★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ50 > 347.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
【満州帝国と阿片】日の丸はアヘンのトレードマーク
反米嫌日戦線「狼」(醜敵殲滅)2006年05月25日
北朝鮮による覚せい剤密輸事件が新聞を賑わしているが、そんなの大日本帝国が侵略地中国において行ってきた阿片ビジネスと比べれば、カワイイもんだ。
以下、久保井規夫著『戦争と差別と日本民衆の歴史』(明石書店)より。
ケシ類未熟果実に傷をつけて滲出する乳液を乾燥乾固したものが阿片だ。阿片に含まれているモルヒネは、鎮痛・鎮静・催眠・快楽をもたらす薬剤となる。末期癌患者に使用されることが多い。しかし、連用すると中毒となり、常用しないと禁断症状に苦しむこととなる。モルヒネにアセチルを化合したのがヘロインで、薬効・中毒作用は、更に強くなる。中毒に陥ると、増量して使用しないと禁断症状を起こして死亡するし、常用すれば衰弱して早死にする恐ろしい麻薬だ。この阿片の中毒作用を利用して儲けようとする悪いやつは後を絶たない。国家自体が関わって中国へ密輸したのが、オランダとイギリス、そして我が日本なのだ。
1840年、イギリスは、中国(清王朝)への阿片密輸を禁止された事に貿易の自由を妨害したなどと恥ずべき口実で阿片戦争を仕掛けた。中国は敗北し、イギリスの阿片の毒牙はますます中国民衆を蝕んでいった。中国の弱体をみて、欧米列強は不平等条約を強要し、清王朝は阿片亡国・植民地化の危機に陥ることとなる。
麻薬中毒の恐ろしさに、1912年にハーグ阿片条約、1925年国際連盟によるジュネーブ阿片条約が結ばれたが、欧米の帝国主義者たちは自国への阿片の弊害を防いでも、中国への阿片密輸は続け、それに日本も加わっていった。中国の阿片中毒者(隠者)は増加し、消費される阿片は900万貫(当時5億円)に上った。輸入額を減らそうと中国国内のケシ栽培を認めたが、かえって阿片中毒者を増やすこととなった。1912年、辛亥革命後の中華民国による阿片禁止も、軍閥との抗争や内乱で進まず、そこへ日本の侵略が始まってしまった。
日本は、阿片戦争に驚き、当初は、ケシの栽培や阿片の輸入を厳禁した。しかし、すぐに、医薬品としての鎮痛・麻酔剤としてモルヒネ・ヘロインが必要となり、日本は、阿片の製造・売買や輸出入を政府の許可・専売制とした。
やがて、中国侵略に伴い、中国の阿片問題に介入していくのである。日清戦争後に台湾を領有したことで、日本は阿片中毒者対策で阿片を必要とし、ケシ栽培と阿片輸入は本格化することとなった。
大阪府三島郡福井村の二反長音蔵(にたんおさおとぞう)は、台湾で必要な阿片の殆どを輸入に頼っている貿易赤字を改善するため、内務省の後藤新平の支持で、ケシ栽培に取り組んだ。モルヒネ純度の高いケシの品種改良に成功して、大阪府・和歌山県・京都府・岡山県・福岡県の医薬品原料の商品作物として、農村の収益を高めた。
さらに、遼東半島・山東半島・満州そして上海租界地では、日本陸海軍の特務部が、治外法権の特権を利用して阿片の密売を公然と進めた。医薬品や中毒是正の目的とは無関係となり、中国人相手の阿片・麻薬販売の利益を得ることと、中国民衆の阿片中毒による弱体化が主目的となったのである。このとき陸海軍の手先として活躍したのが笹川良一、児玉誉士夫たちだ。戦後右派の黒幕となり日本を動かしていく曲者たちは阿片で莫大な財産を手中にする。自民湯なんぞ阿片の金で動いていた麻薬党なのである。
拡大した市場は、もはやイギリスの阿片密売の比ではなく、大規模なものとなっていった。植民地朝鮮半島でも、中国への阿片輸出のため、3万〜8万人が従事して、毎年、約8千haのケシを栽培し、毎年、約4万キロもの阿片を製造することとなった。阿片・麻薬の需要は増大し、三井物産と三菱商事が、ドイツ・イラン・トルコ・シンガポールの阿片・麻薬を一手に輸入していた。英仏によって、中国華僑の活躍した東南アジアにも阿片の弊害は及んでいったのだ。実に欧米に成り代わった日本は大東亜阿片圏と言うべき阿片の毒牙をむき、三井・三菱の阿片船がアジアを往来した。
三井物産は上海へ、1938年4月に約3万トン、1939年1月に約7万トンもの阿片を運び込み、南京維新政府の財政を助けた。三菱商事は三井の3.5倍もの量を1939年2月に満州の大連へ運び込んでいる。
