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安倍晋三と阿久悠 投稿者:*鬼薔薇 投稿日:2007年 9月12日(水)
ヘンな取り合わせとお思いでしょうけど(苦笑)、夜のテレビで連続して観てしまいましたので。7時のNHKニュースは「衝撃、安倍辞任」の特集、その後民放の「巨星阿久悠の世界」を視て、いろいろ考えさせられました。
お昼の連ドラも終わりかけのところに飛び込んできた「安倍辞任」には正直ビックリさせられました。このところの安倍内閣については余りに哀れというか、同情さえ誘われてとても批判めいたことを書くつもりにもなれず、どうせそう長くはないことだし早く辞めれば、安倍チャン、という気分でいたのですが、まさかそれが今日とは! 選挙惨敗―続投表明―内閣改造―国会所信表明まで来たところで「ボク、もうイヤっ!」といったこの自爆劇は、戦後政治史上およそ前代未聞の惨めさですね。敗北とか自壊とか責任放棄といった類の言葉をいくら思い浮かべてもあまりに上等・キレイにすぎる感じを拭えません。
安倍内閣を特徴づけたのは何より相次ぐ閣僚スキャンダルでした。それは官邸の危機管理能力が地に墜ちていたことを示すものでございましょう。「安保・防衛」がウリだった安倍首相が自身の政権の安全保障(セキュリティ)にまるで無能だったというのは皮肉な話かもわかりませんが、それも含めて安部政権は、先代小泉政権の「官邸独裁」を支えた権力装置を引き継いでいなかったわけですね。言い換えれば安倍内閣は、小泉政権が独占した「改革」の“光”に対してその“陰”の側面を引き受けさせられながら、それに対応するだけの政治力を持てぬどころかその必要性すら自覚できぬまま惨めに潰えたということになりましょうか。いささかの同情を誘われる所以でございます。
この自爆の表出する「惨めさ」は、単に政権にとどまらず、政権を成り立たせる社会の基底の今日を照らし出しているのかもわかりません。「年金」に代表された行政の腐敗にせよ、閣僚級政治家の相次ぐ「政治資金」スキャンダルにせよ、保守政党や官僚機構なりにあった信念といったものがまるでないのですね。わたし、故田中角栄の「ロッキード事件」にはけっこう同情的だったのも、角さんには角さんの信念や筋目というものがあったと思うためでございます。安倍政権は、そうした信念や筋目、言葉を換えていえばある種の倫理規範のようなものが政治や行政から失われてしまっている時代を期せずして反映した存在だったのではないでしょうか。
そのように考えてよいとすれば、それは今の日本社会が基礎部分で壊れていることに規定されているように思います。7時のNHKニュースの最後は、若い母親が娘を橋から突落し余所の子を絞め殺して証拠隠滅を図った事件の裁判を伝えておりましたが、幼い子どもに加えられる無体な暴力の蔓延といい、医療現場での医療過誤から果ては遺体遺棄といい、航空業での信じがたい「事故」といい、今のこの社会は「病んでいる」のを通り越して「壊れかけている」と申すべき様相を示していると感じます。
このような社会の壊れがはっきりと露出し始めたのは「バブル」崩壊以後といってよろしいのでしょうけど、それは1980年代中頃に始まっていたのではないか、「巨星阿久悠」の特集番組はそんなことを考えさせるものでございました。
作詞家・阿久悠が歌謡曲シーンでヒットメーカーの地位を不動のものとしたのは、1976年「北の宿から」(都はるみ)、77年「勝手にしやがれ」(沢田研二)、78年「UFO」(ピンクレディー)のレコード大賞三連覇だったかと思います。70歳で逝去して以後「大作詞家」として評価いや増す阿久悠は生前、“後になってから聴いて、それが背負っていた「時代」が思い浮かぶようなものを含んでいる歌”であるべき、と語っていたそうですが、彼の活躍した頃は実はそれが難しくなっていた時代であったように、古いビデオテープで再生される歌を聴きながら感じました。
