に甘んじているわけではなく、むしろ「伝統」的音楽を積極的に受け容れ、「伝統」という表象にある種の付加価値を見いだしているとさえ言える。


 本論文では、このような音楽消費の状況を、一種の「観光」と捉える事を試みたい。この「観光」において、ゲストである先進工業国家の人々とホストであるアイルランドの「伝統」音楽家が出会うコンタクト・ゾーンは、アイルランドと呼ばれる実在の土地ではなく、無数の大量複製メディアやマスメディアの中に出現する、仮想の「アイルランド」群である。実在のアイルランドからメディア空間へとやって来る「伝統」的音楽の演奏家たちは、我々に様々な「アイルランド」を経験させるのだ。このような状況は、一見すれば、我々が「観光」という言葉でイメージするものとはまったく異なった経験であると思われるかもしれない。しかし、微細に見ていくに従って、このような状況がまさに「観光」である事が明らかになる。


 本論文では、アイルランドに関わる音楽の消費における「観光」状況を取り上げ、このような状況を作り出しているのは何かを検討する。

2.「観光」の意味

 まず、「観光」という概念について整理してみたい。


 「観光」とは、旅行という営みにおける一つの在り方である。人間が空間を移動するという状況はさまざまであるが、最も大きく分けて考えると、「出発以前の日常への帰還を前提としないもの」と「出発以前の日常への帰還を前提とするもの」の二種類が想定可能である。この場合、「日常」とは意味の世界における「日常」を指す。さて、前者の代表的な例は「移住」、あるいは「移民」であり、後者はいわゆる「旅行」によって代表させることが出来るだろう。後者の中には商用旅行などの、我々の生活の日常的な部分、物質的な部分においてやむを得ない旅行があり、またそれらとは別の性質を帯びたものとして、「観光」がある。両者は往々にして一度の旅行の中に同時に存在しているが、本論文では両者を理念型として分け、「観光」に限って論じていく。


 「観光」の定義は極めて困難である。例えば観光に関する各種の統計を作成するならば、旅先における労働行為の有無であるとか旅行の期間などについて、主観的な判断の入り込む余地の無い定義を用意しなければならない。一方で、「観光」とはさまざまな意味が関与する行為である。アルフレッド・シュッツAlfredSchutzが指摘したように、ある行動がいかなる意味を持つのかは我々が再帰的に決定しているのであるから、統計に使用するような定義だけで「観光」を論じ尽くすことも出来ない。安村克己は「観光」の普遍的な定義が不可能に近い事を示唆しつつ、「楽しみのための旅行」という定義を提案している5)。つまり、旅行者がその旅行にいかなる意味を見いだすかが、「観光」の成立の基礎となっているのである。それでは我々は何故、「観光」と呼ばれる経験に向かうのであろうか。この問題に関しては、ディーン・マッカネルDeanMaccannell、ネルソン・グレイバーンNelson N. H. Graburnの議論が重要な示唆を与えてくれている。


 マッカネルは、我々の旅行の経験において、「近代」が焦点になる事を指摘している。我々は人間性から自己疎外された「近代」の中に普段生活しているが、旅行によって「近代」ではないもう一つの世界を訪ね、そこで真の自己を見いだそうとするという構造である。これが「観光」なのである6)。ところがこれは、近代以降のファンタジーへの欲求に極めて近い。小谷真理は「モダン・ファンタジー」の定義を、同じように「近代」成立以降の世界において、「近代合理主義のネガとしての超自然現象をその拠り所と」するものと考えるべきであると論じている7)。つまりこれらの議論は、「近代」に住む我々はしばしば「近代」の外部の空間へと一時的に移動せざるを得ない、という指摘なのである。


 では、さらに問いを進めてみよう。我々は、何故「近代」の外部へと一時的に向かうのだろうか。グレイバーンは、旅行を儀礼として解釈している8)。我々は旅行に出ることで出発前の日常から別の時間へと移動するが、この時間は聖なる時間である。我々は聖なる時間と俗なる時間を交互に体験していく事で生活を分節しているが、グレイバーンによれば、特に欧米や日本のような産業社会の人々は、旅行によってこの聖俗の時間の交差を呼び起こす傾向が強いのだ。「観光」とは、聖なる経験なのである。


