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『日本は勝てる戦争になぜ負けたのか 』 新野哲也(著) 真珠湾攻撃について、永野とルーズベルトのあいだに、密約があった?
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投稿者 TORA 日時 2007 年 8 月 13 日 14:52:49: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
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『日本は勝てる戦争になぜ負けたのか 』 新野哲也(著) 
真珠湾攻撃について、永野とルーズベルトのあいだに、密約があった?

2007年8月13日 月曜日

◆日本は勝てる戦争になぜ負けたのか 新野哲也 (著)
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31925862

●モダンボーイ・永野修身元帥の正体

御前会議で、永野は、「座して死ぬよりも、断じて打ってでるべし。アメリカに屈しても亡国、たたかっても亡国、どっちみち国が滅びるなら、最後の一兵までたたかって負けるべし、日本精神さえ残れば、子孫は、再起、三起するであろうと」と奏上している。

杉山元参謀総長が、天皇からに勝算を問われ、何もいえずに冷汗をかいているとき、こうとも、いっている。「米英への宣戦布告は、放っておけば死ぬ病人に手術を施すようなもの、手術が成功する保証はありませんが」大雑把で、とても、開戦理由とはいえない。真珠湾攻撃の命令も、山本の好きなようにやらせろ、というだけで、まるで、他人事である。

米内も、真珠湾攻撃計画がとおらなければ山本が辞表を書くと、日米開戦の反対派を牽制しただけだった。二人とも、真珠湾攻撃のゲタを、山本にあずけている。山本は、「こうなったら暴れるだけ」といった。軍人(連合艦隊司令長官)になった山本は、すでに、軍政や政策の埒外に身をおいており、三国同盟や日ソ中立条約の締結が、山本を真珠湾攻撃にむかわせた、とは、考えにくい。

こうなったら、というのは、永野か、米内から指示をうけた、ということである。山本を海軍航空本部長から海軍次官に抜擢したのが永野海軍大臣で、山本海軍次官を連合艦隊司令長官に送りこんだのは、当時、海軍大臣だった米内である。

当時、海軍内には、対米非戦派を中心に、山本五十六を海軍大臣に立てて、日米たたかわずの姿勢をはっきりとうちだすべき、という空気がつよかった。このとき、米内が、とつぜん「陸軍や右翼に狙われているので、海上勤務にする」と、山本を連合艦隊司令長官に任命、旗艦長門に送りこみ、真珠湾攻撃のプランを練らせる。

軍人である艦隊司令長官に、日米開戦の責任をおしつけるのは、筋違いである。真珠湾攻撃は、責任者が永野で、実行者が山本、陰であやつったのが、米内だった。戦後、GHQの協力者となった米内光政を、平和主義者として立てる論調が、とくに、親米保守派や文壇の大御所周辺でつよくなったため、そのことを、だれもいわなくなっただけの話である。

支那戦線拡大論者でもあった米内が、根回しして、対米主戦論者の永野が号令をかけたからこそ、対米非戦論者だった山本が、「ーこうなったら」と、掌を返したように真珠湾攻撃へつきすすんでいったのである。

永野に、太平洋戦略のグランドデザインや真珠湾攻撃以降の具体的な戦術があったわけではない。ミッドウェー海戦からガダルカナル島争奪戦などへいたる一連の作戦で指揮をとったのは、山本で、永野は、「深追いや追撃をするな、艦や飛行機を壊すな」といっただけである。世界史をうごかした、真珠湾攻撃にはじまる太平洋戦略の意思決定として、内実があまりにも空疎、お粗末ではあるまいか。

永野は、御前会議で、天皇に、真珠湾攻撃の曜日をまちがえてつたえている。日曜日を月曜日の早朝、と。その講釈がふるっている。敵さんは、日曜日に遊び疲れてぐったりとしていましょうから。そこでついたあだ名が、ぐったり大将というのだが、ふざけているとしか、いいようがない。

そもそも、ハーバード大学留学組で、長年の駐米武官を経験して、アメリカに友人や知已が多かった永野が、なぜ、やみくもに、アメリカと戦争をしたがったのであろうか。永野は、海軍兵学校の校長だったときに「ダルトン・プラン」を導入している。

