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株式日記と経済展望
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http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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ユリアヌス帝が構想したような全ての価値観が等しく尊重される社会、
あらゆる宗教の共生が可能となる世界は現代でも実現されていません。
2007年7月29日 日曜日
◆ギリシア・ローマの伝統の衰退とキリスト教の台頭 2006年6月11日 カウンセリングルーム
http://charm.at.webry.info/200606/article_7.html
(前略)
ローマ人に共有されるべき中心的価値観が希薄化するアノミーの混乱がローマ帝国を襲い、広大な帝国領土の分裂の危機が深刻化した。ローマ帝国の繁栄の絶頂から衰退の始まりを迎える時期に、ディオクレティアヌスが登場し、その後を、過酷な権力闘争に勝利したコンスタンティヌス(272-337)が受け継いだ。
『ローマ人の物語]W キリストの勝利』では、ヒスパニアのオチデント(西方世界)からササン朝ペルシアと国境を接するオリエント(東方世界)に至る広範な領土を得たローマ帝国の斜陽とキリスト教の急速な台頭が描かれる。
キリスト教教会から大帝(マーニュ)の尊称を送られたコンスタンティヌス大帝やテオドシウス大帝が、強大な精神的支柱として国家を統合するキリスト教を求め始めた時代の物語である。
ディオクレティアヌスもコンスタンティヌスも、政治的な混迷とローマ・アイデンティティ拡散の中で国防の求心力を失おうとするローマ帝国の救済策として、官僚制度を備えた専制君主制(ドミナートゥス)の強化を打ち出したことでは共通している。
しかし、ディオクレティアヌスは、当時の新興宗教であったキリスト教勢力の拡大を許さず弾圧したが、東方の正帝リキニウスとの権力闘争を経て絶対権力を掌握したコンスタンティヌスは、ローマ帝国の統一を維持する為の精神的支柱としてキリスト教を保護する寛容政策を取った。
313年にコンスタンティヌスが出したミラノ勅令によって、キリスト教は公認され、ゼウス(ユピテル)を主神とするギリシア・ローマの伝統宗教と対等な地位を得ることになるのである。
しかし、コンスタンティヌス大帝によるミラノ勅令発布の時点では、まだキリスト教はローマ帝国の正式な国教とはなっておらず、ギリシア・ローマの伝統である多神教や地方土着のアニミズムや供犠祭祀を行う宗教と対等の地位を保証されたに留まるものであった。
しかし、コンスタンティヌス自身が死の直前に洗礼を受けてキリスト教徒となり火葬でなく埋葬で葬られたように、キリスト教に対する心情的な思い入れや肯定的な配慮は強かった。
特に、コンスタンティヌス大帝の後に、ローマ帝国全領域を統括する専制君主となる次男のコンスタンティウスは、明確にキリスト教を保護優遇する宗教政策を打ち出すことになる。
(中略)
コンスタンティウスは、キリスト教を政治権力の正当性を担保する道具として利用しようとしたコンスタンティヌス大帝以上に、キリスト教を厚遇して様々な特権待遇を与えた。
364年には、キリスト教会(司教・司祭・助祭)のみに許されていた人頭税の免税特権を、教会関係の人間(生産手段としての農地・工場・商店)全てに拡大し、その後、地租税など全ての税金を免除される特別待遇を得ることになる。
現代日本でも、宗教法人は営利目的の世俗的な事業を行っているわけではないとして課税免除の特権を持っているが、コンスタンティウスは宗教団体に対する免税特権の付与の歴史の端緒を作ったともいえる。
コンスタンティウス帝が死ぬまで継続した親キリスト教の政策路線は、ギリシア・ローマの歴史的宗教である多神教を敵視する方向へと先鋭化していく。
そもそも全知全能の創造神を信仰し、その宗教教義を広範囲に布教拡大しようとするキリスト教やイスラム教のような一神教は、他宗教の教義や世界観と共存共栄を図ろうとする意志が初めからない。
一神教の宗教原理に忠実であれば、世界全体の支配者である天上の唯一神以外の神を信仰する集団・個人を看過できないはずである。
また、唯一神の存在を否定するような言論・表現の自由を容認することも難しいので、『価値観の多様性』を尊重する社会との宥和性は基本的に高くないだろう。
権力者が支持してくれなかったり、信者数が圧倒的に少なかったりして自分達が劣勢な場合には、他の宗教や価値観を容認せざるを得ないというだけである。
一神教の教会側に十分な権威(世俗の人々の支持)と財力(世俗の人々の寄進)があれば、異教徒や異端者との共生よりもそれらを排除して宗教的な同質化を進める行動を選択するだろう。
キリスト教の保護者であり続けたコンスタンティウスは、ユピテル(ゼウス)やポセイドン、アテネなどの多神教信仰に代表される伝統的な古代宗教を抑圧する為に、供犠・祭儀・偶像崇拝という宗教信仰に欠かせない要素を段階的に禁止していった。
哲学的な本質考究の営為を好み、当時、勢力を増していたキリスト教の特権的待遇を廃絶する『背教者(ユリアヌス・アポスタタ)』の称号を得たユリアヌスだが、『複雑化した官僚制度や行政機構の大幅なスリム化』という大規模な歳出削減につながる行政改革にも着手していた。
背教者ユリアヌス帝は、絶大なるローマ帝国皇帝の権力を自由自在に行使して、財政を逼迫する既得権益層の解体に尽力し、価値観の多様性や信仰の自由を認めない排他的なキリスト教会の動きを牽制した。
ユリアヌスという皇帝は、キリスト教史観から見れば、唯一神の権威に服従しない罪深い反逆者であるが、非宗教的な歴史観から見れば、『多神教と一神教の共生』というその後の人類の歴史で多くの戦争の原因となってきた課題を克服しようとし、宗教階級や官僚機構の不正な既得権益を廃止しようとした偉大な皇帝であった。
ユリアヌスは、コンスタンティヌス大帝からコンスタンティウスへと継承されたキリスト教優遇政策を中止するという楔を打ち込んで、ローマの伝統である多種多様な価値観や生活習慣を承認する『寛容(トレランス)の精神』を政治と宗教に取り戻そうとしたのである。
ユリアヌスは、異教徒(パガヌス)や異端者に対して共感を欠き容赦なく排除しようとする
しかし、ユリアヌス帝以後、ギリシア・ローマの伝統的な多神教を完全に邪教として退けるミラノ司教アンブロシウスが登場して、キリスト教教会の権威はより一層強まっていく。
キリスト教を392年に国教化したテオドシウス大帝(在位379-395)は、他宗教の信仰を禁止して、古代ギリシア(B.C.776)から1169年もの歴史があるオリンピア競技開催を廃止した。
西欧史においてオリンピックの祭典が廃止された393年は、『古代ギリシア・ローマ文明の終焉の年』であると同時に『世界宗教としてのキリスト教が勝利の凱歌を挙げた年』になったのである。
ミラノ司教アンブロシウスは、キリスト教会の意向に逆らったローマ帝国の最高権力者テオドシウス帝を糾弾して、公式にキリスト教会に対する贖罪の意志を示すように要求しました。
世俗のヒエラルキーで最も高い地位にある皇帝を謝罪させ、神の権威を背負う自らの前に跪かせたアンブロシウス。
アンブロシウスは、世俗権力と神聖権威が相補的に機能する『権力の二重構造』を知悉した聖職者であり、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世を屈辱の謝罪に追い込んだ『カノッサの屈辱』へと続く『世俗に対する宗教の優越』の範例を示した司教でした。
キリスト教をローマ帝国統一の最良の道具として利用しようとしたコンスタンティヌス、ローマ帝国皇帝の地位の正当性を神の権威で承認することで政治権力をコントロールしようとしたアンブロシウス、中世に至るまでヨーロッパ全土で勢力を拡大し続けるキリスト教は、世俗の政治権力にメタ(神)の次元からコミットすることによって、各時代の政権よりも長い命脈を保ち続けていく事になるのです。
ローマ帝国はテオドシウス帝の死後、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と西ローマ帝国に分裂することになり1453年に地上から消滅しますが、キリスト教のカトリックとプロテスタントは2006年の現代でもこの世界に悠然と存在し続けています。
ローマカトリックを頂点とするキリスト教会やプロテスタンティズムの教義が世俗社会に与える影響力はかつてほど大きくはないですが、未だ隠然とした存在感と権威性を保持しています。
イランやイラク、アフガニスタン、パキスタンといった中東のアラブ社会では、一神教のイスラム教の教義が持つ世界観や倫理観(規範性)が今でも政治や民衆に大きな影響力を与え続けていて、世俗権力と宗教権威が同一であったり拮抗していたりします。