 さて、グレイバーンが指摘した「観光」の構造は、文化人類学においてエドムント・リーチEdmund Ronald Leachやヴィクター・ターナーVictorWhitter Turnerが論じた祝祭の構造そのものである。このような祝祭としての旅行のあり方は、近代以前の旅行にも当てはまるから、マッカネルが論じた「近代」とその外部との往還としての「観光」は、より大きな構造、すなわち祝祭としての「観光」という構造に回収する事が可能である。では祝祭とは何か。哲学者ロジェ・カイヨワRogerCailloisは、コスモスとカオスという概念を用いて祝祭を説明している。普段我々が住んでいるのは俗なるコスモス、つまり秩序ある世界である。一方、祝祭とは聖なるカオスであり、世界が創造された時代のメタファーである。世界は聖なる力によってカオスから創造され、秩序を与えられる事でコスモスとなったが、コスモスは聖なる力を失っているから、生々流転によって徐々に活力を失ってしまう。コスモスに活力を蘇らせることが出来るのは聖なる力、すなわち原初のカオスである。よって我々は祝祭においてカオスを召還し、世界を再び誕生させなければならないのである9)。


 この構造を「観光」という営みに読み込んでみよう。我々は「観光」に赴く事によって、日常の空間から非日常の空間へと移行する。非日常の空間にあるのは聖なる力である。我々は「観光」によって聖なる力と接触し、やがて帰還すべき日常の空間へ活力を持ち帰るのだ。例えば山下理恵子は自らのアイルランド経験について、「ハレ」と「ケ」の二項対立を用いて次のように述べている。「アイルランドに来て、私は「ハレ」の世界を取り戻した。自分がアイリッシュ・ダンスを踊ることで再び非日常の世界に身を置いたのだ。」10)


 さて、宗教学者ミルチア・エリアーデMircea Eliadeはカイヨワの説を発展的に継承し、聖なるカオスへの欲求を以下のように説明している。「起源の時へ回帰したいという希望は、神の現在を再発見したいという希望であると同時に、そのかみにあった強力、新鮮かつ純粋な世界に立ち戻りたいという憧れでもある。それは聖なるものへの渇望であると同時に存在への郷愁である。実存的地平においてこれは、人生を人は最大限の<好条件>を以てくり返しくり返し新たに始めることができる、という確信の中に表現される。そこには単に生存の楽観があるばかりではなく、また無制約の存在肯定がある。宗教的人間は、彼が存在以外の何物をも信ぜず、存在への関与が彼の護持する原初の啓示によって彼に保証されることを、その行動全体によって告知する。」11)つまり、我々が「観光」へと赴く根底にあるのは、我々の実存のレベルにおける、我々が存在することへの欲望なのである。

3.近代における「観光」の構造

  さて、人が「観光」をするという状況は、聖地巡礼やお伊勢参り、グランド・ツアーといった例からも明白ではあるが、近代以前から珍しくは無かった。しかし近代以降の「観光」は、いくつかの点で、それまでとは大きく異なる性格を持っている。そのきっかけとなったのは、マス・ツーリズムの勃興であった。


 ヴォルフガング・シベルブシュWolfgang Schivelbuschは、鉄道の発達にともなう移動時間の劇的な短縮と、出発地と目的地の間で旅行者が経験する空間の極端な変質が、風景に対する独特な感覚をもたらしたと指摘している。鉄道旅行の成立とともに、風景と旅人は車窓という絶対的な境界によって分断されたのであり、鉄道旅行以前の旅人にとっては当たり前のように存在していた旅路の風景と自らの連続性、自分は今異郷の地に存在しているという手応えが消失した。この結果、シベルブシュが「パノラマ的」と呼ぶまなざしが成立したのである。「パノラマ的」なまなざしとは、シベルブシュによれば「知覚される対象ともはや同一的空間に属していない」12)ものであり、つまりはジョン・アーリJohnUrryのいう「観光のまなざし」、すなわち「日常から離れた異なる景色、風景、町並みなどにたいしてまなざしもしくは視線を投げかけること」13)の大規模な出現を準備するものであった。


 この「観光のまなざし」は、「見る」側(ゲスト)から「見られる」側(ホスト)に対する権力作用としても考える事が出来る。「見る」側は、「見られる」側に様々な意味を投射する事が出来るし、この時「見る」側が「見られる」側に与える意味は、「見られる」側が望まない種類の意味である可能性もあるからである。さて、大量輸送手段の発達によって、このような権力作用としての「まなざし」がそれまでには考えられなかった規模で発生し、その大量の「観光のまなざし」が「近代」という企てに結びついた時、エドワード・サイードEdwardW. Saidが『オリエンタリズム』で指摘した状況が、「旅行」という営みにおいても発生した。豊かな経済力を持つ先進工業国家の人々は、自ら一方的に「未開」と規定した地域へと「観光」に出かけ、「観光のまなざし」によって「前近代」、つまり「過去の自分たち」に分類された人々を、自らの「近代」を担保するものとして消費したのである。


