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[参考文献]世界の終りとプロパティ・ワンダーランド【半可思惟】
前回は所有について、社会的行動を経済学的に分析した上で、資本投下保護機能として成立したとする説を紹介しました。今回は所有という観念の思想上の歴史的変遷を辿ることにします。
共和政的徳性と所有
古代における所有概念はいかなるものだったのでしょうか。
哲人政治を提唱したプラトンは財産を厄介の元としてしか取り扱いませんでした。プラトンは、家族中心の所有権観がアテナイ人たちをより強欲にし、通商は何ら品性のためにならないと考えていたのです。アテナイでは、古代社会一般にみられるように、家産制をとっていました。「自分のため」より「家族のため」の方が、人は貪欲に、強欲になれると彼は観察していました。
『法律』において、彼は公の支配からの財産の開放に譲歩せず、共産制を夢見ています。アラン=ライアンはこの点について次のように批判します。
”『法律』は常に無視されてきた著作だったが、それももっともである。というのは、プラトンは確かにここで『国家』のユートピア的共産制が実行不可能であることを認めてはいるが、なおもそれに憧れているからである。”
対して、アリストテレスは財産の目的は家族の維持であると主張し、私的所有を弁護しました。
”彼独特の主張は、家族生活と土地やその他の生活手段と私的所有とは、動かしがたい事実であるとともに、事物が適切に配慮されるための条件でもあるという主張に基づいている。”
ここでアリストテレスが想定していた所有の主体は、農場主です。政治に積極的に参加できるだけの余暇を生む財産を、彼は積極的に支持していたのです。しかし通商によって生じた財産は批判しました。それは、アリストテレスにとって地に足が着いていなくて不自然なものだったのです。
さらに特筆すべきは、アリストテレスが富の再分配によって貧富の非対称性による政治的対立を回避すべきと提案していたことでしょう。彼は中流階級を評価していて、「彼らは貧しい人々のように他人のものを欲しがることもないし、また他の人たちも、貧しい人々が富める人々のものを欲しがるようにして彼らのものを欲しがることもない」と述べています。しかし、それは
”そのような配分は私利に起因する混乱を比較的に免れているという事実だけに頼っている。節度ある資産の持ち主は節度ある野心の人だろう。そのような地位にある人々は、傲慢の誘惑にも、貧困の辛苦にも無縁だろう。彼らはよき市民だろう。これがアリストテレスの説明が依拠していた考え方である。”
アリストテレスもまた市民の品性、良き市民の徳性として道徳的な面から所有という概念を把握していたのです。つまり、彼にとって所有とは品位ある生活をするための世俗的な財を確保するものであり、後述するマキャベリと比べて防衛的・現状維持的性質が見て取れます。
軍事組織と所有
中世においては、所有と軍隊組織と国家論の関係が政治理論家の中心的関心事でした。
マキャベリにとって財産は、軍事的成功のための手段です。マキャベリは、生計のために戦う傭兵は結局裏切るけれど、自分自身の農場のために戦う兵士は祖国のために戦うだろうと考えて、ローマ人を賞賛しました。
フランシス・ベーコンもまた英仏戦争を評して「イングランドの中間層国民はりっぱな兵士になり、フランスの百姓はそうはならない。」「鍬を単なる雇われ者ではなく、土地所有者の手にとどめよ」と述べました。
マンデヴィルは『蜂の寓話』において私利の抑制は不可能であり、無理に抑圧すると経済的に破綻すると述べましたが、さらに私利の追求が意図せざる公益をもたらすことを指摘しました。ヒュームもまた同様に、腐敗のもたらす利益を指摘して、私的所有を正面から肯定しました。これらはアダム・スミスによる「見えざる手」に先立つものです。
このようにして所有の政治的役割は徐々に変化していきました。共和政的徳性と結びつき、市民権享受の条件の一部とされていた所有は、次第に経済的資源として捉えられるようになったのです。近代ではさらにこの傾向が強化され、所有権として、そしてその財産をもとにして人々が行いたいことをする権利として意識されるようになっていきます。
近代的自由の基礎としての所有
近代において所有は、憲法上の自由と結びつくようになりました。なぜなら所有権は、個人が誰からも干渉されずに行使できる資源に対する権利として理解されるようになったからです。
ロックが「なぜなら私は、他の人が正当に、好きなときに私の意に反して私から奪うことができるものについては、所有権を持っていないからである」といった事からも、この傾向は端的に見て取れます。
また、ライアンによれば近代において労働と所有との関係が特に注目されるといいます。つまり労働を人々の繁栄のために払うべきコストとして捉える「道具説」と、労働それ自体が自己実現であり自己表現であるとする「自己発展説」に分類できるというのです。前者は英系の政治思想に属し、大陸系のルソー、カント、ヘーゲル、マルクスは後者の系譜に属するでしょう。
ロックは自己所有権から所有権を敷衍していきましたが、自己所有権は、現代でもノージックやロールズによって議論されている命題です。
ジョン・ロールズは『正義論』の中で、才能や能力といった生まれつきの資質を、道徳的観念から、共同の資産とみなし、所有の対象としています。
ノージックは自己所有権の観念に訴えかけてロールズに異を唱えました。これは、どちらかといえば所有という概念そのものというよりも、所有を正当化する根拠についての争いだと言って良いでしょう。それはライアンが以下のように述べていることからも明らかです。
”ロバート・ノージックが正義の要求に関するこのロールズの見方を反駁しようとするとき、ノージックは権利がいかなる社会契約にも先立ち、そして本性上所有にかかわるということを論じなければならない。
もしロールズに味方しようとするならば、われわれは、福祉国家が福祉だけでなく市民権をも促進するとしてそれを弁護する前に、深刻な、議論の多い、手段に関する問いに答えねばならない。その問題とはこうである。恵まれない人々のためになされる、暮らし向きのよい人から悪い人への財のすべての移転が、自由を縮小することがないような仕方で、財産権を構想することは可能なのか?”
正当化の根拠如何で所有の範囲が確定されますが、その背景にはイデオロギーが必ずと言っていいほど存在しています。これが、「所有」が真正面から語られてこなかった理由でしょう。所有の概念そのものを論じることは、そうした背景ともはや不可分に結びついている以上、不可能にも思えます。
しかしこれまでの変遷をみてみると、逆に観念として共通する部分も次第に見えてくるようにも思えます。でも同時に、所有という概念も連綿と続いてきているようでいて、実は確固たるものではなく、時代によってニュアンスが異なる結構あやふやなものだということもわかります。「所有」概念は変遷しましたが、一部バックラッシュはありつつも概ね「所有」を強化する方向に、すなわち広範にそして強く保護する方向に進んでいるといえるでしょう。
所有
作者: アランライアン, Alan Ryan, 森村進, 桜井徹
出版社/メーカー: 昭和堂
発売日: 1993/10
メディア: 単行本
http://d.hatena.ne.jp/inflorescencia/20070804
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