ユリアヌス帝が構想したような全ての価値観が等しく尊重される社会、あらゆる宗教の共生が可能となる世界は現代に至るも全く実現されていません。
一神教と対立した多神教の力はますます衰えていて、一切の宗教言説や宗教規範にコミットしないという無宗教の人も経済が発展した先進国では増えていますが、一神教的な信仰や価値観が対立する構造は全く解消されていない状態です。
一神教同士の融通の効かない価値観の衝突だけでなく、グローバリゼーションと絡んだ経済的な利害関係が複雑に輻輳する中で、現代の解決困難な国際問題が構築されています。
現代社会に存在する国際紛争やテロリズムの解決の道筋は遥かに遠いですが、異質な他者を弾圧する排他的感情を抑制して、宗教や価値観の多様性をお互いに尊重する古代ローマ的な『寛容と公正の精神』を政治指導者と民衆が培っていくことが大切だと思います。
キリストの勝利 ローマ人の物語XIV (単行本)塩野七生(著)
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(私のコメント)
アメリカを現代のローマ帝国と考えている学者や政治家が非常に多いようです。特にアメリカの学者や政治家はローマ帝国の滅亡に関して関心を持っている人が多い。しかしキリスト教徒やユダヤ教徒にとってローマ帝国の滅亡の原因を考えることは非常な困難を伴うことになるだろう。それに対して日本人がローマ帝国の滅亡の原因を見つけることはきわめて容易だ。
世界史を見れば一神教のキリスト教やイスラム教が世界各地に存在していた多神教を駆逐していく歴史ですが、日本だけがキリスト教の布教状況はいまだにキリスト教徒は1%以下の存在であり、日本か仏教と神道とが混合した多神教の国だ。なぜ日本でキリスト教が広まらないのか世界の七不思議ですが、秀吉や家康の昔からキリスト教の危険な本質に気がついていたからだろう。
紀元3世紀のローマ帝国の皇帝と、紀元16世紀の秀吉とキリスト教に対して直面したのですが、日本では鎖国する事でキリスト教の侵入を防ぐ事ができましたが、ローマ帝国ではそれは無理だった。コンスタンティヌス大帝の頃はキリスト教とギリシャローマ神話の多神教などとは並立する存在だったのですが、その後のローマ皇帝によって従来の多神教は敵視されるようになっていった。
日本でもキリスト教が広まるにつれて神社仏閣の破壊など行なうようになり、秀吉はキリスト教の排他的な危険性に気がついてキリスト教への禁令を出すに至った。ローマ皇帝もキリスト教の価値観の多様性や信仰の自由を認めない排他的な危険性に気がついてユリアヌスはキリスト教会を牽制した。
これはローマ帝国がローマらしさを取り戻そうという行動でしたが、ローマ帝国の多種多様な価値観を認め、と人種や民族や宗教への寛大さがローマ帝国の特色であった。ローマ帝国の領土が広がるにつれて異民族や異なる言語や風俗習慣なども寛容の精神で排他することなくローマの一員となることが出来た。しまいにはガリア人やゲルマン人の皇帝まで出るようになったが、ローマらしさという価値観の共有は失われていなかった。
欧州から北アフリカから中東にいたる大地域の多民族、多言語、多宗教の大帝国なのですが、一神教のユダヤ教徒やキリスト教徒はローマ化することが出来なかった。彼らにとって排他的な選民思想からローマ的な文化は受け入れられなかった。だからローマ帝国は同化しようとしないユダヤ教徒やキリスト教徒を弾圧した。
◆多神教のローマ帝国の同化政策(ローマ化)と一神教のユダヤ人のディアスポラ(離散) 2006年12月16日 カウセリングルーム
http://charm.at.webry.info/200612/article_9.html
欧州と北アフリカ、中東という広大な版図を治めたローマは多民族・多言語・多宗教国家だったが、ユダヤ人やキリスト教徒といった一神教の信者以外のほぼ全ての民族をローマ化(同化)することに成功してきた。逆に言えば、世俗的なプラグマティストだったローマ人達が唯一、自分達の思想や行動様式、価値観に同化できなかった『ユダヤ的なアイデンティティ(排他的な選民主義)』こそが、来るべき未来のローマの崩壊を予見していたのである。自分達とは異なる宗教や思想を信じている異教徒を『同じ権利を有する人間』とは認めないという意味では、中世の封建社会確立から十字軍に至るまでのキリスト教もユダヤ教的な選民思想を継承していた。