 またそれと同時に「観光のまなざし」は、「見られる」人々を創造する。ジャン・ポール・サルトルJean Paul Sartreが「まなざし」の概念について指摘したように、「見る/見られる」という関係が発生すると、「見る」側も「見られる」側も、もはや自己を唯一の自由な主体として考えることは出来なくなる。「見る/見られる」関係は、これに関わる人々に、相互作用を強制するのである。先に述べたように「見る」事は権力作用であるが、「見られる」側もまた、さまざまな戦術を用いて「見る」側における意味の生成に干渉していく。近代の「観光」とは、「観光のまなざし」という形式での「見る/見られる」関係を大量に生み出す人々の大規模な接触であり、相互作用の場なのである。


 本論文においては、以下に述べるような状況を持って、「観光」的状況と定義したい。まず、「見る/見られる」という関係が存在すること、そして「見る」側において、「見る」事、つまり異なる空間へ移動することに対する、実存的な欲求が存在することである。

4.「過去」としてのアイルランド

 「見る/見られる」関係の発生という「観光」的状況の条件を念頭に置くと、我々がまず注目しなければならないのは、アイルランドに住む人々やアイルランドから移民した人々によって歌われていた「レベル・ソング」や「イミグラント・ソング」などのいわゆる「バラッド」、あるいは様々な「ダンス・チューン」よりも、むしろアイルランドをテーマにした多くののシート・ミュージックであろう。ポピュラー音楽の空間における「アイルランド」もまた、「見る」側の実存的欲求により、「見る」側の「まなざし」が発生する事によって、まずは創出されたのである。


 19世紀の初頭、詩人でありピアノ演奏家であったトマス・ムアThomas Mooreは、当時アイルランドの人々が広く愛用していた旋律群に、西洋古典音楽の機能和声システムによる修正を施し、感傷的な歌詞を添えて売り出した。「アイリッシュ・メロディーズ」と呼ばれる一連の楽譜集である。それ以前にもアイルランドを「見る」側から歌った楽譜集が無かったわけではないが、その影響の大きさにおいて、「アイリッシュ・メロディーズ」は特筆すべき存在であろう。ムアによる「春の日、花と輝く(BelieveMe, If all those endearing young charms)」「庭の千草(The last rose ofsummer)」の歌詞からも判るように、この時点よりアイルランドはロマンティックなイメージを与えられていた。そしてこのような「アイルランド」の消費は、イングランドに限られたものでも無かった。


 ウィリアム・ウィリアムスWilliam H. A. Williamsは、19世紀のアメリカ合衆国のポピュラー音楽において、「アイルランド」がいかなるイメージのもとに消費されていたのかを、19世紀のアメリカ合衆国を南北戦争の前後に分けた上で、パーラー・ソング(中流家庭を主に対象とした歌曲で、通常ピアノ伴奏譜に歌詞を添えた楽譜の形態で販売された。ドローイングルーム・バラッドとも、また軽蔑的にコーニー(corny)とも呼ばれる)や演劇の研究によって論じている。ウィリアムスによれば、19世紀のアメリカ合衆国における「アイルランド」には、ロマンティックなイメージと、コミカルなイメージが同居していた14)。以下においてその概況を見る。


 トマス・ムアの「アイリッシュ・メロディーズ」が発展させたロマンティックな「アイルランド」というイメージは、アメリカ合衆国においても広まった。ウィリアムスによれば、南北戦争以前にアメリカ合衆国で販売されたアイルランドに関わるパーラー・ソングにおいて、アイルランドに対する政治的あるいは愛国的な感情を歌ったものは、ムアの仕事を除けば全体の10%を僅かに越える程度であった。また、アイルランドに関わるパーラー・ソングの表紙の26%に風景があしらわれてはいたが、その中で明らかにアイルランドの特定の土地の風景と判断可能なものはごくわずかであり、ほとんどは単なる「美しい風景」でしかなかった。つまり、パーラー・ソングの中の「アイルランド」は、現実の同時代のアイルランドとは、あまり関係のない場所だったのである。しかし、現実のアイルランドとアイルランドの人々は、完全に無視されていたわけではない。アイルランドの人々の経験は都合良く継ぎ合わされ、パーラー・ソングのあちこちに接合されていった。当時アイルランドの人々が直面していた、貧困から逃れる為の移民という経験には、アメリカ合衆国の中流階級が共有する「移民による苦難の果ての勝利」という経験が重ね合わされ、アメリカ合衆国の中流階級は、同時代のアイルランド移民を「過去の我々」として消費した。アイルランド移民が直面している困難は、かつてアメリカ合衆国の中流階級の祖先たちが勇敢にも乗り越えて行った困難を思い起こさせたのである。又、彼らが後にして来た土地は記憶の中で次第に美化され、牧歌的で豊かな自然に祝福された幻の「アイルランド」に接合されていった。