ダルトン・プランというのは、自我や個性、自主性を尊重するという、いまのゆとり教育のようなもので、ジョン・デューイという、世界的に有名なアメリカ人哲学者が考えだした教育方法である。永野が、武士道とは水と油の、ジョン・デューイの進歩的思想にふれたのは、ハーバード大学留学中であろう。デューイ本人から直接、薫陶をうけた可能性もある。

メキシコに亡命したトロツキーの事実上の弁謹人を買ってでたデューイは、ルーズベルトの顧問で、ニューディール政策を立案した一人である。日本に共産主義国家をつくろうとしたGHQのトーマス・ビッソンやカナダ代表部のハーパート・ノーマンも、デューイの影響をうけている。

ちなみに、その二人は、アメリカ政府にもぐりこんでいたスパイで、戦後、レツド・パージによって、正体がバレている。ハルノートを工作したハリー・デクスター・ホワイト、蒋介石どルーズベルトをむすびっけて、日米戦争を工作したオーエンラティモアも、スターリンの手先だったとして、戦後、アメリカから追放されている。

ルーズベルトも"赤狩りのマッカーシー"に疑われており、生きていたら、逮捕されていたかもしれない。ルーズベルトも、二つ年下の永野が留学していたハーバード大学の卒業で、二人のあいだに、同窓会パーティなどで、接触がなかったと思うほうがふしぜんだろう。

日本にとって、百害あって一利もなく、アメリカにとって、参戦の切り札になる真珠湾攻撃について、永野とルーズベルトのあいだに、密約があったとすれば、戦後、アメリカが、永野を生かしておくだろうか。

戦後、GHQから、「なぜ、自決しなかったのか」と問われて、「陸軍の真似(阿南の切腹)と思われるのが不本意だったから」とのべた永野が、戦犯で収監中、巣鴨プリズンで風邪を引き、治療のために収容された米陸軍病院で、急死した。

当時、だれも謀殺の疑いをもたず、たとえ、もったとしても、口にはだせなかったろう。東京裁判で、ルーズベルトとのあいだに密約があったと、永野が証言したら、ルーズベルトが、真珠湾攻撃をあらかじめ知っていたどころの騒ぎではない。東京裁判で、日本側の被告は全員無罪になり、アメリカの原爆投下、都市空襲の非人道性が、あらためて、問われることになったはずである。

ジェームス・リチャードソンという大将が、永野の死後、真の武人なりと敬意を表している。アメリカの海軍大将が真珠湾奇襲の責任者だった永野をほめたのは、口が堅かったからだった。

戦後、だれも、真珠湾攻撃のふしぜんさを口にしない。真珠湾を攻撃しなければ、日本は、日米戦争に勝てた、ということも。それが、永野の怪死によって封じられた、日米戦争最大のタブーだったからである。(P98〜P101)

●「自殺点」をあたえつづけた不可解さ

海軍首脳は、ある時期から、いっせいに、対米非戦派から主戦派へ転向している。日米開戦の功労で元帥になった永野修身、山本五十六を連合艦隊司令長官に任命して真珠湾攻撃のプランを練らせた米内光政海相、東条内閣で海相に就任した鳴田繁太郎、真珠湾攻撃の計画が中止なら、辞表を書くと息巻いた山本五十六ら、海軍の英米派が一丸となって真珠湾にむかっていくすがたは、異様である。

天皇、一人で、日米開戦をくいとめることができるわけもなかった。軍事顧問として天皇のそばについていたのが、広田内閣で海軍大臣に就いて以来、ジリ貧論を唱えてきた永野修身軍令部総長だった。

ジリ貧論というのは、アメリカの石油・くず鉄禁輸がつづくと、油や資材がなくなって、日本は滅びるというもので、そこから、対米開戦論がひきだされてくる。だが、石油は、南方やペルシャ方面(中東)にあり、永野のジリ貧論→対米開戦は、論理破綻である。

ところが、岡田啓介、永野修身、米内光政ら海軍の重鎮は、かつて、近衛や東条が、戦略目標がないまま支那へ兵をすすめたように、戦略なき日米開戦にむかって突っ走ってゆく。太平洋における日米の艦隊決戦は、戦略的に誤っているだけではなかった。戦術的にも欠陥だらけだった。

戦略も戦術も、勝算すら立てない海軍のたたかいぷりがいかに不可解なものだったか、もういちど、ふり返ってみる。海軍には、そもそも、太平洋海域の防衛計画がなかった。防衛計画のないまま攻撃をしかけると、制海権を維持することができない。局地戦で連戦連勝でも、支那大陸をおさえることができないのと同じことで、太平洋で制海権をとれなければ、防衛線を破られて、日本は、輸送船を失ってインドシナや南洋で孤立する。