南満州進出、21カ条要求、満州事変と中国への日本の侵略は拡大、さらに日中戦争へと突入する。日本は、中国の占領地に満州帝国を始めとする傀儡政権を次々とデッチあげていく。
これらの傀儡政権や親日の軍閥は、日本軍の擁護の下に、阿片を政府・地域の許可・専売制として、阿片・麻薬の利潤を日本軍と分け合った。傀儡政権の満州・内蒙古では堂々とケシが大量栽培されていた。
満州帝国では、約3000万人が20万貫の阿片を吸引し、毎年4万貫の阿片が輸入され、約7万町歩のケシ栽培が行われていたと言われている。
阿片王と呼ばれた二反長音蔵は、満州の長白・臨江・安図へ3回、また満州の熱河省へと指導に赴いている。長白市だけでもケシ栽培は216万坪にもなっていた。中国軍閥の張宗昌(阿片将軍)は日本軍と組んで。吉林・黒竜江省で50〜60万貫のケシ栽培を扱ったという。
内蒙古の山西・チャハルの傀儡政権「蒙古連合自治政府」でも阿片が製造され、張家口には阪田組のヘロイン製造工場があった。阿片・塩・鉱山物が政府の重要な財源となっていたのだ。
日本の占領地経済をまとめていた興亜院が阿片・モルヒネを製造・輸入・販売を管理する組織となり、中国民衆を阿片漬けとしていったのだ。
日本軍の占領地で、日の丸を掲げて商人が阿片も販売したため、中国人が、日の丸を阿片販売の商標だと思っていたという笑えない話も残っている。
さすがに、日本政府による阿片販売は国際問題とされ、国際連盟の議題となっている。
『天津の日本人居留地は、今や世界のヘロイン製造、及び阿片喫煙の神経中枢として知られている。洋行あるいは外国商会名で経営される阿片あるいはヘロイン魔窟の数はまさしく千を超えている。しかのみならず、白色麻薬を公然販売するホテル店舗、その他の建物が数百ある。……中国人・ロシア人及び外国人が汚れた板の上に横たわっており……魔窟の第1室には朝鮮人の女が。ヘロインと不純物とを混合する仕事に忙しい。……注射は汚い注射器で、時には自製の物でなされる。針は決して洗ったり、消毒したり、取り替えることはない。梅毒が自由に針を介して一人の阿片常用者から他の者へ蔓延する。私は、胸一面が腐って壊疽のような肉塊をなしており、拳全部を差し込むことができるような穴が体にある阿片常用者を幾人も見たことがある。こんな腐敗しつつある辛うじて生命を保っている死体に、麻酔剤の注射器を次から次へと差し込むのである。(国際連盟阿片諮問委員会議事録よりエジプト代表ラッセル・パッシャの陳述)』
なんとも酷い、日本による阿片汚染の実態である。これが大東亜共栄圏の実態である。
シンゾーの祖父岸信介は1936年10月に満州国国務院実業部総務司長(満州国における行政機関。同国は議会を持たなかったため、国政の最高機関であった)に就任。満州時代に関東軍参謀長の東条英機や日産コンツェルンの総帥鮎川義介ら軍部や財界要人と関係を結んでいった。阿片による莫大な金が岸に動いたことは容易に想像できる。
シンゾーは中国に対し強気の発言をしているが、中国に阿片を広め、その甘い汁を吸ってきた祖父を尊敬する者の発言に説得力はない。
http://anarchist.seesaa.net/article/18290735.html
岸 信介(首相)KISHI Nobusuke (1896-1987) −「昭和の妖怪」−
(20051121作成、20060307修正)
1896(明治29)年11月13日、山口県熊毛郡田布施村(現、田布施町)に生まれる。酒造業を営む佐藤秀助の第五子で二男。岸家の養子となる。叔父に鮎川義介、松岡洋右、弟に後に首相となった佐藤栄作、安倍晋太郎は娘婿である。
旧制山口中学(現山口県立山口高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1920年(大正9)に東京帝国大学法学部を首席で卒業。農商務省に入省し、同省分割の際には商工省に勤務することとなる。1936(昭和11)年満洲国実業部総務司長として渡満、数年後総務庁次長となり、革新官僚として満州国の産業開発を主導し、その実力を遺憾なく発揮、東條英機などと共に満洲の実権を握る。「満州の三スケ」(満州の実力者、鮎川義介、岸信介、松岡洋右の総称)、「満州三角同盟」(満州の実力者、東條英機、岸信介、星野直樹の総称)と渾名される。1939(昭和14)年帰国、商工次官となる。1941(昭和16)年1月商工大臣と対立して辞職するが、東條英機内閣で商工大臣(1941(昭和16)年10月18日〜1943(昭和18)年10月8日)、1942(昭和17)年の翼賛選挙で衆議院議員に当選。商工省が改組され軍需省となるが、大臣は東條首相が兼任し、岸は軍需次官(1943(昭和18)年10月8日〜1944(昭和19)年7月22日)(兼無任所大臣)に事実上の降格となり、これがきっかけで東條と不仲となる。東条内閣倒閣運動の際には国務省軍需次官を退いて東条内閣倒壊の端緒をつくる。