 一方、「パディ」に代表されるコミカルなステージ・アイリッシュマンのイメージについても、消費者側に都合の良いステロタイプ化を受けているという点では全く同じである。粗野で間抜けなアイルランドの農夫「パディ」は、イングランドの演劇から輸入された後アイルランド移民に重ね合わされ、アメリカ合衆国の「笑い」の定番キャラクターとして定着した15)。その反面「アイルランド娘」は、南北戦争以前のアメリカ合衆国におけるパーラー・ソングにおいては、富も名誉も要求せず、素朴ではあっても野卑ではなく、自然な繊細さと美しさを兼ね備えている、といった具合の「理想の恋人」であった16)。とはいえ、「パディ」にせよ「アイルランド娘」にせよ、「近代」の住民であったアメリカ合衆国の中流階級に対しては、その「近代性」を保証してくれる「過去」の住民である事に変わりはない。「観光のまなざし」における「見る」側の権力の発動は、まずこのようにして幻の「アイルランド」を作り上げたのである。

5.「観光」的状況の出現

 しかし、この段階における「アイルランド」の消費は、未だ「観光」という段階には達していない。ゲストとホストとの相互作用は極めて限定された規模でしか発生していなかったからである。この段階において「アイルランド」はモダン・ファンタジーにおける「ミドルアースMiddle-Earth」や「ナルニアNarnia」のような場所であって、実体を持たない、その中では幾らでも入れ替えが可能な汎用記号群の中の記号の一つであったと言えよう。端的に言えば、「ポピュラー音楽」の世界に最初に「アイルランド」が出現した時、「アイルランド」はモダン・ファンタジーだったのだ。「見られる」側であるアイルランドが、「見る」側に対してその実在性と独自性を主張し、自らをそれまでに流通していた汎用記号と置き換えてゆくのは、19世紀後半の事である。


 大飢饉とともに爆発的に増加したアイルランドからアメリカ合衆国への移民たちがアメリカで目にしたのは、「パディ」として戯画化された自分たちの姿であった。先に述べたように、これはアメリカ合衆国の中流階級以上の人々にとっては、自らの「近代」性、優越性を確認する為の戯画化であったが、アイルランドからの移民たちにとって決して気持ちの良いものでは無い。そこで彼らが選択したのは正面切っての反発ではなく、より巧妙な戦略であった。彼らは「見る」側によって既に創り出されていた幻の「アイルランド」の中にいったん忍び込み、そのイメージを徐々に反転させていった。


 例えば19世紀後半、アメリカにおける音楽実践の主要な形態の一つとして、ヴォードビル(歌や踊り、今でいう漫才のような掛け合いなどを揃えた、バラエティ・ショーの一種)があった。それまでパーラー・ソングとして、主に中流階級の間で流通していた「アイルランド」は、ヴォードビルやミンストレル・ショーなどによって、より下の階層にも消費されるようになり、「パディ」は田舎者の農夫から、大酒飲みで喧嘩早く、しかし相変わらず間抜けな事には変わりない都市の下層労働者「パット」へと変身しつつあった。このようなヴォードビルの出演者には多くのアイルランド移民が含まれていたが17)、これは「見られる」者としての「アイルランド」の出現であり、「アイルランド」を巡る表象が「観光」的状況に移行したという事である。アイルランド移民たちは、ヴォードビルの出演者として、また観客として、さり気なく「パディ」像や「パット」像を描き換えていった。1840年代にアメリカに渡ったダンサーであるバーニー・ウィリアムスBarneyWilliamsは、ヴォードビルのステージにおいて「パディ」の「間抜け」なイメージを「親切さ」に読み替える事で、アイルランド移民たちによって「本物のパディであり、アイルランドの真の息子」と賞賛されているし18)、ウィリアムスの調査によれば、アイルランドに関わるポピュラー音楽における、アイルランド人に対する肯定的なイメージは、1860年代から1870年代で全体の1割以上1880年代から1890年代においては、16%程度まで増加したという19)。


 すなわち彼らは、「アイルランド」表象を巡る「観光」的状況の中で、「近代」の対極として表象されて来た「アイルランド」を逆手に取り、前「近代」のイメージに「気前の良さ」「共同体意識」「勇気と忠誠」などの肯定的な意味を与えるというアイデンティティの政治を展開したのであった。

6.20世紀における「アイルランド」音楽の戦略

 さて、このような「観光」的状況における「アイルランド」の表象は、20世紀後半に入ると「見られる」側からのさらに積極的な戦略によってコントロールされるようになる。具体的には「伝統」の主張と真正性の表象による「紛い物」の排除である。そのきっかけとなったのは、作曲家ショーン・オ・リアダSean・ Riadaと、フォーク・グループのクランシー・ブラザーズClancy Brothersだった。


 1950年代よりアイルランドの「伝統」的音楽の復興に取り組んだショーン・オ・リアダは、アイルランドの「伝統」的音楽を西洋古典音楽と同じやり方で提示してみせた。彼は正装させた「伝統」的音楽家たちであるキョールトリ・クーランCeoltoiriChualannを舞台に上げ、いわゆる「芸術」としてアイルランドの「伝統」的音楽を聴かせたのである。この実験は、アイルランドの「伝統」的音楽に対する認識の変容を生み出した。つまりショーン・オ・リアダは、アイルランドの人々自身が愛好する音楽を外在化し、客体化して見せたのである。ショーン・オ・リアダはさらに、アイルランドの「伝統」的音楽をアイルランドの独立の過程を扱った1960年のドキュメンタリー映画『ミシャ・エーラMiseEire』の音楽の素材としても利用したが、この映画の成功もアイルランドの人々に対し、自分たちの愛好してきた音楽を「アイルランド」という「想像の共同体」に結びつけて考えるという立場を提起する事となった20)。


 一方、1950年代のアメリカ合衆国におけるフォーク・ブームは、アイルランドから移民していった歌好きの青年たちを、ひょんなきっかけでエド・サリヴァン・ショーに出演するようなスターにしてしまう。クランシー・ブラザーズである。アメリカ合衆国のマスメディアと資本によってスターダムに持ち上げられたクランシー・ブラザーズは、1960年代にはアイルランドへの凱旋公演も果たしている21)。当時アイルランドの人々が愛好していた歌曲群は、クランシー・ブラザーズのレコードにより再帰的に「アイルランドの音楽」として認知されていった。


 ショーン・オ・リアダやクランシー・ブラザーズの活動によって「伝統」として発見されたアイルランドの音楽は、1970年代に入るとホースリップスHorselipsやシン・リジィThinLizzyによってロックの文法へと引き入れられるなどして、質と量の両側面において大きな変化を見せてゆく22)。これはアイルランドの音楽が「ポピュラー音楽」として発展していく過程でもあるが、この結果アイルランドの音楽は、「ワールド・ミュージック」ブームにも後押しされて、1990年代には多くの先進工業国で「アイルランド」ブームらしきものまでも引き起こした。そしてパーラー・ソングに代表される、アイルランドの外で、しばしばアイルランド系でさえ無い人々によって製作されていた「アイルランド」音楽は「紛い物」として排除され、これに替わってアイルランドで製作された、アイルランドの人々が実際に愛好している(とされる)音楽が、「観光」的状況に置かれる事となる。


 さて、このような動きを可能にしたのは、「見る」側における実存的欲求の性質であった。先にも述べたように、「観光」的状況において、「見る」側つまりゲストは、本来彼らが生活している空間から出ざるを得ない欲求を持っている。この欲求は聖性との接触への欲求であるが、カイヨワによれば、我々は聖性の領域において、二つの相対立する属性を経験するという。清浄と不浄である。これらの属性はどちらもまさに畏るべきものであると同時に、この上なく魅惑的なものでもある。清浄なるものは俗なる領域における善に相当する。不浄なるものは同じく悪に相当する。清浄は善なる神性に結びつき、不浄は悪神に結びつく23)。我々が「観光」に向かうのは、実存のレベルにおいては、聖性に触れることで再び誕生する為である。とするならば、「観光」的状況において、我々は清浄なるものに触れなければならない。そしてその清浄さは純粋であれば純粋であるほど、我々を再生させる力が強い。マッカネルは、我々の「観光」をオーセンティシティ、つまり真正性の追求行動という視点から論じているが、我々が「観光」において真正性を求めるのは、それが清浄なものであるからなのだ。


 このような価値構造を利用したのが「伝統」を標榜したアイルランドの音楽家たちだった。彼らはパーラー・バラッドを蔑み、紛い物として嫌悪し、自分たちの音楽こそが真正性を持つアイルランドの音楽であると主張した。たしかにパーラー・バラッドは主に「アイルランド」を「見る」側によって創られた音楽であったし、19世紀後半以降アイルランド移民たちが展開したアイデンティティの政治によって「アイルランド」のイメージは充分に肯定的なものへと反転していたから、アイルランドの「伝統」音楽は「アイルランド・観光」音楽の市場においてすんなりと勝利を収めることが可能だったのである。

7.ノスタルジアとエキゾティシズム

 しかしここに至って、さらに大きな一つの疑問が浮上する。何故アイルランドは、「観光」的な音楽消費において、レゲエやサルサ、ガムランなどと並ぶ一大勢力となる事が可能だったのだろうか。19世紀のイングランドやアメリカ合衆国にとっては、「アイルランド」は身近な「過去」であった。だが、広範なグローバル化が進展した20世紀後半において、イングランドやアメリカ合衆国のみならず、日本においてまでも「アイルランド」に関わる音楽が「観光」的に消費されたのは何故か。この問題を考える時、「過去」の参照という構造が再び重要になってくる。


 前章で述べたような真正性を梃子として、アイルランドの「伝統」的音楽の演奏家たちは半ば必然的に「アイルランド・観光」音楽の市場の主導権を手にしたのであるが、さらに1990年代に入ると、アイルランドの「伝統」音楽家たちの「アイルランド」表象は、より壮大な風景を描き始める。1990年から1991年にかけてBBCとRTEが製作したドキュメンタリー番組とレコード、そして解説書は「BringingIt all back home」と名付けられ、いわゆる「アイリッシュ・ミュージック」と呼ばれる音楽概念と、その製作者たちのアイデンティティ政治において、大きな役割を果たす事となった。


 この一連の企画が提示したのは、現代の先進工業国諸国におけるポップ・ミュージックのルーツとしてアフリカン・アメリカンの音楽に匹敵するのが、アイルランド音楽である、という壮大な物語である。この企画の中心となったのはプランクシティPlanxty、ボシー・バンドBothyBand、ムーヴィングハーツMoving Heartsといった人気バンドを渡り歩いた大立者ドーナル・ラニーであったが、1997年にはアメリカ合衆国で、今度はチーフテンズのパディ・モローニPaddyMoloneyが中心となり、ディズニー主導の「The Irish In America-Long Journey Home」という似たような企画が生まれている。注目して欲しいのはこの二つの企画のタイトルだ。どちらにも「home」という単語が入っている事が示すように、1990年代の「観光」的「アイルランド」表象は、遙か彼方にある「home」への帰還という物語を語った。そして、これらはある種のノスタルジアと見ることが出来る。


 社会学者フレッド・デーヴィスFred Davisは、ノスタルジアに関して次のように述べている。「ノスタルジアの体験が持続するための滋養分をどれほど過去の記憶から引き出してこようと、われわれがノスタルジアを感じるきっかけとなる要因はやはり現在のなかに存在しているはずである。」24)つまり、ノスタルジアは単に過去を振り返る行為ではなく、現在の我々が必要に応じて過去を参照する行為なのである。では、何故我々はノスタルジアという形式で過去を参照するのか。これはデーヴィスによれば、過去の様々な困難が最終的には乗り越えられた、という事を確認したいからであるという25)。このような心の動きはエリアーデの言う「存在論的郷愁」を想起させる。エリアーデは次のように指摘している。「かの時(illudtempus)への周期的回帰は主として太初の完全性への郷愁から説明される。」26)我々は日常というコスモスにおいて、常にカオスの侵入の危険にさらされている27)。コスモスがカオスを制圧出来なければ、我々はアノミーに陥ってしまう。ここで作動するのがノスタルジアなのだ。原初の時間においてコスモスはカオスより生まれたのだから、これを参照する限りでは、現在において我々を脅かしているカオスもまた最終的にはコスモスへと回収されるはずだ、と願うのである。


 過去の「アイルランド」を襲った大飢饉というカオスは、アイルランドの人々の海外離散という悲劇を引き起こした。しかし彼らは最終的にはアメリカ合衆国などの移民先にしっかりと根を下ろし、アイルランドの音楽を世界に広げた。カオスはコスモスへと回収されたのである。「BringingIt all back home」や「The Irish In America-Long Journey Home」が語ったのは、このような物語であった。我々が「観光」によって「近代以前」を消費するのは、「近代」と「近代以前」の弁証法によって自らの優越を確認するとともに、「近代以前」というカオスから「近代」というコスモスへの移行と秩序生成の物語を確認せんがためでもあったのだ。


 さて、このようなノスタルジアは、時間における彼岸への憧憬である。しかし我々は今のところ時間旅行をする事は出来ない。よって、ノスタルジアに従って過去へと向かう事は出来ない。そこで我々は空間を旅行する。スーザン・スチュワートSusanStewartがジャン・ボードリヤールJean Baudrillardに言及しながら指摘したように、時間における彼岸を空間における彼岸に写像すると、その憧憬はエキゾティシズムになる28)。エキゾティシズムは、遙かな見知らぬ土地に、聖なるカオスから生まれた全きコスモスを投射する。我々が普段暮らす日常の空間は、先にも述べた通り常にカオスの侵入に脅かされている。そこで我々は、遙か彼方の国には全きコスモスが存在する事を願うのである。そして、その全きコスモスの国へと「観光」に赴く。彼我の距離が遠ければ遠いほど、その国に聖性を投射する聖と俗の弁証法は強力になる。その極端な例の一つは浄土思想における極楽浄土であろう。我々は當麻曼陀羅にエキゾティシズムの極限を見ることが出来る。このようにして「観光」地にはノスタルジアやエキゾティシズムによって聖性が投射されるが、同時に「観光」的状況には不可避な「見る/見られる」というまなざしの弁証法により、聖性が投射された「見られる」側もまた、「見る」側に対してアイデンティティの政治を行う。我々は目的地において、自らが投射し、さらにホストとの間で交渉を行いながら創り上げた聖性に触れ、再び生まれるのである。


 20世紀の最後の10年に「アイルランド」が帯びたのは、まずはアイルランドとその海外移民の子孫たちによる、ノスタルジアの投射であった。これはアメリカ合衆国という、グローバルなマスメディア商品の市場における最大の生産・消費国において発生したから、その影響は先進工業国各国に広まった。そして「見る」側からのノスタルジアの投射は、「見られる」側におけるノスタルジアの表象を呼び起こす。このノスタルジアの表象は、エキゾティシズムの表象と非常に親和性が高い。何故ならば、ノスタルジアもエキゾティシズムも彼岸への憧憬であり、彼岸からの呼び声だという点では同じものだからである。かくして日本に住む人々もまた、エキゾティシズムによって遙かな国「アイルランド」に全きコスモスという聖性を見ることとなった。また「アイルランド」の「伝統」的音楽家とそれを媒介するメディアによるノスタルジアの表象は、「アイルランド」をエキゾティシズムの対象であり、かつノスタルジアの対象となる希有な国として経験させる。このエキゾティシズムとノスタルジアの同居、つまり1990年代に大々的に展開された「アイルランド」の「音楽」のノスタルジックな物語の表象こそが、「アイルランド」を一大「観光」地として、さらには「観光」音楽の一大産地として、再定義したのであった。


 丸山薫が「汽車に乗つて あいるらんどのやうな田舎へ行かう」と書いてから実に70年近くが過ぎ去ってはいたが、我々は「あいるらんどのやうな田舎」へと、汽車ではなくエア・リンガスによって、あるいは「アイリッシュ・ミュージック」のCDをプレイヤーのトレイにセットする事によって、「観光」に赴いたのである。



1)横江茂『エアリアガイド/157:アイルランドの旅』、昭文社、1990年、61、104-105、111頁。
2) 「地球の歩き方」編集室編『地球の歩き方81:アイルランドユ98-ユ99年版』(改訂第4版)、ダイヤモンド社、1998年、227-229頁。
3) ECG編集室編『ヨーロッパ・カルチャーガイド10:アイルランド・パブとギネスと音楽と』、トラベルジャーナル、1998年、9-46頁。
4) Hobsbawm, E. and Ranger, T. (Eds), The Invention of Tradition, Cambridge, The Press Syndicate of the University of Cambridge,1983.
5)安村克己「観光の歴史」、岡本伸行編『観光学入門 : ポスト・マス・ツーリズムの観光学』、有斐閣、2001年、33頁。
6) Maccannell, Dean, The Tourist: A New Theory of the Leisure Class, New York: Schocken Books, 1975, pp.1-3.
7)小谷真理『ファンタジーの冒険』、筑摩書房、1998年、10-18頁。
8) Graburn, Nelson N. H., ヤTourism: The Sacred Journeyユ in Smith, Valebbbe L. ed. Hosts and Guests: The Anthropology of Tourism, Philadelphia: The University of Pennsylvania Press, 1989 (1977), pp.24-26.
9) ロジェ・カイヨワ(塚原史・吉本素子・小幡一雄・中村典子・守永直幹訳)『人間と聖なるもの(改訳版)』、せりか書房、1994年、154-163頁。ポスト近代の時代に生きる我々に聖性との接触を持って「観光」を位置づけるのはナンセンスである、という反論があるかもしれない。たしかに「近代」という企ては世界の大規模な世俗化をもたらし、我々の目に見える場所における明示的な宗教の営みを減量する事には成功した。しかしエリアーデは、「純粋な理性人というものは一つの抽象であって、現実にはどこにも存在しない」と主張し、「みずから非宗教的と感じ、かつ自称する現代人がなお、偽装した神話や堕落した祭式をふんだんに用いている。たとえばすでに触れたように、新年の行事とか新築祝いは、世俗化してはいるもののなおやはり更新祭儀の構造を持っている。」と指摘している。我々は、我々の存在する空間および時間をなんらかの方法によって分節しなければ、それらを認識し利用する事が出来ない。この時空間の分節の基準点をもたらすのは聖なる力であって、それ故我々はみな宗教的人間である。ミルチャ・エリアーデ(風間敏夫訳)『聖と俗:宗教的なるものの本質について』、法政大学出版局、1969年、195-200頁。
10) 山下理恵子『アイルランドでダンスに夢中』、東京書籍、1998年、7頁。
11) エリアーデ前掲書、85頁。
12)ヴォルフガング・シベルブシュ(加藤二郎訳)『鉄道旅行の歴史』、法政大学出版局、1982年、79-80頁。なお、シベルブシュは「空間と時間の抹殺」という表現をしているが、筆者は「抹殺」ではなく「極端な変質」と考えている。鉄道での移動にはそれ独特の時間と空間があり、また我々は今ではそのような時間と空間に旅情を感じるようになっているのである。
13)ジョン・アーリ(加太宏邦訳)『観光のまなざしー現代社会におけるレジャーと旅行』、法政大学出版局、1995年、2頁。
14) Williams, William H.A., ヤTwas only an Irishmanユs Dream: The Image of Ireland and the Irish In American Popular Song Lyrics, 1800-1920, Urbana and Chicago, University of Illinois Press, 1996, p48.
15) Ibid. , pp.56-66.
16) Ibid. , pp.38-39.
17) Ibid. , pp.126-129.
18) Ibid. , p87.
19) Ibid. , p158.
20) ヌーラ・オコーナー(茂木健・大島豊訳)『アイリッシュ・ソウルを求めて』、1993年、大栄出版、184-190頁。
21)同、209-219頁。
22)同、232-252頁。
23) カイヨワ前掲書、44-84頁。
24)フレッド・デーヴィス(間場寿一・荻野美穂・細辻恵子訳)『ノスタルジアの社会学』、世界思想社、1990年、15頁。
25)同、53-59頁。
26)エリアーデ前掲書、83頁。
27)ここではカイヨワの用語法に従ってコスモスという言葉を使用しているが、これはピーター・バーガーPeter L. Bergerのいうノモス(規範秩序)に重ね合わせる事が出来る。バーガーによれば、ノモスが「宇宙に内在する基本的な意味と考えられるもの」と合同した時に、ノモスは宇宙論としてコスモスとなるのである。ピーター・L・バーガー(園田稔訳)『聖なる天蓋:神聖世界の社会学』、新曜社、1979年、37頁。
28)スーザン・スチュワート(高山宏訳)「欲望のオブジェーースーヴェニールについて」『世界文学のフロンティア4:ノスタルジア』、岩波書店、1996年、289-290頁。

http://www.k5.dion.ne.jp/~bearhug/eire.html





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