アウグストゥス以降のローマ帝国で最も統治と同化が困難だったのがユダヤ民族であり、ユダヤ民族が厳しく非難するローマのネロ帝による迫害(ユダヤ戦争:66-70年)は、ユダヤ属州が反ローマの反乱を起こした後にヴェスパシアヌスやその子ティトゥスが実効支配をする形で行われた。ユダヤ人がユダヤ戦争で反乱を起こした直接の理由は、ユダヤ人の義務としてエルサレム神殿に寄付していた奉納金を、属州総督フロルスがユダヤ属州の社会インフラ整備に使ったことだったが、ユダヤ人は『信教の自由の保護』を求めていたのではなく『ユダヤ教に基づく宗教国家の建設(民族としての独立)』を求めていたのだった。何故なら、ユダヤ人には既に信教の自由だけでなく、公務(軍役・異教の祭儀)の免除まで与えられており、ローマ人は反ローマに決起しない限りは信仰の自由を全面的に承認していたからである。
ローマが与えることの出来る現世的な利益や保障よりも『来世における神の救済』を信じる敬虔な一神教徒は、政治的経済的な身分を保障されるローマ市民権を求めなかったのでローマ的な同化政策は原則として通用しなかった(一部のユダヤ人には棄教したものもいるが)。それだけではなく、多神教国家ローマが国是とした自由や寛容は、ユダヤ人やキリスト教徒のような一神教信者にとっては信仰上の堕落や裏切りを意味していたのである。ユダヤ人やキリスト教徒が表面的には大人しくローマ帝国の支配に従っていたのは、ローマ的な『寛容の精神(自由の尊重)』を支持するローマ人(属州人含む)の数的優位があり、圧倒的なローマ軍の軍事的優位があったからである。
ユダヤ民族に対する同化政策にも直轄統治にも失敗したローマは、五賢帝の一人で帝国各地の防衛線を再構築したハドリアヌス帝(76-138)の時代に、ユダヤ人の反乱(バル・コクバの乱:135年)を鎮圧してユダヤ人は聖地エルサレムから永久追放されることになる。ユダヤ人は反ローマ戦争に敗北して信仰の拠点である聖地エルサレムを追放されたが、ユダヤ人が自分達の国を持たずに世界各地に散らばっている状態を『ディアスポラ(離散)』といった。
ディアスポラの始まりが70年(第一次ユダヤ戦争)であるのか135年(第二次ユダヤ戦争)であるのかの意見は分かれているが、聖地であり祖国であったエルサレム(属州ユダヤ)を失うディアスポラに陥ったユダヤ人たちの共通目標は『聖地エルサレムへの帰還』であった。イスラエルに帰還してイスラエル(ユダヤ教国家)を復興しようとするユダヤ人の思想をシオニズムと呼ぶが、このユダヤ人独自の国家を建設しようとする建国運動(シオニズム)は1948年のイスラエル建国によって成就することになる。
しかし、イスラエル建国に成功した後でも、ユダヤ教の排他的な一神教の精神は失われておらず、四度に渡るアラブ国家群(イスラム教も最も強固な信念に支えられた一神教である)との中東戦争が起こり、現代においても中東問題(パレスチナ紛争)の根本的な解決は困難な状況である。全知全能の唯一神を敬虔に信仰する一神教は、世俗化されたキリスト教を除いて『価値観の多様性・伝統文化の批判・思想言論の自由』を容認する『寛容の精神』を持つことが原理的に不可能なのである。
(私のコメント)
近代国家というのは政治と宗教とが切り離された国家ですが、同時に多様な価値観や宗教をも認める国家だ。ヨーロッパ人にとってはキリスト教を克服する事で近代国家が成立した。排他的な選民主義は中世の十字軍遠征や17世紀の新教と旧教による壮絶なる宗教戦争の反省から政治と宗教の分離が進みましたが、多様な価値観を認めるローマ的な文化の復活でもあったのだろう。
日本人はクリスマスにはキリスト教徒になり、正月には神社にお参りをして、結婚式はキリスト教会であげても葬式はお寺のお墓に入るといった無節操な国民ですが、キリスト教的な排他的選民思想は馴染まない。キリスト教の宣教師は日本に沢山やって来ましたが、最初は非常に歓迎されてもやがては排他的な選民思想を聞かされると日本人は引いてしまう。
多種多様な価値観を認めたローマ人があのような大帝国を1000年にわたって維持できたのに対して、ユダヤ人は排他的な選民思想で戦争を繰り返して祖国を失ってしまった。現在のイスラエルも周囲のアラブ諸国と絶えず戦争を繰り返し、パレスチナの住民を排斥し続けている。そのことが祖国を失うもとだとなぜユダヤ人は気がつかないのだろう。
現代のローマ帝国を自負するアメリカにおいてもキリスト教原理主義が盛んになっている。まさにローマ帝国の滅亡の歴史を繰り返しているのですが、排他的で選民主義的なアメリカ大統領が現れた時、アメリカの滅亡の歴史は始まるのだろう。
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