戦後、A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収容される。1948(昭和23)年東條英機らA級戦犯7名処刑の翌日に釈放され、まもなく自由党に入党。1950(昭和25)年7月14日暴漢に刺され重傷を負うという不運に見回った。1953(昭和28)年に再び衆議院議員。その後、自由党を除名され、1954(昭和29)年日本民主党に参加し、幹事長となる。保守合同後、自由民主党の初代幹事長となる。1956(昭和31)年4月5日自由民主党総裁公選(第2回臨時党大会)で鳩山一郎に敗れる(得票4 鳩山394)。12月14日、自由民主党総裁公選(第3回臨時党大会)で石橋湛山に敗れる(得票251 石橋258)。1956(昭和31)年12月23日〜1957(昭和32)年2月25日石橋湛山内閣で外務大臣。1957(昭和32)年1月31日、石橋首相病気のため、首相臨時代行(〜2月25日)。石橋首相病気退陣後の1957(昭和32)年3月21日、第4回党大会・総裁公選で第3代自由民主党総裁に選出され、内閣総理大臣(第56〜57代、1957(昭和32)年2月25日〜1958(昭和33)年6月12日)となる。就任後、国民健康保険法や国民年金法など社会福祉政策を推進する一方、日米安全保障条約の改定を目指す。1960(昭和35)年1月19日、アメリカで日米安全保障条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)に調印し、5月19日、新安保条約承認を衆議院本会議で強行採決するが、日米安全保障条約改正は、世論の激しい非難を浴び、安保闘争を激化させた。岸は「国会周辺は騒がしいが銀座や後楽園球場はいつも通りである」として事態の沈静化を図る。だが、東京大学学生樺美智子の死亡、東久邇・片山・石橋の3人の首相経験者による退陣勧告など事態が深刻化する。6月15日と6月18日、岸は防衛庁長官の赤城宗徳に対して自衛隊によるデモ隊の鎮圧の検討を命じるが、赤城は断固拒絶する。岸信介の政権延命のために自衛隊が使われること、岸がすでにアメリカに見捨てられたことを赤城防衛庁長官が知っていたことが拒否の原因であったという。一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と自殺を考えるところまで追い詰められた岸ではあったが、アイゼンハワー大統領の訪日延期の決定(6月16日)と参議院での批准議決がないままの条約の自動承認(6月19日)後に、一連の混乱の責任をとって内閣総辞職に追い込まれた上に辞任直前には右翼の荒巻退助の襲撃を受けている。
1967(昭和42)年4月29日勲一等旭日桐花大綬章受賞、1979(昭和54)年8月に、国連平和賞を受賞。その後、岸は派閥を福田赳夫に譲り、1979(昭和54)年政界を引退。引退後も隠然たる発言力を維持、政界において娘婿の安倍晋太郎を自民党総裁にするための蠢動などはいかにも不気味な印象を拭いきれず、読売新聞から「昭和の妖怪」との異名を奉られた。1987(昭和62)年8月7日死去、享年91歳。著作 「青年に望む」「日本の進路と安保条約」「二十世紀のリーダーたち」「我が青春」「岸信介の回想」。
http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/biblo/japan/ka/kishi.html
【参考リンク】
安倍総理の背後・勢力・・日本独立のための第16章(オルタナティブ通信)
http://www.asyura2.com/07/senkyo39/msg/157.html
投稿者 heart 日時 2007 年 7 月 22 日 16:18:57: QS3iy8SiOaheU
▲このページのTOPへ HOME > Ψ空耳の丘Ψ50掲示板
フォローアップ: