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私の幸福論(福田恒存著)【しましまえんで】 2006.6.6
私の幸福論 cyber_bird @ 22:43:01 ( 読書 )
福田恒存著
私の幸福論
posted with amazlet on 06.08.04
福田 恒存
筑摩書房 (1998/09) Amazon.co.jp で詳細を見る
これは福田恒存が女性誌に連載したものであり、女性に向けた幸福論という設定ではあるが、さすがは福田恒存、男性が読んでも十分吟味に耐えうる内容である。
かなづかいも現代のもので、「性」の話の生々しさなど、福田恒存らしからぬ感じもしたが、その思想はまぎれも無く氏のものだ。深い思索と美辞麗句に逃げない誠実さに、本当の幸福とは何か、大いに考える契機を与えてくれた。
氏の幸福論は過酷だ。氏は決して奇麗事で現実を誤魔化そうとしない。聞こえのいい言葉で、読み手の気を惹こうとしない。だから、冒頭からいきなり容姿の話を持ち出すのだ。
【美醜によって、人の値うちを計るのは残酷かも知れませんが、美醜によって、好いたり嫌ったりするという事実は、さらに残酷であり、しかもどうしようもない現実であります。それを隠して、美醜など二の次だということのほうが、私にはもっと残酷なことのようにおもわれるのです。】
確かに大抵の人は、女(男)は顔じゃないなどと言いつつ、実際はルックスで判断しているものではないか。その現実を認めること。それは諦めることじゃない。この世には、自分の力ではどうにも変えられぬものが多々ある、ということを認めること、その素直さが幸福への第一歩となるのだ。
氏の論は、一見残酷なように見えて、その実、心から誠実に真摯に、読者が本当の幸福を人生の中に見出せるよう望んでいるのだ。
【恐ろしいことは、「理解」という美徳の信仰は、自分をも相手をも、自分が理解した小さな枠の中に閉じこめてしまうことです。(中略)
このばあい、さらに恐ろしいことは、相手にたいしてそれほど過酷であるにもかかわらず、たいてい自分には寛大であるということです。(中略)「理解」の美徳の落ちゆくさきは、まずそうした利己主義でしかありません。が、自分が相手とともにいて孤独だと思うときは、相手も孤独なのだと、なぜそう考える余裕をもたないか。】
耳の痛い言葉である。その想像力さえあれば、わたしもすでに結婚していたかもしれない。本当に目を開かされた気がする。
この本には、薔薇色の「幸福」は載っていない。それは快楽であり、真の幸福から程遠いものとして遠ざけられている。
その気持ちはわたしにもわかる。
別の記事に移したが、いわゆる「満ち足りた生活」というもの、財産があるとか社会的ステイタスがあるとか、そんなものでは計れない人生の幸福というものがあると思う。
この本は一読、いや百読に値すると思う。人生の理想・目標を見失いそうになったときに、これからもお世話になることだろう。
http://pub.ne.jp/cyber_bird/?entry_id=181443#more
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