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(1)46年前の「風流夢譚」事件。これが「恐怖の原点」だ
『論座』(8月号・朝日新聞社)の特集「天皇表現とタブー」は勇気がある。実にいい企画だ。そこに私も加えてもらい光栄だ。嬉しかった。
1961年の「風流夢譚」事件について、当時、「中央公論」社にいた粕谷一希さんに僕が話を聞いた。僕自身が体験し、悩み、迷い、苦しんできた「天皇表現とテロ」についても考えた。さらに平沢剛さん(映画研究)の「日本映画は天皇をどう描いてきたか」という原稿がある。全体で22ページの特集だ。
平沢さんは実に丹念にこの問題を紹介し、問題点を衝いてゆく。映画の中でこれだけ天皇が描かれていたのか。知らなかった。これはまさに「格闘の歴史」だという。読んで、勉強になった。
さて、粕谷さんの話だ。「論座」の編集部、カメラマンと共に、6月4日(月)、粕谷さんのご自宅にお伺いした。閑静な所で、ちょっと時間を忘れる。時代を忘れる。でも、ホテルの会議室よりも、ずっとよかった。だって1961年の〈事件〉について聞いているのだ。今から46年前の事件だ。半世紀前のことだ。でも粕谷さんは、つい昨日のように話してくれる。それだけ鮮明に覚えている事件なのだ。粕谷さんの家は、木造の広い家だ。かなり前からある。静かだ。まるで46年前に戻ったような雰囲気の中で話を聞いた。
あの事件については僕もずっと考えていた。又、「天皇表現とタブー」を考える時、いわば原点というか、スタートラインにあった事件だと思う。何かあると、「やめとこう。ほら、風流夢譚事件もあったことだし」と今も言われる。天皇問題を取り上げるのはこわい。右翼が殺しにくる。そういう〈恐怖〉があるのだ。その根底にあるのは1961年の「風流夢譚」事件だ。
しかし、この事件について、誰も突っ込んだ議論はしない。どうしたら言論テロをなくせるのか。何が問題なのか。果たしてあの事件を教訓に出来たのか。…等々について誰も書かない。だから僕は、当事者に直に話を聞いてみたいと思っていた。しかし実現しなかった。46年たって、やっと実現したのだ。
そうか。いくら僕が客観的に冷静に〈事件〉の話を聞きたいと思っても、他の人はそうは思わないのか。と、今、気がついた。右翼の「原罪」だよ。「風流夢譚」のことを聞きたいと言ったら、「右翼が又、抗議に来たのか」と思う。又、「言質をとられて後で街宣車がドッと来る」…。そういう風に思うのかもしれない。「当時の関係者に会いたい」と、いろんな人に頼んでたが、ダメだった。会ってくれる人もいない。インタビューさせてくれる媒体もなかった。
そして、やっとですよ。46年たって、出来た。随分と長い道のりだった。
1960〜61年は激動の年だった。〈60年安保〉の年で、20万人の労働者、学生のデモが国会を取り囲んだ。そのデモの途中、東大生の樺美智子さんが死亡した。警官隊に殺されたのだ、と「虐殺抗議デモ」が行われた。60年10月には、社会党の浅沼稲次郎委員長が山口二矢(17才)に刺殺される。その直後、「中央公論」に深沢七郎の「風流夢譚」が載る。「夢譚(むたん)」と言うように「夢の中」の話だ。ブラックユーモアだ。夢の中で、革命が起こり、皇族が処刑される。そして天皇、皇后、皇太子…が処刑される。それも実名で書かれている。
深沢は「ブラックユーモア」だと思ったのだ。あるいは革命恐怖小説なのかもしれない。しかし、右翼はそうは思わなかった。これは近い将来の話だと思った。そうはさせじと思った。そして1961年2月1日に、小森一孝(17才)が中央公論社の嶋中社長宅を襲った。そしてお手伝いさんを殺し、奥さんに重傷を負わせた。これが「風流夢譚事件」だ。あるいは「嶋中事件」と呼ばれているものだ。
山口二矢、小森一孝は二人とも17才だった。そして二人とも愛国党にいた少年だった。ただ、愛国党を飛び出した直後に事件を起こした。
この事件が起きた時、僕も17才だった。高校二年生だった。仙台のミッションスクールに通い、讃美歌を歌い、聖書を読む毎日だった。ただ、鬱屈した毎日だった。そんな時、同い年の二人のテロリストに出会った。勿論、テレビの報道で知っただけだが…。
同じ年で、ここまで考え、思いつめている人間がいる。そのことにショックを受けた。テロに賛同する気はなかった。自分とは全く無縁のことだ。でも、それを同じ17才がやった。どう考えていいのか分からなかった。その衝撃が後に右翼になる契機になったのだろう。「なぜ?」「なぜ?」と心の中で問いつめていったのだ。
二つのテロといいながら、人々の反応は全く違っていた。右翼の反応も違う。たとえば山口二矢は「烈士」だ。「山口神社をつくろう!」という運動さえあった。又、山口二矢は決行後、逮捕され、直後、自決している。その見事さからも神格化されている。右翼の中では三島と共に、神様だ。「いや、三島よりも山口二矢の方が立派だ」という人もいる。左翼のはずの若松孝二監督もそう言っている。監督は今年、「実録・連合赤軍」を撮ったが、次は「山口二矢」をやりたいという。
(2)あんな危ない小説をなぜ載せたのか?誰が?
山口二矢が浅沼委員長を刺殺したのは日比谷公会堂だった。その後、ここで浅沼さんの社会党葬は行われている。しかし驚いたことに同じ日比谷公会堂で山口二矢の追悼祭も行われ、多くの人がつめかけたのだ。日比谷公会堂もよく貸したものだと驚く。右翼だけでなく、一般の人も多く集まった。それだけ「17才のテロリスト」の鮮烈な行為に衝撃を受けたのだ。沢木耕太郎は『テロルの決算』(新潮文庫)を書いている。
右翼の青年に与えた影響も大きかった。「俺たちもこうでなくては…」「山口二矢に続こう」と皆、思った。
ところで、この3ヶ月後に起こった小森一孝の事件だ。同じテロなのにこれに対し、評価し、支持する右翼の人はいない。「敵を倒すのならともかく、無関係な女性を殺すなんて右翼の風上にもおけない」と皆、否定的なのだ。
愛国党の赤尾敏さんに言わせれば、これは〈誤爆〉なのだ。小森は極度の近眼だ。度の強い眼鏡をかけていた。興奮状態の中で眼鏡を落とした。全く見えない。動いて自分に近づく影がある。警察だと思って、とっさに刺した。ところがお手伝いさんと奥さんだった。
だから彼は〈烈士〉にはなれなかった。いや、今も生きている。名前を変え、どこかに生きているはずだ。しかし、誰も知らない。右翼関係者も知らない。ぜひ会って話を聞いてみたいと思うが無理だろう。
彼だって、もし、嶋中社長を殺していたら、〈英雄〉になっていた。少なくとも右翼業界では〈英雄〉になった。でも、〈誤爆〉のために、全く評価されない。誰も小説に書こうともしない。見沢知廉氏が生きていたら、書いたかもしれないが、残念だ。
しかし。と、ここで思う。その後の影響力の点では、むしろ小森の方が大きかったのではないか。だって、天皇について書こうとする時、又、雑誌、本を出そうとする時、必ずこの事件が思い出される。「いや、まずいよ天皇問題は。嶋中事件のこともあるし…」と。「こんなことをやって、右翼に襲われたら大変だ」と。
もう46年も昔のことだ。でも、「右翼は恐い」という原点になっているのがこの事件だ。又、「天皇表現のタブー」になっているのがこの事件だ。〈怖さの原点〉なのだ。にもかかわらず(いや、「だからこそ」と言うべきか)、まともに取り上げられなかった。真剣に考えられなかった。話し合われなかった。余りにリスクが大きいのだ。「言論の自由」にかかわる重要な問題だ。しかし、やらない。かかわりたくないのだ、皆。遠くから、安全圏から、「言論の自由を守れ!」と言うだけだ。
僕にとってもこの事件は「巨大な闇」だった。あの当時の左翼の勢いからすると、中央公論は覚悟を決めてやったのだと思った。「右翼なんか怖くない。来るなら来てみろ」と思ったのか。国会を20万人も取り囲む「人民の力」があるんだ。反天皇、天皇処刑の小説だって載せられる。「やれ!」と思ったんだろう。
でも、その直前に山口二矢のテロがあった。「こりゃヤバイ」と思った人はいないのか。それに、「風流夢譚」は、今読んでみても、ゾゾーッとする小説だ。「これは危ない」「やめるべきだ」と思った人はいなかったのか。それを当事者から聞いてみたかった。そして、46年たって、やっと実現したのだ。当事者とのインタビューが。
それともう一つ、三島由紀夫のからみがある。この小説が出た時、三島は推薦した。元々、深沢を高く買っていたし、文壇に登場させたのは三島だ。「風流夢譚」を読んで、面白いと思ったのだ。純粋にブラックユーモアだと思い、〈文学〉だと思った。だから、推薦した。「何なら俺の『憂国』も一緒に載せたらパランスがとれていいだろう」とも言った。
(3)「不敬だ!」と右翼は攻撃したが、三島は〈文学〉だと評価し、支持した
右翼は「不敬だ!」と騒いだ。しかし三島は、「不敬」とは思わなかった。あるいは「たとえ不敬でも文学として優れている」と思ったのかもしれない。ともかく、推薦した。ところが三島の「見込み」は外れた。たとえ三島の『憂国』を同じ号に載せたとしても何ら「防禦壁」にはならなかったろう。むしろ、三島共々やられただろう。
だって、嶋中社長宅が攻撃され、その後、右翼が三島の家に抗議に行ったのだ。三島が深沢作品を推薦した、という話が流れたからだ。その為、地元の警察官が数人、三島宅に常駐した。かなり長い間、警察官は三島宅をガードし、三島が外出する時もガードした。
「憂国」の小説や映画だって、たとえ一緒に載っても「防禦壁」にならなかった、と言った。その直後、「憂国」は別の雑誌に発表されたが、作品としても右翼の不評を買った。「こんなのはただのエロであり、グロテスクなだけだ!」と批判された。又、「英霊の声」が出た時は、「何が英霊だ!こんなのは怨霊の声だ!」と右翼は攻撃した。
三島は攻撃され、右翼の怖さ、卑怯さ、下らなさも知った。だからといって、「右翼憎し」で左翼に走りはしない。「こんな奴らは右翼じゃない。俺の方こそが愛国者だ。右翼だ!」と思ったことだろう。その時の鬱憤、悔しさが「楯の会」を作る時の一つの要因になっていたと思う。
三島は「風流夢譚」を〈文学〉として認め、評価した。しかし、今読み返してみても、僕はそこまで言う気はない。言えない。しかし、三島が断定するのだから、(僕らは理解できないが)本当は凄い作品で、立派な文学かもしれない。そんなことを感じる。
又、かつて、「不敬だ!」「許せない!」といって攻撃された作品にも〈文学〉や〈芸術〉はあったのかもしれない。下らない作品は多かったと思うし、「便所の落書き」のようなものも多かったと思う。しかし、21年前、富山県立近代美術館に大浦信行さんの「遠近を抱えて」が展示された時は、全国の右翼が富山に行って抗議行動をした。昭和天皇を描いたコラージュだったからだ。
しかし、今は、その作品はいろんな媒体で紹介されている。今回の『論座』にも紹介されている。発表した当時は理解されなくても、時間が経ち、〈芸術〉として理解され出したのだろう。ピカソの「ゲルニカ」のようなものかもしれない。そうした自分の「迷い」というか「疑問」のようなものを「論座」には書いた。粕谷さんへのインタビューとは別に書いた。
「不敬だ」といって芸術を葬り去っていいのか
=天皇に異常に熱くなる右翼の迷い=
という原稿だ。まだまだ論争はあるだろう。又、これは〈芸術〉なのかどうか。そうした論議をする〈場〉は必要だと思う。それもなしに、全ては「問答無用」で葬り去っていいわけはない。又、天皇を扱った映画、芝居、コメディについてもそうだ。右翼の抗議行動だけが問題にされるが、「天皇表現」の側にも問題はあるだろう。どんなものでも構わない。「表現の自由だ」「言論の自由だ」と言っていいのか。その点も考えた。
粕谷一希さんは、あの「風流夢譚」は掲載すべきでなかった、という。これは驚きだった。当事者が言うだけに説得力がある。
〈天皇制は、筋を通した「論説」で主張すべきだった〉
と言う。これは決して敗北主義ではない。深沢七郎は芸術家だから、表現は何でもありだ。しかし、「中央公論」がそれを載せるかどうかを決めるにあたって、「配慮」が足りなかったと言う。
普通の人なら名誉棄損なのに、皇室の人なら何を言われてもいいのか。又、国民の気持ちもある。それらを考えないで載せてしまった。では、誰が事前に読み、誰がゴーサインを出したのか。そのことについても詳しく聞いた。読んでほしい。46年目にして語られる「貴重な証言」だと思う。
(4)「風流夢譚」事件のその後。さらに奇妙な事件が…
〈この事件〉は実は、今も続いている。今だって、天皇を表現するのは怖い。ソクーロフさんの映画「太陽」を撮る時も、日本の学者、評論家は皆、反対した。「嶋中事件のようになる」「右翼が襲ってくる」「命はないよ」と皆、ソクーロフさんに言った。「賛成したのは鈴木さん一人でしたよ」とソクーロフさんは言っていた。
そうだ。「風流夢譚」事件直後にも中央公論社は「過激な反応」をした。当時、中央公論社は『思想の科学』の発行を引き受けていた。そこでは「天皇制特集号」を作った。反対論だけではなく、保守派の竹山道雄まで書いた。又、右翼の葦津珍彦さんも書いた。出ていたら右翼だって評価しただろう。
ところが中央公論社は、「これは危ない」と思った。〈天皇〉とつくものは全て危ないと思った。内容のことなんて全く分からない製作部長が、勝手に断裁してしまった。「こんなのが世の中に出たら大変だ」と恐怖にかられて断裁にしたのだ。ひどい話だ。これだって「言論テロ」だろう。
さらにこの『思想の科学』事件には、もう一つ後日談がある。断裁されたはずの『思想の科学』が公安調査庁係官を通じ、右翼の手に渡され、葦津先生の論文だけが大東塾の『不二』に掲載されたのだ。葦津先生の大論文まで断裁されるのは勿体ないと思ったのだろう。それに、公安調査庁がからんでいるというのが、「今日的」だ。堀幸雄の『右翼事典』(柏書房)にこの事件は、詳しく書かれている。それによると…。
「思想の科学」は1962年新年号に「天皇制特集号」を企画し、1961年12月18日に校了した。ところが、12月21日、発売中止を決めた。(粕谷さんは製作部長が独断で断裁したと言う)。「右翼を怖れて言論が沈黙したのである。これが第一の事件である」
さらに続ける。
〈第二は廃刊に当って同号は二部だけ思想の科学研究会が受取り保存し、他はすべて断裁されたはずだったのが、中央公論社側から公安調査庁の保安係根本係官の手を通って三浦義一にわたり、特集号の中の葦津珍彦の論文「国民統合の象徴--神道思想家の天皇制観」が大東塾の不二歌道会の機関誌『不二』(新春号)にサブタイトルを変えて発表されたことである。研究会側の抗議で中央公論社は二月三日、謝罪文を同会に送った。研究会側では“権力に言論を売った”として中央公論社を厳しく批判、竹内好ら幾人かが以後『中央公論』への執筆を拒否した〉
朝総連の会館をめぐる事件にしろ、公安調査庁は昔から脇が甘いのだ。しかし、なんとしても、葦津先生の大論文は発表すべきだと思ったのだ。じゃ、この時点で、「思想の科学」の「天皇制特集号」そのものを出せばよかった。彼らも、勝手に発表したらよかった。右翼だって、支持したろうよ。天皇制をめぐっての誌上での「左右激突」が行われたのだから。「権力に言論を売った」という批判にしろ、「執筆拒否」という対応にせよ、「思想の科学」側もだらしないと思う。
ということも、今だから言えることかもしれないが。ともかく、今回は『論座』に貴重な場を提供してもらい、ありがたかった。この問題は、これからも、じつくりと考えていきたい。それを読んで、僕に対する批判もあるだろう。叱ってほしい。「お前は甘い」「不敬な落書きは消すしかない」…という人もいるだろう。その上で又、考えてみたい。
又、この『論座』には、映画「Tokko(特攻)」が紹介されていた。「あなたはカミカゼを知っていますか」という題で、監督のリサ・モリモトさん、脚本のリンダ・ボーグランドさんが取材に応じていた。もうすぐ公開になる。ぜひ見てほしい。
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