大賞曲の他、「ざんげの値打ちもない」(北原ミレイ)にせよ「五番街のマリー」(ペドロ&カプリシャス)にせよ「津軽海峡冬景色」(石川さゆり)にせよ、よい歌だったと思うのですが、その「良さ」(敢えて言えば「革新性」)の核にあったのは、不安定感をバネにしたある種の虚構性だったと思うのです。これは、1970年以前の歌謡曲シーンを彩った「演歌〜艶歌〜怨歌」の空間が引きずっていた心情の「現実」感覚を突き放すところに成り立ったものだったと思います。これは(阿久悠を向うに回して)山口百恵を世紀の歌手とした宇崎竜童・阿木耀子夫妻の作品世界の革新性とも対応しておりましょう。
「虚構」とは「非現実」にほかなりません。そうした「現実」離れの虚構性こそが革新的である作品世界は、「時代」と一対一対応しにくいのですね。「勝手にしやがれ」のジュリーを久しぶりに見てその“色っぽさ”にあらためて感じ入りましたが――そして、あれから30年という時間が流れてしまったことに小さくない感慨を覚えますが――ではあの歌がいかなる「時代」を映していたかとなると、それより10年前の60年代後半の歌謡曲シーンを領導した感のある青江三奈・森進一の「夜と恍惚とため息と」系に較べて、あるいは五木寛之が『涙の河を振り返れ』『演歌』に作品化した世界に較べて、その非「現実」性はくっきりとした対照を示していると存じます。
80年代後半は、初めて“産業空洞化”が現実のものとなった「円高不況」の後を受けた「バブル」に象徴されます。それは「大量生産・大量消費」がモノ離れを起こして不動産を基礎に投機へと亢進する時代であり、政治が「民営化」を全面に押し出して行政国家の地位を引き下げていく時代でもございました。阿久悠や宇崎・阿木夫妻の作品群が形象化した虚構性は、この時代の投機的な経済文化のうちにその持つ「革新性」を吸い取られていった、そんな感じが振り返っていたします。“こんなことでホントにいいの?”といった不安に伴奏されながら札束が舞い散った「バブル」の崩壊は、その「不安」の底を見せ付け、不安は不信に亢進しつつ人々の心を蝕み、行政機構や企業社会の責任観念を食い荒らしてきたのではないでしょうか。
安倍辞任の「惨めさ」の背後に、わたし社会の酷い「傷み」具合を感じて、空恐ろしい気分に駆られております。午後の記者会見で小沢民主党代表がみせたあのそっけなさが何を含んでのことかはわかりませんが、志位共産党委員長や福島社民党党首の「無責任」「子供っぽい」発言の「ザマミロ」的な雰囲気とはややちがうものがあったみたいですね。雑誌『世界』最近号は「否定された『安倍改憲路線』」という特集を組んでおりますが、先日の参院選では「改憲」など争点から吹き飛んでしまっていたという単純な事実さえここでは認識の外に置かれているのでしょうか。民主党の圧勝は「野党」全体の勝利では決してなく、「護憲」を掲げた共・社は議席を減らしたのですよね。共社的・「進歩派」的な言説からは、余りに惨めな安倍自爆がまるで「わが勝利」であるかのような錯覚が透けて見え、それ自体ひどく危ういものに思われてなりません。
「現実」の手触り感覚も大事でしょうけど、虚構性こそが持ちうる批判性や革新性の次元を無視しては、バブリーかつイマジナリーな現代の資本制の社会的作用と対峙することはむつかしいのもまた事実でございましょう。政局は大揺れ、「改憲」どころか「特措法」さえ見通し立たぬ臨時国会となるは必定ですが、狭い「政治」の動きを注視しつつも、政治過程を規定する社会過程の総体を見つめるような観察眼、それを支える思想の力が問われるところと存じます。
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