しかも、海軍は、高速の補給船をほとんどもっていなかっだ。島で陸兵が孤立して、餓死においやられたのは、海軍が戦術の三大原則をふみはずしたせいである。海戦の三大原則とは、一つは海路防衛、二つ目は輸送機能、三つ目は上陸援護である。海路防衛は、敵の艦隊や潜水艦を近づかせないという安全航路の設営で、緻密な計算の上になりたっている。海路防衛が完全でなければ、輸送船や民間の船舶は、どこをとおっていけばよいかわからず、うろうろしているうち、潜水艦の餌食になる。

輸送機能は、民間の輸送船や軍の補給船の護衛である。だが、海軍は、護衛船団方式の何たるかを知らなかった。気休めに駆逐艦をつけただけでは、半分が、撃沈される。海上輸送は一戦艦同士が艦砲を撃ち合い、艦上機をとばしあうのと同様、重要な戦闘行為なのだが、海軍には、その認識がなかった。

三つめが、陸兵の上陸援護である。日本の海軍は、陸軍の上陸作戦を援護するのが、主たる任務と知らず、知っていても、そのセオリーに背いた。陸軍と海軍が、いがみあっていたのにくわえ、両軍を統合する作戦本部がなかったからだった。

ガダルカナル戦で兵士が飢えているとき、今村大将が海軍に食糧補給をたのむと、草鹿参謀長は「駆逐艦や潜水艦は戦闘に使いたいから」と断わっている。今村は怒って「おれもこれからガダルカナルに行って飢死する」と山本五十六に直訴、ようやく艦隊をださせたというエピソードが残っている。

日本の海軍は、海路を設営せず、輸送船をまもらず、兵站線の確保を怠って、鎌倉時代のいくさの、武将の一騎打ちのように、艦隊決戦をもとめて、赤道のむこうまででかけていった。快進撃は、真珠湾から、辛勝だった珊瑚海海戦までだった。ミッドウェー海戦以降、海軍は、ぽろぽろに負けつづけ、ついに、本土に空襲の危機が迫った。〈米豪分断〉という不要不急の目的のため、赤道をこえたツケがまわってきたのである。

グレート.バリア.リーフのコーラル・シーで、米豪の海路を妨害しても、日本の戦略的利益にはならない。おびただしいエネルギーがついやされて、貴重な兵力や艦船、飛行機が消耗されただけだった。

珊瑚海海戦では、指揮官の井上が大破して傾いたヨークタウンを撃沈せず、ひき返してきている。そのヨークタウンが、突貫工事で修理されて、ミツドウェー海戦で日本艦隊に襲いかかった。ミッドウエー海戦で、日本海軍は、壊滅的な被害をうけるが、南太平洋のたたかいでは、ミッドウェーの三倍の損失をうけ、飛行機や熟練したパイロット、残っていた戦艦や空母、重巡、駆逐艦、輸送船のほとんどを失い、日本の海のまもりは、完全に破綻する。

海軍が、なぜ、ニューギニアやソロモン、ガダルカナルで、MO作戦やFS作戦などという不急の作戦を強行して、本土防衛をおろそかにしたのか、謎である。真珠湾攻撃やミッドウェー海戦じたい、大東亜戦争の戦略から、大きく外れている。

ソ連型の敗戦革命は、北進論の放棄と支那戦線の拡大が両輪だった。対ソ戦のみちを封じたうえで、日支を消耗戦にひきこみ、共倒れになったところで、「敗戦から内乱」のセオリーにしたがって、陸軍の一部と革新官僚が、革命軍・ソ連を迎え入れるという筋書きである。

これを、海軍にあてはめると、西方戦略の放棄が、北進論の放棄にあたり、支那戦線の消耗戦が、真珠湾攻撃から南太平洋海戦にいたる海軍の不可解なたたかいに該当する。ちがうのは、敗れた日本を支配するのが、ソ連ではなく、アメリカということだけである。

海軍の太平洋戦略が、戦略的にも戦術的にもずさんで、泥縄式だったのは、西方戦略の代替ようげきとして浮上してきたものだったからで、日米開戦の直前まで、日本の対米戦略は「漸減邀撃作戦」だった。

これは、マリアナ諸島やパラオなど、日本の委任統治領だった赤道以北の島々をまもり、遠路はるばるやってくる米艦隊を、漸次、痛めつけておいて、日本近海で全滅させようというもので、戦略目的は、本土と海路の防衛である。

世界一の戦艦大和と武蔵、質量とも、アメリカ艦隊を上回る空母艦隊と艦上機は、そのためのもので、背後に航空基地をもつ島喚防衛戦で、日本海軍が、遠方からはるばる航海してくるアメリカ海軍に負けるわけはなかった。

真珠湾攻撃も南太平洋の艦隊決戦も、日本が、わざわざ、負けにいったたたかいだった。海軍が、そんな戦略をとったのは、陸軍の親ソ派(統制派)が、支那戦線を拡大させてソ連を救ったようなもので、イギリス仕込みの海軍内部に、チャーチルにつうじるルートがあったとしか考えられない。奇想天外だが、想像をこえているからこそ、敗戦革命は、だれにも気づかれることなく潜行して、あとからふり返っても、歴史的必然としか見えないのである。

日米戦争を指導した海軍の上層部は、すべて英米派で、鬼畜英米より、ヒトラーと手をむすんだ陸軍をはげしく僧んでいた。

東京裁判で、戦犯として裁かれた海軍の将官は、三人で、刑死者は、いない。裁判途中で急死した永野。終身刑から仮釈放後、赦免となった嶋田繁太郎のほかに、岡敬純がいるが、岡は、三国同盟派だった。ちなみに、海軍大臣になった米内は、親独派の岡を即日、寵免して、海軍次官の後釜に、米内と同様、大のヒトラー嫌いだった井上をすえている。

米内と井上にとって、ドイツも、ドイツと同盟をむすんだ陸軍も、英米以上の敵だったのである。'介錯を断わって切腹した阿甫惟幾陸軍大臣は、「米内を斬れ」ということばを残した。敗戦の原因がすべて海軍にあったにもかかわらず、米内は、それを棚に上げて、終戦工作をしたからといわれるが、それだけではないだろう。

阿南は、なにか、嗅ぎとったのである。近衛が、見えない力にあやつられていたような気がするといった、その見えないものが、米内にも宿っていたことを。ヒトラーとむすんだ陸軍が滅び、敗戦をとおして、日本は、アメリカの属国のような国になった。戦時中、英米派として憲兵隊に捕らえられ、戦後、首相になった吉田茂は、それを勝利とよび、憲法改正や国防に、いっさい、関心をしめさなかった。

強国の庇護の下にはいることが、長期的には、日本のためになるのだという敗戦革命の思想が、ニューマ(空気)として、国際派や海軍に浸透していたのであれば、海戦前夜から真珠湾攻撃、南太平洋における壊滅的敗北までの、日本海軍の不可解なうごきに、一応の説明がつくのである。 (P135〜P140)


(私のコメント)
今週は8月15日の終戦記念日があり、テレビなどでもいろいろと特集番組が放送されるのでしょうが、例によって例のごとくの内容であり、歴史の真実に迫ろうというものはない。文芸春秋という雑誌でも日本海軍の特集をやっていましたが、相変わらず海軍善玉論であり、米内光政こそが日中戦争を拡大させた張本人なのだ。

真珠湾攻撃を計画させたのも、ルーズベルトー永野修身のラインがさせた可能性が強い。ルーズベルトと永野修身とはハーバード大学で二つ違いの同窓生だった。山本五十六もハーバードの同窓生でありこの三人が共謀すれば真珠湾攻撃は成功間違いなしだ。まさにハーバードは日本にとって疫病神であり、竹中平蔵も榊原英資もハーバード出で、まさに対日スパイ工作員の養成所なのだ。

「株式日記」では海軍悪玉論を書いてきたのですが、ようやくその認識も広まってきて、阿川弘之などが広めた海軍善玉論は疑問が広まってきている。はたして真珠湾攻撃の必要性はあったのだろうか? どのようにシュミレーションしても失敗する可能性のほうが大きく、それが成功した事の方に疑問を持つべきだろう。 実際にも無線交信が傍受されており、普通ならば失敗していた。

確かに海軍は三国同盟が結ばれるまでは開戦に反対していましたが、それが主戦論になってからは、御前会議などでも陸軍の思惑とは反対に超楽観的な見通しを述べて戦争へ突き進んだ。しかしシュミレーションでは日本海軍が連戦連勝でも二年もすれば燃料がなくなり軍艦は鉄の棺桶になってしまう。海軍が正直にアメリカと戦争しても勝てないと言ってくれれば開戦は防げた可能性が強い。

このように海軍の最高幹部が無責任極まりない発言を繰り返した背景には、永野や米内などはアメリカと共謀して「敗戦革命」を企んでいた可能性すら伺えるのだ。もちろん海軍だけではなく、外務省の吉田茂や白洲次郎や尾崎秀美など近衛のブレーンとなっているメンバーは「敗戦革命」を企んでいたのかもしれない。

確かに日本は大陸にずるずると深みに嵌って抜け出せなくなり、陸軍は陸軍で身動きが出来ない状況になり中国からの撤兵の目処が立たなくなってしまった。内閣はクルクルと総理大臣が変わり、5,15事件や2、26事件などで政府が軍部を統制することも出来なくなってしまっていた。しかし当時の軍人に当時の世界情勢が分かるわけではなく、海外からの謀略に引っ掛けられて戦争に突き進んでしまった。

このような情勢になれば「敗戦革命」を企むグループが出来てもおかしくないのであり、海軍の中にも米内、永野、山本、井上などのグループが敗戦を承知でルーズベルトと共謀した可能性がある。あるいは知らずに操られたのかもしれない。それほど真珠湾攻撃はアメリカにとっては都合が良かった作戦なのだ。

戦時中も海軍と陸軍とはばらばらに行動して統制が取れず、これでは勝てる戦争も勝てない状況になった。陸軍が潜水艦を作り海軍が戦車を作るような軍隊が勝てるわけがない。このようになった国をまとめるには天皇陛下しかいなかったのですが、昭和の時代になると天皇を輔弼する重臣達がいなくなっていた。明治時代は重臣達がいて国も上手く行っていたのですが、憲法などの改正もままならず、軍部が統帥権を乱用し始めると誰も止める事が出来なくなってしまった。

東京裁判では絞首刑になったのは陸軍の軍人ばかりで、海軍で有罪になったのは3人だけだ。さらには米内光政は起訴さえされず不可解だ。単に米英派だったというだけで起訴を免れることが出来るのだろうか? 永野修身も米軍病院で謎の死を遂げているがルーズベルトとの密約をばらされない為の謀殺ではないかという疑いもある。

日本海軍をこのようにみれば大戦中の不可解な作戦もわざと負けるための意図があったと見れば納得がいく。ミッドウェイ海戦も戦力から言えば互角以上の戦力であり負けるはずのない戦闘で負けた。日本側の秘密情報が筒抜けであり、ミッドウェイ作戦も全く意味のない作戦であり、ミッドウェイを占領しても補給がつかない。

「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」という本に書いてある通りに、海軍の戦略や作戦には不可解な事が多く、このような疑問は最近になって指摘されるようになった。アメリカとの開戦は避けてインド洋に進む戦略をとれば、ドイツとの連携で勝てる見込みもあったと考える。開戦理由が石油の確保というのならばインドネシアはもとより中東の油田地帯の占領も考えるべきだったが、そのような作戦は全く検討されなかった。

あるいは北進してソ連を挟み撃ちにしていれば形勢はもっとはっきりと逆転できた。しかし日本海軍は何の意味もないガダルカナルにまで進出して消耗戦で敗戦を決めてしまった。ガダルカナルを占領して航空基地を作ったところで、どのように補給するつもりだったのだろう。軍用機も燃料弾薬がなければ動けない。その反面では絶対国防圏のマリアナ諸島が要塞化がされず、硫黄島のような要塞化がされていれば長期戦も可能だったかもしれない。

いずれにしてもアメリカは原爆を開発していたから、それを使用されたら日本は無条件降伏に追い込まれていただろう。日本でも核爆弾の研究はされてはいたが行き詰っていた。当時の陸軍や海軍で核兵器のことについてどの程度の認識があったのだろうか? それくらい先行きの見通しのできる軍人もおらず、「世界最終戦論」を書いた石原莞爾は軍部の暴走を抑えることができなかった。要するに想像力に欠けた軍人が行き当たりばったりで戦争を始めたから負けたのだ。


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